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乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います(編集中)  作者: トンビが鷹を産んだトンビの方
第8章 帝国の大和撫子と英雄の末裔

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第294話 好きな女性

帝都を出発してから、すでに数日が過ぎていた。

レオンとエミルを乗せた馬車は、王国へ続く街道をゆっくりと進んでいる。

窓の外には帝国の広大な景色が広がり、遠くに見える山々や、街道沿いに点在する小さな集落が、馬車の進行に合わせて後方へ流れていった。

帝都へ向かっていた時とは違い、今のレオンの肩には、旅立った時に感じていたような重圧はない。

背負っていた大きな仕事の一つを、無事に終えることができたからだ。


王国と帝国の和平。


教国を第三国の立会人として結ばれた正式な条約には、皇帝ジーカス・ヴァルハイトと、第一皇子ジークハルトの名が並んでいる。

これによって、少なくともレオンが知っている乙女ゲームの未来は、大きく変わったはずだった。

原作では、後継者争いによって帝国が二つに割れ、その混乱が最終的に王国との戦争へ発展する。

そしてルーカスルートでは、ジークハルトが悪役として立ちはだかり、最後には命を落とすことになる。

だが、今回の和平条約によって、ジークハルトは帝国内だけではなく、王国や教国からも次期皇帝として認識される立場になった。

皇帝ジーカスと並んで条約へ名を記した事実は、ジークハルトが帝国の後継者であると国外へ示したことに等しい。

もちろん、これだけで全てが解決したなどと、レオンも楽観視してはいなかった。


帝国の内部には、今もジークハルトを支持する者と、ルーカスを支持する者がいる。

長い時間をかけて生まれた対立が、一枚の条約によって完全に消えるわけではない。それでも、未来は確実に変わり始めている。

少なくとも、原作と同じ道を、そのまま進むことはないだろう。


レオンは窓の外を眺めながら、ようやく小さく息を吐いた。

その向かい側には、エミルが静かに座っている。

帝都を出発してから何度か休憩を挟んでいたが、ノルディアまではまだ何日もかかる。

さらに、ノルディアから王都へ向かうには十四日ほど必要になる。

そこでレオンは、これまで深く考えていなかった疑問を覚えた。


「そういえば、エミル」


名前を呼ばれたエミルが、窓の外からレオンへ視線を戻す。


「はい?」


「本当に、エミルもこのまま王都まで来るのか?」


エミルは質問の意図が分からなかったのか、僅かに首を傾げた。


「そのつもりですが……どうしてですか?」


「いや、和平条約はもう結んだだろ?」


今回、エミルが帝国まで同行した最大の理由は、王国と帝国の和平を、教国の人間として見届けるためだった。その役目は、すでに終わっている。


レオン達は、帝都から一度ノルディアへ戻る予定になっていた。そのためレオンは、エミルもノルディアまでは同行するものの、そこで別れて教国へ帰るのだろうと思っていた。


「ノルディアからなら、そのまま教国へ戻れるだろ? 王都まで来たら、余計に遠くなるぞ」


「確かに、そうですね」


「だったら、無理に王都まで付き合わなくてもいいぞ」


エミルは少し考えるように視線を落とした。しかし、やがて静かに首を横へ振った。


「いえ、王都までは同行させてください」


「何か理由があるのか?」


「今回の和平について、レオン君は国王陛下へ直接ご報告されるのでしょう?」


「ああ、そのつもりだ」


王都へ到着すれば、まずはアレクに話を通す必要があるだろう。

その後、最終的には国王へ、帝国で決まった内容を直接報告することになる。

報告するのは、和平条約についてだけではない。

バルト山脈で行う帝国との共同討伐についても、王国側から正式な許可を得なければならない。

特に、帝国兵をノルディア領内へ入れる以上、いかに領主であるレオンといえども、自分の一存だけで進めてよい話ではなかった。

レオンが頷くと、エミルは真剣な表情で口を開いた。


「でしたら、私も同席した方がよろしいかと思います」


「エミルも?」


「はい。レオン君は王国の貴族です。そして、今回の和平相手は帝国です」


エミルは膝の上で両手を重ねたまま、落ち着いた声で続ける。


「当事国の方だけで合意内容をご報告するよりも、どちらの国にも属していない教国の人間である私が同席した方が、和平が正式に結ばれたことを証明しやすくなります。私は教国から派遣された立会人として、王国と帝国の話し合いを最初から最後まで見届けました。国王陛下へご報告する際にも、私から条約が両国の合意によって結ばれたことを証言できます」


「なるほど……」


レオンは納得して頷いた。


確かに、エミルの言う通りだった。


レオンが国王へ帝国との話し合いの内容を報告しても、それはあくまでも当事者による報告になる。レオンを疑う者はいないかもしれないが、王国内の貴族全員が、帝国との和平を歓迎するとは限らない。

中には、帝国が本当に条約を守るのかと疑い、話し合いそのものへ異議を唱える者が出てくる可能性もある。


だが、エミルは違う。


エミルは王国にも帝国にも属しておらず、教国から正式に派遣された和平の立会人である。

そのエミルが同じ内容を証言すれば、報告の持つ意味と重みは大きく変わる。


「そこまで考えていたのか」


「それが、今回の私の役目ですから」


エミルはそう答えると、少しだけ表情を和らげた。


「それに、ここまで来たのですから、最後まで見届けたいと思っています」


「そうか」


レオンは素直に頷いた。


「それなら、王都まで頼む」


「はい」


これで、エミルとはもうしばらく一緒に旅を続けることになる。

そう考えたところで、レオンは帝都に滞在している間に思いついたことを思い出した。教国に関係する話であり、エミルが帰国する前に相談しておいた方がよい。


「エミル、もう一つ相談していいか?」


「もちろんです」


「避難場所のことなんだけど」


「避難場所ですか?」


「バルト山脈の大氾濫に備えて、ノルディアでは領民を避難させるための街を造っているのは知っているだろ?」


「はい。ノルディアへ滞在している間に、何度かお話を伺いました」


エミルもノルディアに滞在していた以上、その計画については知っている。

バルト山脈で大氾濫が起きた時に備え、ノルディア領内では、領民を一時的に集めるための避難場所を整備している。しかし、帝国で共同討伐の話を進めるうちに、レオンは領内に避難場所を用意するだけでは不十分かもしれないと考えるようになっていた。


「その避難場所だけでは、足りないかもしれないと思っている」


「足りない……ですか?」


「ああ」


レオンは馬車の揺れに合わせて僅かに体勢を整えると、少し身を乗り出した。


「大氾濫が起きそうになった時、領民全員を一ヶ所に集めるのは危険だと思うんだ。避難場所へ向かう途中で魔獣に道を塞がれるかもしれないし、一ヶ所へ集まり過ぎれば、食料や水の問題も起きる。それに、もし避難場所そのものが襲われたら、逃げ道がなくなる」


エミルは口を挟まず、真剣な表情でレオンの話を聞いていた。


「だから、避難する方向を二つに分けたい。一つは、ノルディア領の最南端。もう一つは、教国方面だ」


「教国方面……」


「ああ。ただし、こっちはまだ、俺が勝手に考えているだけだ」


話しながら、レオンは僅かに言い直した。

当然ながら、他国の領土をノルディア領民の避難場所として、勝手に利用できるはずがない。王国側の許可だけではなく、教国側の正式な承認も必要になる。


「王国側の許可を得られたら、セリオスさんに相談してもらえないか?」


「セリオス様に、ですか?」


「ああ。教国側に、ノルディアの領民を一時的に避難させられる場所を用意できないか、聞いてほしいんだ」


エミルはすぐには答えなかった。

視線を落とし、レオンの提案が何を意味するのか、慎重に考えているようだった。


「かなり大きなお話になりますね」


「分かっている」


避難するのは、数十人や数百人ではない。大氾濫の規模によっては、何千、あるいは何万という領民を移動させることになる。

それほどの人数を受け入れるには、土地だけではなく、食料や水、寝床、治療施設なども必要になる。

一時的な避難だとしても、教国側へ大きな負担を強いることは間違いない。

簡単に受け入れてもらえるとは、レオンも思っていなかった。


「それだけじゃないんだ」


「まだあるのですか?」


エミルが少し驚いた表情で顔を上げる。


「ああ。本当に大氾濫が起きた場合、その避難場所から、さらに教都まで領民を逃がせないか相談したい」


「教都まで……」


「もちろん、最悪の場合の話だけどな」


レオンは窓の外へ視線を向けた。

大氾濫を未然に防ぐことができるのなら、それが一番よい。

これから二年近くの時間をかけて帝国と共同で準備を進め、バルト山脈に生息する魔獣の数を少しずつ減らしていく。そのために両国の兵士を動かし、討伐によって得られた素材の利益も公平に分配する仕組みを整えようとしている。

しかし、それだけの準備をしても、大氾濫を確実に防げる保証はない。

魔獣の数を減らすことができても、バルト山脈で何が起きて大氾濫へ繋がるのか、その正確な原因までは分かっていないからだ。


「領民を避難させることができても、ノルディアそのものが壊滅したら、帰る場所がなくなる」


「……はい」


「だから、最初からその後のことまで考えておきたいんだ」


教国方面へ避難した領民は、状況に応じて、そのまま教都へ移動させる。そして、ノルディア領の最南端へ避難させた領民についても、別の二次避難先を確保する必要がある。


「南側へ避難させた領民は、もし本当に大氾濫が起きたら、フェルナード方面へ逃がせないかと思っている」


「フェルナード領ですか?」


「ああ」


フェルナード領は、王都よりもさらに先にある。


バルト山脈から発生した魔獣の大群がノルディアを越え、王都を越え、さらにフェルナード領まで到達するなど、通常であればまず考えられない。

もし魔獣がフェルナード領へ迫るほど侵攻しているのなら、その時点で大氾濫はノルディアだけの問題ではなくなっている。王都も危機に陥り、王国そのものが壊滅しかねない状況だろう。

だからこそレオンは、フェルナード領を、ノルディアの街や村を失った領民が新たな生活を始めるための二次避難先として考えていた。

広大な海と港を持ち、交易によって栄えているフェルナード領ならば、内陸の領地よりも食料を確保しやすい。海路を使えば、王国内の他領や国外から物資を運び込むこともできる。

もっとも、それは全てレオンの考えに過ぎない。


「ただ、フェルナードの方も、まだ何も決まっていない」


「レイモンド様には、もうお話をされたのですか?」


「いや、まだ何も話していない」


「そうなのですね」


「まだ、俺が勝手に考えているだけだからな。まず王都で国王陛下に相談して、その許可を得てからフェルナードへ行く。それから、レイモンド様に助力をお願いするつもりだ」


もちろん、断られる可能性もある。


何千、何万という人間を受け入れることになれば、いかに豊かなフェルナード領であっても、領地にかかる負担は計り知れない。食料や住居の問題だけではなく、元から暮らしている領民との間に争いが起きる可能性もある。

レイモンドと親しいからといって、簡単に頼める話ではなかった。


「だから、エミルにも今すぐ何かを約束してほしいわけじゃない」


レオンは窓からエミルへ視線を戻した。


「王国側で話が通ったら、その時にセリオスさんへ相談してくれればいい」


「分かりました」


エミルはレオンの目を見ながら、はっきりと頷いた。


「王国側で許可が下りた後、私からセリオス様へお話しします」


「助かる」


「ですが……」


エミルが少し困ったように笑った。


「レオン君は、帝国との和平を結ぶために旅へ出たはずなのに、帰る頃には、また大きなお仕事を増やしているのですね」


「俺も、そう思う」


ノルディアへ戻ってクロエに話したら、きっと怒られるだろう。

いや、怒られるかもしれないという程度ではない。間違いなく怒られる。

帝国との和平を結ぶために出発したレオンが、教国とフェルナード領を巻き込む大規模な避難計画まで持ち帰るのだから、クロエが頭を抱える姿は容易に想像できた。

そんなレオンの表情から考えていることを察したのか、エミルは小さく笑った。

避難計画についての話が終わった後は、しばらく他愛もない会話が続いた。

帝都で起きた出来事や、スルガ家で食べた料理、ミコトとの決闘。そして、レオンとは別にアメラン家で過ごしていたエミルの話。


「そういえば、メリトさんとネフェルさんには、随分お世話になりました」


「アメラン家の双子か」


「はい。最初は少し緊張していたのですが、とても良くしていただきました」


「へえ」


レオンは、あの二人とそれほど長く話したわけではない。それでも、二人が妙に息の合った双子だったことは、よく覚えていた。

見た目こそよく似ているが、性格には違いがある。しかし、一人が言葉を止めれば、もう一人が当然のようにその続きを口にする。二人で一つの話をしているような、不思議な姉妹だった。


「また帝国へ行くことがあったら、会えるかもしれないな」


「そうですね」


エミルは笑顔で頷いた。

しかし、そこで何かを思い出したようにレオンを見つめる。すぐには口を開かず、尋ねてもよいものかと迷うように、僅かに視線を揺らした。

やがて、意を決したように口を開く。


「レオン君」


「ん?」


「一つ、聞いてもよろしいですか?」


「いいぞ」


エミルは膝の上で両手を重ねた。

先ほどまでと同じ姿勢のはずなのに、何故か避難計画について話していた時よりも緊張しているように見える。


「レオン君は、ミコトさんのような積極的な女性が好きなのですか?」


「……どうして、そうなる?」


レオンは思わず眉を寄せた。

まさか、そのような質問をされるとは思っていなかった。


「いえ……ミコトさんは、かなり積極的でしたので」


「かなりどころじゃないだろ」


勝ったら婿になれ。


負けたら嫁になる。


レオンがその条件を断れば、今度は勝てば子種をもらい、負ければ好きなだけ抱かれるという条件に変えてくる。

あそこまでくると、もはや積極的という一言で片付けてよいのかも怪しい。


「ですが、レオン君は、あまり嫌そうではありませんでした」


「それは、ミコトを嫌っているわけじゃないからな」


ミコト自身は、真面目で努力家な少女だ。帝国の武人らしい価値観には驚かされることも多いが、決して悪い人間ではない。

それどころか、スルガ家を支える者として、自分にできることを懸命に考えている。

レオンも、ミコトには好感を抱いていた。

ただし、それと結婚するかどうかは、まったく別の話だった。


「もし俺が、ミコトやフローラみたいな積極的な女性を好んでいるなら、今頃どちらかと婚約しているだろ?」


「……確かに、そうですね」


エミルは妙に納得した様子で頷いた。

フローラも、ミコトとは違う方向で遠慮がない。レオンへの好意を隠そうともせず、隙があれば距離を縮めようとしてくる。

レオンが積極的な女性を好んでいるのなら、フローラの想いを受け入れていても不思議ではなかった。


「では……」


エミルは、少しだけ視線を逸らした。


「レオン君は、どのような女性が好みなのですか?」


「俺の好み?」


改めて尋ねられると、レオンにもすぐには答えられなかった。

容姿についてなら、特にこれといった好みはない。髪や瞳の色を気にしたこともなく、背が高い方がよいとも、低い方がよいとも思わない。胸が大きい方がよいのか、小さい方がよいのかと聞かれても、特にこだわりはなかった。

結局のところ、外見よりも、一緒にいる時にどのように感じるかの方が重要なのだろう。


「そうだな……」


レオンは腕を組み、しばらく考えた。


「真面目で、努力家で……一緒にいても気を使わなくて、楽しい人がいいかな」


「真面目で……努力家……」


エミルが確かめるように、小さく呟いた。

その声を聞きながら、レオンは何気なくエミルの姿を見つめた。


真面目で、努力家。


一緒にいても、変に気を使う必要がない。


話していて楽しい。


帝都まで長い旅を続けてきたが、エミルと二人で過ごすことを苦痛に感じたことは一度もなかった。それどころか、静かで落ち着いたエミルと一緒にいる時間は心地よく、どのような話をしていても自然に会話を続けることができた。


「あれ?」


「どうしました?」


「いや……」


レオンは、改めてエミルを見る。


「なんだか、今言った好みは、まるでエミルみたいな感じになったな」


「…………」


エミルの動きが止まった。

レオンを見つめたまま目を見開き、言葉を失っている。


「エミル?」


「…………」


「どうした?」


「い、いえ!」


ようやく反応したエミルは、慌てて首を横へ振った。


「何でもありません!」


「そうか?」


「はい!」


エミルの顔が、先ほどよりも少し赤くなっている。

馬車の中が暑いのだろうかと、レオンは窓へ目を向けた。一瞬、窓を開けようかとも考えたが、外の空気はまだ冷たい。余計に身体を冷やしてしまうかもしれないため、そのままにしておくことにした。


レオンは再び窓の外へ視線を向け、流れていく景色をぼんやりと眺めた。

真面目で、努力家で、一緒にいても気を使わず、楽しい人。

確かに、それはレオンの好みなのだろう。

しかし、それだけではなかった。

頭の奥に、前世の記憶が浮かぶ。


前世で婚約者だった女性。


いつか結婚するのだと、何となく信じていた相手。

そして、その女性から突然告げられた言葉。


『貴方、つまらないもの』


あの時のレオンは強がっていた。

実家へ帰り、妹にからかわれた時も、別に大したことではないように振る舞っていた。乙女ゲームの中で婚約破棄されたクラリスを見て、同じように振られたのかと笑われても、冗談を返す余裕があるように見せていた。

だが、本当は傷ついていた。

結婚するものだと思っていた女性に拒絶され、自分と過ごした時間まで否定されたように感じていた。

レオンはしばらく黙った後、自分でも驚くほど小さな声で呟いた。


「……あと、ずっと好きでいてくれる人がいいな」


「え?」


エミルが聞き返す。


「いや、何でもない」


「…………」


エミルはそれ以上、何も尋ねなかった。

馬車の車輪が街道を踏み締める音だけが、二人の間に静かに響いている。

レオンとエミルを乗せた馬車は、そのままノルディアへ向かって進み続けた。

その日の夜、二人は街道沿いに建つ宿へ到着した。

食事を済ませた後、受付で部屋の鍵を受け取る。宿の主人が差し出した鍵は、二つあった。

レオンは、その鍵を見て頷く。


「今回は、ちゃんと二部屋あるな」


「…………」


隣に立っていたエミルが、僅かに黙り込んだ。


「どうした?」


「い、いえ。何でもありません」


「そうか?」


「はい」


ほんの一瞬だけ、エミルが残念そうな表情を浮かべたように見えた。しかし、レオンは気のせいだろうと考え、それ以上深く追及しなかった。

二人は鍵を一つずつ受け取ると、それぞれの部屋へ入った。


          






部屋へ入ったエミルは、背後の扉を静かに閉めた。

しかし、その場からすぐに動くことはできなかった。

扉へ背を預けたまま、馬車の中でレオンから言われた言葉を思い返す。その言葉は、宿へ到着してからも、ずっとエミルの頭から離れなかった。


『なんだか、今言った好みは、まるでエミルみたいな感じになったな』


エミルはしばらく扉の前に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとベッドまで歩き、その端へ腰を下ろした。

もう一度、レオンの言葉を思い出す。

思い出しただけで、頬が熱くなる。

エミルは両手で顔を覆った。


「……レオン君……」


嬉しかった。

あまりにも嬉しくて、馬車の中では何も考えられなくなってしまった。

レオンが好みだと言った女性像。それが自分に似ていると、本人の口から言われたのだ。

期待するなという方が無理だった。


レオンが自分を一人の女性として見てくれているのではないか。少なくとも、好みの女性に近い存在だと思ってくれているのではないか。

そんな期待が胸の奥から湧き上がり、どうしても抑えることができなかった。

だが、部屋で一人になり、少しずつ気持ちが落ち着いてきたところで、エミルはあることに気づいた。


「……あれ?」


真面目で、努力家。


一緒にいても気を使わず、楽しい人。


その条件を一つずつ考えた時、最初に思い浮かんだのはクロエだった。

クロエは、レオンが幼い頃から共に過ごしてきた少女だ。今のノルディアがここまで発展したのは、決してレオン一人の力ではない。レオンが次々と新しい考えを出し、それを実現させるために、クロエも必死に働き続けてきた。

レオンの隣に立ち、同じ未来を見つめながら、ノルディアを支えている。


真面目で、努力家。


そして、レオンが誰よりも気を許している相手だった。


次に思い浮かんだのは、フローラだった。

フローラも努力家であり、レオンとの距離は近い。治療魔法を学び、人々を救うために懸命に努力を続けている。何より、レオンに対する好意を隠そうともしていない。


そして、ミコト。

出会ってからの日数こそ短いが、真面目で努力家という部分なら、間違いなく当てはまる。将軍家の娘として幼い頃から鍛錬を続け、その実力を周囲に認めさせるため、誰よりも努力してきた少女だった。


「…………」


そう考えるにつれて、エミルの胸を満たしていた喜びが、少しずつ萎んでいった。


レオンの好みに当てはまる女性は、自分だけではない。


「私だけでは……ないのですね」


それは、最初から分かっていたはずだった。

レオンの周りには、魅力的な女性が多い。

長い時間を共に過ごし、領地を支えているクロエ。

レオンへの好意を隠さず、真っ直ぐに想いを伝えるフローラ。

出会ったばかりでありながら、決闘を申し込み、結婚を迫るほど積極的なミコト。

自分だけがレオンにとって特別な存在なのだと思えるほど、エミルは自惚れてはいなかった。


それでも、完全に諦めることはできなかった。

レオンが最後に言った、もう一つの言葉を思い出したからだ。


『……あと、ずっと好きでいてくれる人がいいな』


あの言葉を口にした時だけ、レオンの声が違っていた。

それまで好みについて話していた時のような、軽い口調ではなかった。まるで過去の何かを思い出したような、寂しさと痛みを含んだ声だった。

レオンに何があったのか、エミルには分からない。

どのような記憶を思い出し、あの言葉を口にしたのかも知らない。まだ十六歳のレオンが、何故あれほど寂しそうな声を出したのか、エミルには想像することさえできなかった。

それでも、一つだけなら自信を持って言える。

クロエにも、フローラにも、ミコトにも負けないと、胸を張って言えることがある。


エミルは顔を覆っていた両手を下ろすと、胸元へ静かに手を当てた。

レオンへの想いを確かめるように目を閉じ、誰もいない部屋の中で、小さく口を開く。


「そこだけは……負けるつもりはありません」


誰にも聞こえないほど、小さな声だった。

静かな宿の一室へ溶けて消えてしまうような、か細い声。

それでも、その言葉に迷いはなかった。

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