第293話 帝都を発つ
帝都を発つ日の朝。
レオンはスルガ邸の客室で目を覚ますと、ゆっくりと身体を起こした。窓から差し込む朝日は帝都へ到着した頃よりもずっと暖かく、数日前まで残っていた冬の冷たさも、今ではほとんど感じられない。
「……もう春か」
小さく呟きながらベッドを降りる。部屋の隅には王都へ向かうためにまとめられた荷物が置かれており、その中には一冊の古びた日誌が大切に包まれていた。
スルガ家に代々伝わってきたハルトの日誌。
昨夜も遅くまで読んでいたが、まだ最後までは読み終えていない。そこに使われている文字は間違いなく前世で使っていた日本語だった。それだけではなく、迷いの洞窟で何度も目にした賢者の研究資料と同じ文字で書かれている。
ゲームでは『賢者が残した異物』として語られていた、あの洞窟。
そして五百年前、三国の統一に関わった英雄ハルト。
賢者とハルトが同一人物であることは、ほぼ間違いない。
ただし、ハルトが自分と同じ転生者だったのか。それとも五百年前の島国で使われていた文字そのものが日本語だったのか。そこまではまだ分からない。
「まあ、王都までの道中で読むか」
レオンは日誌を丁寧に包み直して荷物へ戻すと、身支度を済ませた。
朝食を終えた後、レオンは帰国前の挨拶をするため皇城へ向かった。
案内された一室には、既に三人が待っていた。
皇帝ジーカス。
第一皇子ジークハルト。
第二皇子ルーカス。
今回は公式な会談ではない。護衛も文官もおらず、室内にいるのは四人だけだった。
レオンが入ると、ジーカスが片手を上げる。
「来たか、レオン」
「はい。今日帝都を出るので、その前に挨拶をと思って」
「そうか。随分と慌ただしい滞在になったな」
「本当に。和平の話だけで終わると思ってたんですけどね」
レオンが苦笑すると、ジーカスも小さく笑った。
王国と帝国の和平。
それだけでも十分に大きな話だった。
だが帝都へ来てみれば、バルト山脈で起きている魔獣の異変についても話し合うことになり、最終的には大規模な共同討伐まで話が進んだ。
ジークハルトが口を開く。
「昨日までに話したことだが、帝国側はすぐ準備に入る。まずはバルト山脈周辺の調査を増やすつもりだ。魔獣がどこにいて、どう動いているのか。今まで以上に細かく記録を取らせる」
「分かった。こっちでも同じように調べておくよ」
「討伐についても、レオンが言った通り今すぐ動くつもりはない。最低でも一年、出来れば二年は準備に使う」
「ああ。その二年があればかなり準備出来る」
「そのための二年だからな」
ジークハルトは静かに頷いた。
「次に俺達が使節団としてノルディアへ行く時には、もう少し具体的な話を持っていく。兵数、部隊配置、補給、指揮系統。それと討伐した魔獣の素材の利益分配についても、正式な形にしておきたい」
「助かる。こっちもそれまでに案をまとめておくよ」
するとルーカスが腕を組んだまま口を開く。
「俺も行く」
「ノルディアに?」
「ああ」
「じゃあ、次に会うのはノルディアか」
「そうなる」
レオンは少し笑った。
「今度は俺が案内する側だな」
「期待していない」
「何でだよ」
「寝坊する」
「……まだ言うのか?」
「事実だ」
「一回だけだろ」
「一回した」
「普通は一回なら許すところだぞ?」
「レオンなら二回目がある」
「どんな評価なんだよ……」
ジークハルトが僅かに笑い、ジーカスも肩を揺らす。
「まあ、待ってるよ」
「ああ」
短い返事。
それだけで十分だった。
ジークハルトがレオンを見る。
「それで、レオンはこのままノルディアへ戻るのか?」
「いや」
レオンは首を横へ振った。
「俺はこのまま王都へ行くつもりだ」
「王都へ?」
「ああ。帝国と話がまとまったからって、俺達だけで勝手に進められる話じゃないからな。まずアレク殿下から国王陛下に今回のことを伝えてもらわないといけない」
帝国軍とノルディア騎士団による共同討伐。
帝国軍が王国領へ入ることにもなる以上、国王の許可は絶対に必要だった。
だが、レオンが王都へ向かう理由はそれだけではない。
「それと、討伐の話より先に話しておきたいことがある」
「避難計画か?」
ジークハルトの言葉にレオンは頷いた。
「ああ。俺はこれから二年かけて、領民を逃がす準備をする」
「前に話していた避難先を造るという話だな」
「ああ。ただ、あれから考えたんだけど……一ヶ所じゃ足りないと思う」
「一ヶ所では?」
レオンは近くにあった紙を一枚借りると、簡単な位置関係を描いた。
「まずノルディア領内の南部。バルト山脈から出来るだけ離れた場所に、避難用の街を一つ造る」
「避難所ではなく、街を造るのか?」
「ああ。氾濫が数日で終わる保証なんてないからな。住居も井戸も食料庫も必要になる。治療所や商店もあった方がいい。長引いても、そこで生活出来るようにしておきたい」
ジークハルトは紙を見つめる。
だがレオンは、さらに別の方向へ線を引いた。
「それと可能なら、フェルナード領に難民の受け入れ要請をする」
「フェルナード領に?」
「ああ。もちろんレイモンド伯に許可をもらわないといけないけど、あそこなら王都の更に奥に位置する。最悪の場合でも、王都まで氾濫が向かうとは思っていないからな。」
そして、もう一本。
別方向へ線を伸ばす。
「それから、教国に近い別の領地にも一つ造れたら造りたい」
「教国方面にも逃がすつもりか?」
「出来るならな。逃げ道が一つしかないより、二つ三つあった方がいいだろ」
一ヶ所へ大量の避難民を集めれば、街道が詰まる。食料や水の確保も難しくなる。それに魔獣の進行方向によっては、せっかく造った避難先そのものが危険になる可能性もある。
だから最初から逃げる方向そのものを分ける。
ノルディア領内南部からフェルナードへ。
教国方面のノルディア領から教都へ。
どこか一つが使えなくても、別の道が残るように。
「……レオン」
「ん?」
「以前聞いた時より、随分大きな計画になったな」
「考えれば考えるほど、一ヶ所に集める方が危ないと思ってさ」
「確かにな」
ジークハルトは紙に描かれた三本の線を見つめた。
「それで王都へ行くのか」
「ああ。俺だけで決められる話じゃないからな。まずアレク殿下から国王陛下へ共同討伐のことを報告してもらう。それと一緒に、この避難計画についても話すつもりだ」
フェルナード領ならレイモンドの許可が必要になる。
教国に近い別の領地となれば、当然その土地を治める領主とも話をつけなければならない。
「国王陛下の許可が取れたら、レイモンド伯にも俺から頼みに行く。教国の方は……エミルさんからセリオス様に相談してもらえないか聞いてみるよ。教国側でも避難民を受け入れてもらえる場所があれば、かなり助かる」
「王国だけではなく、教国まで使うのか」
「使えるものは全部使うよ。そのために今まで色んな人と関わってきたんだから」
ジークハルトは少しだけ目を細めた。
王国。
帝国。
教国。
本来ならそれぞれ違う利害を持つ人間達との繋がりを、レオンは領民を逃がすための道へ変えようとしている。
「ただ」
ジークハルトが紙から顔を上げた。
「それだけの街を造るとなれば、相当な金が掛かるぞ」
「……だよな」
「いくら使うつもりだ?」
「まだクロエに計算してもらってないから分からない」
「クロエさんには、この話を?」
「まだしてない」
「先に相談した方がいいんじゃないか?」
「俺もそう思う」
「思ってるだけじゃなくて言え」
「帝都から帰ったらちゃんと言うよ」
「怒られるだろうな」
「やっぱり?」
「街を三つ造るかもしれない話を、金を管理している人間に最後に知らせるつもりなんだろ?」
「……言い方を考えれば何とか」
「ならないと思うぞ」
ジークハルトが即答した。
横で聞いていたジーカスが堪えきれず笑う。
「ははは! 随分と恐ろしい商人を抱えているようだな」
「恐ろしくはないですよ。優秀なんです。ただ、金のことになると厳しいだけで」
「それを優秀と言うのだ」
「ですよね……」
レオンも苦笑した。
しばらく笑っていたジーカスだったが、やがてその表情が変わった。
「レオン」
「はい?」
「二年後、討伐隊を率いるんだったな」
「ああ。そのつもりです」
そのことは宴の席ですでに話している。
ジーカスも止めようとはしなかった。
代わりに、先ほどまでとは違う真剣な目でレオンを見る。
「なら、一つ覚えておけ」
「何です?」
「自分の強さを、兵の強さだと思うな」
レオンは少し目を見開いた。
ジーカスは静かに続ける。
「レオンは強い。ルーカスを破り、ミコトにも圧勝したと聞いている。個人の武では、もはや俺が心配するような段階ではないだろう」
「……ありがとうございます」
「だが、それと軍を率いることは別だ」
その言葉には妙な重みがあった。
ジークハルトもルーカスも何も言わない。
ジーカスは少しだけ遠い目をした。
「二十四年前、俺は皇子として帝国軍一万を率い、バルト山脈へ向かった」
レオンは黙って続きを待つ。
その話は知っている。
帝国軍一万。
大量の魔獣に押され。
不可侵条約のあるノルディア領まで追い込まれた帝国軍。
その軍を率いていた皇子こそ。
目の前にいるジーカスだった。
「あの頃の俺は若かった」
ジーカスは自嘲するように笑う。
「自分なら出来ると思っていた。兵も精鋭だった。多少魔獣が多かろうと押し切れる。そう考えていた」
だが現実は違った。
一つの群れを崩せば、戦闘の音や血の匂いに引き寄せられた別の魔獣が現れる。
進めば山奥の魔獣を刺激し。
引けば追われる。
気づいた時には、軍そのものが撤退することすら難しくなっていた。
「俺は一万の兵を率いていた。だが、一万人を動かすということがどういうことなのか、本当の意味では分かっていなかった」
食料がいる。
水がいる。
負傷者が出る。
疲労する。
隊列が伸びる。
先頭が敵を見つけても、その情報が最後尾まで瞬時に届くわけではない。
一人の強者が魔獣を倒しながら進むのとは全く違う。
「魔獣を倒すことばかり考えていた」
ジーカスはレオンを見る。
「それが俺の間違いだった」
「……」
「軍を率いる者が一番に考えるべきなのは、何体倒すかではない」
少し間を置く。
「何人連れて帰るかだ」
レオンの表情が僅かに変わった。
「俺はそれを、グラニウスに教えられた」
帝国軍一万がノルディア領へ流れ込めば、不可侵条約を破ったと判断されてもおかしくなかった。
最悪の場合、そのまま王国と帝国の戦争になる。
それでもグラニウスは剣を取った。
帝国兵だから。
敵国の兵だから。
そんなことは関係なく。
目の前で死にかけている一万人を救った。
「俺達を救った後、グラニウスは何と言ったと思う?」
「父がですか?」
「ああ」
ジーカスは少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「『生きて帰れ。それが指揮官の仕事だ』とな」
「……父上らしいですね。」
レオンは小さく笑った。
「腹が立ったぞ。当時の俺は皇子だったからな。敵国の辺境伯に説教されたんだ」
「怒ったんですか?」
「当然だ」
ジーカスも笑う。
「だが、何も言い返せなかった。一万の兵を死なせかけた男が何を言っても、負け惜しみだからな」
そして、ジーカスは再び真剣な表情へ戻った。
「だからレオンにも同じことを言っておく」
「はい」
「レオン一人なら進める場所でも、一万人は進めない」
レオンは黙って聞く。
「レオンならまだ戦えると思っても、普通の兵は疲れているかもしれん。レオンなら魔力が残っていても、他の者は使い切っているかもしれん。自分を基準にするな」
それは、桁外れの魔力量を持つレオンにとって、特に重要な忠告だった。
「それともう一つ」
「まだあるんですか?」
「撤退を恥だと思うな」
レオンが顔を上げる。
「勝てないと思ったら引け。予定より魔獣が多ければ引け。補給が危うければ引け。兵が疲れているなら引け」
「でも……」
「でも、ではない」
ジーカスがはっきりと遮った。
「生きていれば、もう一度戦える」
室内が静かになる。
「兵を連れて帰るための撤退なら、それは敗北ではない」
ジーカスは少しだけ笑った。
「グラニウスなら、そう言っただろうな」
「……言いそうですね」
「ああ」
レオンは少し考えた後、静かに頷いた。
「覚えておきます」
「覚えておくだけでは駄目だぞ」
「厳しいですね」
「俺は一度失敗しているからな」
ジーカスは肩を竦める。
「同じ失敗をグラニウスの息子にされたら、あの世で奴に笑われる」
「父上なら笑わないと思いますけど」
「いや。あいつは顔には出さんが、絶対に笑う」
「そこまで分かるんですか?」
「"友人"だったからな」
ジーカスはそう言って、少し懐かしそうに笑った。
そして最後に。
「レオン」
「はい?」
「強い奴が良い指揮官になるとは限らん」
一度言葉を切る。
「だが、兵を生きて帰そうとする奴なら、良い指揮官になれる可能性はある」
ジーカスはレオンを真っ直ぐ見る。
「二年ある」
「はい」
「剣を磨くのもいい。魔法を磨くのもいい。だが、それと同じくらい――」
「兵を率いることも学べ、ですか?」
ジーカスが僅かに笑う。
「そういうことだ」
レオンも小さく笑った。
「分かりました」
「ならいい」
そこでジークハルトが口を開く。
「その点は、レオンなら心配していないけどな」
「何で?」
「自分より先に領民の逃げ道を三つも作ろうとしている人間だからな」
「領民を逃がすのと、軍を率いるのは別だろ」
「だから二年あるんだろ?」
「……そうだな」
レオンは頷いた。
これから二年間、街を造るだけではない。
騎士団を鍛えるだけでもない。
自分自身も一人の剣士ではなく。
何千という人間を率いる指揮官として成長しなければならない。
ジークハルトがレオンへ歩み寄った。
「レオン」
「ん?」
「帝国に来てくれて良かった」
「……急にどうした?」
「別に深い意味はない」
ジークハルトは僅かに笑った。
「今回の和平も、二年後の討伐も、レオンが来なければここまで話は進まなかった」
「俺一人で決めたわけじゃないだろ」
「それでもだ」
ジークハルトが右手を差し出す。
「次はノルディアで会おう」
レオンもその手を握った。
「ああ。待ってるよ」
握手を交わして手を離す。
その瞬間。
「レオン」
ルーカスが呼ぶ。
「ん?」
「次は寝坊するな」
「だからノルディアは俺の家だって」
「なら余計に怪しい」
「お前は最後までそれかよ……」
ルーカスは僅かに口元を上げた。
レオンも呆れながら笑った。
皇城での最後の挨拶を終えると、レオンはスルガ邸へ戻った。
屋敷の前には既に王都へ向かう馬車が用意され、荷物もほとんど積み終わっている。少し離れた場所には、アメラン邸から戻ってきたエミルの姿もあった。
「レオン君」
「エミル、準備終わった?」
「はい。いつでも出発出来ますよ」
「じゃあ、俺の荷物を積んだら出ようか」
「はい」
玄関前にはクニヒロ、コトハ、ミコトが並んでいる。
レオンは三人の前へ立った。
「短い間でしたけど、本当にお世話になりました」
クニヒロが静かに頷く。
「こちらこそ、レオン辺境伯を我が家へお迎え出来たことを光栄に思います」
「また帝都へ来られた際には、ぜひ我が家へお越しくださいませ」
コトハが柔らかく微笑む。
「はい。その時はお願いします」
するとミコトが一歩前へ出た。
「レオン様」
「ん?」
「ハルト様の日誌は、お貸しするだけですので」
「ああ」
「必ずお返しください」
「分かってるって。読み終わったらちゃんと返すよ」
「お願いいたします」
ミコトは小さく頷き、少し間を置く。
「その時には、次の勝負をお願いいたします」
「……やっぱりそこに繋げるのか」
「約束ですので」
「俺が今やることを終わらせたら、だろ?」
「はい」
「いつになるか分からないぞ?」
「構いません。何年でもお待ちいたします」
「……そうか」
「そして次は私が勝ちます」
「そこは俺も負けるつもりないからな」
「では、私が勝ちましたら妻に……別に側室でも構いません」
「ブレないな、ほんとに」
コトハが小さく笑い、クニヒロは何とも言えない表情で娘を見る。少し離れた場所にいるエミルも困ったように笑っていた。
だが、ミコトの表情がふと変わった。
「レオン様」
「ん?」
「二年後の討伐では……レオン様も最前線へ行かれるのですよね」
先ほどまでの軽い空気が消える。
「ああ」
ミコトは何かを言おうとして、一度口を閉じた。
そして真っ直ぐレオンを見る。
「必ず、お戻りください」
勝負も。
結婚も。
何も付け加えなかった。
レオンは少しだけ目を細める。
「死ぬつもりで準備するわけじゃない」
「……」
「死なないために二年も準備するんだ。俺も、騎士達も、それに領民も全てだ」
ミコトの黒い瞳が僅かに揺れ、やがて静かに頷いた。
「はい」
そして美しく一礼する。
「では、お待ちしております」
「ああ。またな」
レオンが馬車へ向かおうとした。
その時、ふわりと暖かな風が庭を吹き抜けた。
「……ん?」
レオンの目の前を、淡い薄紅色の花びらが横切る。
一枚。
二枚。
そして何枚もの花びらが春風に乗り、庭を舞った。
レオンはゆっくりと顔を上げる。
帝都へ来た時には、まだ固い蕾しかつけていなかったスルガ邸の木々。
それが今は、枝いっぱいに薄紅色の花を咲かせていた。
青い空を覆うように広がる満開の花。風が吹くたびに無数の花びらが枝を離れ、石畳や池の水面、黒い瓦屋根へ静かに舞い落ちていく。
レオンは黙ってその光景を見上げた。
見間違えるはずがない。
前世で、春になるたびに当たり前のように見ていた花。
「……桜か」
思わず言葉が漏れる。
「さくら?」
隣にいたミコトが不思議そうに首を傾げた。
「あ……いや。何でもない。前にどこかで聞いた言葉を思い出しただけだよ」
「そうなのですか?」
「ああ」
再び風が吹いた。
一枚の花びらがレオンの髪へ落ちる。
ミコトが自然に手を伸ばし、その花びらを摘まんだ。
「ついております」
「ありがとう」
レオンはミコトから花びらを受け取る。
掌に乗った小さな薄紅色の花びらを見つめた。
帝都へ来た時には、まだ冬だった。
それが今では春を迎えている。
その短い間に色々なことがあった。
王国と帝国の和平。
バルト山脈の異変。
二年後を目安とした共同討伐。
ジークハルトが次期皇帝となる未来も、以前より確かなものになった。
そしてハルトの日誌。
ゲームでは『賢者が残した異物』としか語られなかった迷いの洞窟と、五百年前に帝国建国へ関わったハルトが繋がった。
それでも、まだ分からないことばかりだ。
ハルトは何者だったのか。
何故、自分が知る文字を使っていたのか。
あの洞窟で何を研究していたのか。
そしてレオン自身にも、これからやらなければならないことが山ほどある。
まず王都へ行く。
国王へ今回のことを報告し、許可を得る。
それからノルディアへ帰り、領民が生きて逃げられる場所を造る。
そして二年後。
自分はその領民達を守るため、騎士達を率いて最前線へ立つ。
レオンは掌の花びらを見つめた。
冬が終われば春が来る。
そんな当たり前のことが、今は少しだけ違う意味を持っているように思えた。
「レオン様」
ミコトの声に顔を上げる。
「また帝国へ来られる頃にも、咲いていると良いですね」
レオンはもう一度、満開の花を見上げた。
「ああ」
小さく笑う。
「そうだな」
レオンとエミルは馬車へ乗り込んだ。
御者が手綱を握り、ゆっくりと車輪が動き始める。
窓から振り返れば、クニヒロとコトハ、その少し前に立つミコトがこちらを見送っている。
その背後には満開の桜。
春風が吹くたびに無数の花びらが舞い上がり、スルガ邸の白い壁と黒い屋根を薄紅色に染めていく。ミコトの長い黒髪も風に揺れていた。
レオンはその光景を、しばらく黙って見つめていた。
やがてスルガ邸が遠ざかる。
満開の桜も。
ミコト達の姿も。
少しずつ小さくなっていく。
それでもレオンは、見えなくなるまで窓の外を眺め続けた。
こうして冬の終わりに始まった帝都訪問は満開の桜と共に春を迎えて終わった。




