第303話 港町の夜
レイモンドとの話を終えた頃には、窓から差し込む陽も随分と傾いていた。
今日中にポートミルを出たところで、日が沈むまでに次の町へ辿り着けるかは分からない。そのためレオンとエミルはフェルナード邸で一晩世話になり、翌朝ノルディアへ向けて出発することになった。
用意された客室へ荷物を置いたレオンは窓から外を眺める。遠くには夕日に照らされた海が広がり、その手前では港に停泊する何隻もの帆船が小さく見えていた。
フェルナードが避難民の受け入れに協力してくれることになった。それだけでも今回ここまで来た意味は十分にあった。
もちろん、これで全てが終わったわけではない。受け入れられる人数を調べ、土地を確保し、食料や住居、仕事についても考えなければならない。王国からどこまで支援してもらえるのかも決まっていない。
それでも何もなかった昨日までとは違う。
もしノルディアが大氾濫によって壊滅したとしても、領民が生き延びるための場所を一つ増やすことが出来た。
「……あとは教国か」
レオンが小さく呟いたところで、扉を叩く音が響いた。
「レオン君、いらっしゃいますか?」
「いるよ」
扉を開けるとエミルが立っていた。
「どうした?」
「いえ、その……」
エミルは少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。
「先ほど、魚が美味しいと仰っていたので」
「ああ」
「夕食まで少し時間がありますし……町を見てみたいと思いまして」
レオンは一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「海もほとんど見たことないって言ってたもんな」
「はい」
「じゃあ行くか」
「よろしいのですか?」
「俺も久しぶりに港を見たいしな」
二人は使用人へ外出することを伝え、フェルナード邸を出た。
夕暮れのポートミルは昼間とは少し違う顔を見せていた。仕事を終えた商人や船乗り達が酒場へ入り、代わりに漁から戻ってきた船から魚を降ろす漁師達の声が港に響いている。
通りの店先には魚や貝が並び、焼き魚の香ばしい匂いが潮風に混じって漂っていた。
「いい匂いですね」
エミルが思わず足を止める。
レオンも匂いのする方を見ると、小さな露店で串に刺した魚を焼いていた。
「食べる?」
「ですが、もうすぐ夕食では?」
「一本くらいなら大丈夫だろ」
「……では」
二人で露店へ向かい、焼き魚を一つずつ買う。
エミルは受け取った魚を少し眺めてから口へ運んだ。
「……美味しいです」
「だろ?」
「はい。塩だけですよね?」
「たぶんな」
海の近くということもあって魚が新鮮なのだろう。余計な味付けなど必要ないほど美味かった。
エミルはもう一口食べる。
その表情が普段より少し幼く見えて、レオンは思わず笑った。
「何ですか?」
「いや。そんなに魚好きだったんだなって」
「違います。美味しいものが好きなだけです」
「同じようなもんじゃない?」
「違います」
少しだけ頬を膨らませるエミルを見て、レオンはまた笑う。
帝国へ向かう前なら、こんな会話をすることはほとんどなかった気がする。
ノルディアを出てから長い時間を二人で過ごした。
馬車で話し、同じ宿に泊まり、帝国では様々な出来事に巻き込まれた。王都まで戻り、今度はフェルナードまで来た。
最初は教国から派遣された観察員だった。
それが今では、隣にいることが随分と自然になっている。
二人は焼き魚を食べながら港へ向かった。
桟橋まで来ると視界が一気に開ける。
「わぁ……」
エミルが小さく声を漏らした。
夕日が海の向こうへ沈もうとしていた。
赤く染まった空が海面へ映り込み、波が揺れるたびに光が細かく砕ける。沖から戻ってくる帆船の影がその中をゆっくりと進み、頭上では海鳥が鳴きながら飛んでいた。
昼間に丘の上から見た海とはまるで違う。
エミルは何も言わず、その景色を見つめていた。
レオンも隣に立つ。
しばらく二人の間に会話はなかった。
聞こえるのは波の音と、少し離れた場所で働く人々の声だけだった。
やがてエミルが静かに口を開く。
「本当に広いですね」
「海がか?」
「はい。初めて近くで見ると、どこまで続いているのか分からなくて……少し不思議な感じがします」
「向こうにも国があるんだろうけど、ここからじゃ何も見えないもんな」
「はい」
エミルの赤い髪が潮風に揺れる。沈みかけた夕日の光を受け、普段よりも鮮やかに見えた。
「来てよかったです」
エミルが呟く。
「フェルナードに?」
「それもありますが……今回の旅です」
レオンはエミルを見る。
「帝国へ向かうと決まった時は、正直どうなるのか分かりませんでした。王国と帝国の間に立つ見届け人など初めてでしたから」
「俺も帝国へ行くの初めてだったぞ」
「レオン君は緊張しているようには見えませんでした」
「してたよ」
「本当ですか?」
「皇帝がどんな人かも分からなかったし、帝国に入ったらいきなり決闘させられるし」
エミルが小さく笑う。
「ミコトさんとの決闘ですね」
「あれは本当に予想外だった」
「ですが、随分と気に入られていましたね」
その声がほんの少しだけ低くなった。
レオンは首を傾げる。
「またその話?」
「別に何も言っていません」
「前にも聞かれた気がするんだけど」
「気のせいです」
エミルは海へ顔を向けた。
レオンは少し不思議に思ったが、それ以上追及しなかった。
少ししてエミルが尋ねる。
「レオン君」
「ん?」
「今日のフェルナード伯爵とのお約束、本当に守ってくださいね」
一瞬、何のことか分からなかった。
だがすぐに第一条件のことだと気づく。
「生きて帰ってこいってやつ?」
「はい」
エミルは海を見たまま答える。
「レオン君は、自分のことを後回しにするところがありますから」
「そんなことないと思うけど」
「あります」
エミルに即答された。
「帝国でもそうでした。何かあれば自分で確認しようとしますし、危険だと分かっていても必要なら前へ出ようとします」
「領主だからな」
「それを言えば何でも許されると思っていませんか?」
「思ってないよ」
「本当でしょうか?」
エミルがこちらを見る。
蒼い瞳が真っ直ぐレオンへ向けられていた。
「領民の方々を生かすためにこれだけ準備をされているのですから、レオン君も生きて帰らなければ駄目です」
その声はいつもの落ち着いたものだった。
だが冗談ではないことは分かる。
レオンは少し黙った後、頷いた。
「ああ。分かってる」
「本当ですか?」
「レイモンド伯爵にも約束したしな」
「私にも約束してください」
「エミルにも?」
「はい」
レオンは少し驚いた。
だが断る理由もない。
「ああ」
夕日に照らされた海を背に、レオンは笑った。
「約束するよ」
「絶対ですよ」
「分かったって」
ようやくエミルの表情が緩んだ。
「それならいいです」
再び二人で海を見る。
レオンは何となく思った。
父が生きていた頃、自分がこんなことを考える日が来るとは思っていなかった。
領地を治めること。
他国の皇帝と交渉すること。
国王へ帝国軍の入国許可を求めること。
そして何万人もの命が懸かった避難先を探すこと。
全部、十六歳の自分が背負うことになるとは思っていなかった。
それでも一人でやっているわけではない。
ノルディアにはクロエやゼムがいる。
それにガレスや騎士達もいる。
帝国ではルーカスやジークハルトと話をまとめた。
王国ではアレクと国王が話を聞いてくれた。
フェルナードではレイモンドが協力してくれる。
そして今、隣にはエミルがいる。
「エミル」
「はい?」
「ありがとうな」
突然言われたからか、エミルが目を瞬かせる。
「何がですか?」
「今回の旅。帝国からずっと付き合ってもらってるし」
「それは私の役目ですから」
「それでもだよ」
レオンは笑う。
「エミルが一緒でよかった」
一瞬、エミルの動きが止まった。
「……そういうことを」
「ん?」
「いえ……何でもありません」
エミルは僅かに顔を逸らした。
夕日のせいなのか、その頬が少し赤く見える。
「そろそろ戻りましょう」
「もう?」
「夕食に遅れてしまいます」
「そうだな」
二人は並んで港を離れた。
来た時にはまだ明るかった空も、今では赤から紫へと変わり始めている。
通りには灯りが点き始め、酒場から楽しそうな笑い声が聞こえていた。
フェルナード邸へ戻る途中、エミルは一度だけ振り返る。
遠くに見える海は夕闇に包まれ始めていた。
それでも彼女の表情はどこか楽しそうだった。
翌朝、朝食を済ませたレオンとエミルは、フェルナード邸の玄関前に停められた馬車へ荷物を積み込んでいた。
見送りに出てきたレイモンドへ、レオンは改めて頭を下げる。
「今回はありがとう、レイモンド伯爵」
「いえ。こちらでも出来ることから調査を始めておきます。受け入れ可能な土地や食料、物流についてある程度まとまりましたら、ノルディアへ報告をお送りいたします」
「ああ。こっちでも必要な人数とか物資を出来るだけ具体的にしておく」
「お願いいたします」
そしてレイモンドは少しだけ表情を和らげた。
「それから、昨日のお約束をお忘れなく」
レオンは苦笑する。
「分かってるよ。必ず生きて帰ってくる」
「そのお言葉、覚えておきます」
隣にいたエミルも小さく頷く。
「私も覚えていますからね」
「二人から言われると逃げ道がないな」
「逃げる必要などございません」
レイモンドが笑う。
レオンとエミルは馬車へ乗り込んだ。
ゆっくりと馬車の車輪が回り始める。
フェルナード邸を離れ、ポートミルの町を抜けていく。
窓の向こうには朝日に照らされた海が広がっていた。
エミルはその景色が見えなくなるまで、しばらく窓の外を眺めていた。
やがて海が建物の向こうへ消える。
レオンは前へ視線を戻した。
「さて」
「はい」
「ノルディアに帰るか」
「はい」
帝国から始まった長い旅も、ようやく終わりが見えてきた。
だがエミルには、ノルディアへ戻った後にもう一つ大切な役目が残っている。
教国へ戻り、セリオスへ避難民の受け入れを頼むこと。
フェルナードとの話はまとまった。
残るもう一つの避難先。
教国がどのような答えを出すのか。
この時の二人はまだ、その答えが避難民の未来だけではなく、自分達二人の関係にまで大きく関わることになるとは知らなかった。




