第292話 赤い髪の聖騎士
歓迎の宴を終えたエミルは、メリトとネフェルと共にアメラン邸へ戻っていた。
皇城を出た頃には帝都の空はすっかり暗くなり、街道沿いに並ぶ魔法灯が石畳を淡く照らしている。
馬車の中ではエミルが窓の外を眺め、その向かいにはよく似た赤髪赤眼の双子が並んで座っていた。
「エミル様」
メリトが口を開く。
「本日の宴は」
ネフェルが続ける。
「楽しかったですか?」
エミルは二人へ視線を戻し、小さく笑った。
「はい。お二人のおかげで」
「本当ですか?」
「本当に?」
「本当ですよ。どうして疑うんですか?」
メリトとネフェルは顔を見合わせる。
「エミル様は」
「放っておくと」
「すぐ壁際へ」
「行ってしまいますから」
「……それは」
「昨日も」
「一昨日も」
「そうでした」
「二人で言われると否定しづらいですね……」
エミルが困ったように笑うと、双子も楽しそうに微笑んだ。
帝都へ来てからエミルの世話をしていたのはアメラン家だった。
その中でも年齢の近いメリトとネフェルが何かとエミルの面倒を見てくれており、最初こそ少し距離があったものの、数日も一緒に過ごせば随分と打ち解けていた。
特に二人は、エミルが自分から人の輪へ入ろうとしないことにすぐ気づいたらしく、食事へ誘い、屋敷を案内し、今日の宴でも両側から連れ回していた。
少し騒がしい。
だが、不思議と嫌ではない。
むしろエミルには、少しだけ姉が二人出来たような感覚すらあった。
やがて馬車がアメラン邸へ到着すると、三人は使用人達に迎えられながら屋敷へ入った。
「エミル様」
メリトが振り返る。
「まだお休みには」
ネフェルが続ける。
「なりませんよね?」
「……何故ですか?」
「少しだけ」
「お茶を」
「ご一緒しませんか?」
「少しだけですよ?」
「はい」
「少しだけです」
二人がほとんど同時に答えるので、エミルは小さく笑った。
「分かりました」
三人はそのまま、メリトとネフェルが普段使っている小さな居間へ向かった。
使用人が茶と菓子を置いて退室すると、エミルは温かい茶を口へ運び、小さく息を吐く。
「やっぱり、こちらの方が落ち着きますね」
「宴より?」
「こちらが?」
「お好きですか?」
「……はい」
エミルが素直に答えると、双子は顔を見合わせた。
「やっぱり」
「そうですよね」
「そんなに分かりやすいですか?」
「とても」
「分かりやすいです」
「……」
エミルは少しだけ肩を落とした。
その時、ネフェルの視線がエミルの髪へ向いた。
肩まで伸びた艶やかな赤髪。
帝都へ来た初日から何度も近くで見てきた。
今日の宴でも何度か目に入ったからこそ、ほんの僅かに感じる違和感がある。
「エミル様」
「はい?」
「一つお聞きしても?」
「何でしょう?」
ネフェルは少しだけ身を乗り出した。
「その髪です」
エミルが自分の赤髪へ触れる。
「髪ですか?」
「はい。とても綺麗なのですが……何となく魔力を感じるのです」
エミルの手が一瞬だけ止まった。
だが、すぐに穏やかに笑う。
「よく分かりましたね」
メリトとネフェルが同時に目を見開いた。
「では」
「やはり?」
「はい。この髪は本来の色ではありません」
エミルは右手へ視線を落とした。そこには一つの指輪が嵌められている。
「本当は」
「何色なのですか?」
エミルは少しだけ迷った後、静かに答えた。
「白です」
「……白」
ネフェルが小さく呟く。
「白髪なのですか?」
「はい。この指輪は髪の色を変える魔法具なんです」
メリトがエミルの右手を見る。
「教国の魔法具ですか?」
「はい。セリオス様からいただきました」
その名前を口にした瞬間、エミルの表情が僅かに柔らかくなった。
「セリオス枢機卿から?」
「はい」
「どうして」
「髪の色を?」
エミルは指輪へ触れながら、少し懐かしそうに目を細めた。
「教国では、白髪と赤い瞳の組み合わせは不吉の象徴とされているんです。セリオス様も白髪に赤い瞳でしょう?」
双子が揃って頷く。
「セリオス様は以前、『僕のような容姿は教国では不吉の象徴なんです。僕の近くにいる貴女まで白髪だと、かなり酷い扱いを受けるかもしれません。ですから、よろしければ髪の色を変えませんか?』と仰いました」
「それで」
「赤髪に?」
「はい。私自身も目立ちたくありませんでしたから」
メリトは納得したように頷いた。
だが、ネフェルはもう一度エミルの髪を見る。
「では」
メリトが少し笑う。
「本当のエミル様は」
ネフェルが続ける。
「白髪なのですね」
「はい」
「見てみたいです」
「私もです」
「えっ?」
エミルが困ったように二人を見る。
「今ですか?」
「出来れば」
「今」
「……」
二人とも本気だった。
エミルは少し考えた後、小さく息を吐いた。
「少しだけですよ?」
「はい」
「もちろんです」
エミルは右手の指輪へ触れ、僅かに魔力を流した。
すると赤かった髪から少しずつ色が抜けていく。
根元から毛先へと鮮やかな赤が消え、本来の色へ戻っていった。
やがて肩から流れ落ちる髪は、雪のような白へ変わった。
「……」
メリトとネフェルが黙った。
エミルは少し恥ずかしそうに白い髪へ触れる。
「やっぱり、少し落ち着きませんね」
「……綺麗」
ネフェルが小さく呟く。
「本当に」
メリトも目を細めた。
赤髪の時でも十分に美しい女性だった。だが白髪へ戻ると、その印象が大きく変わる。
整った顔立ちに、真っ直ぐ伸びた背筋。
無意識に揃えられた指先や、茶器を扱う時の僅かな所作。
白髪になったことで、それら一つ一つが妙に目についた。
まるで高位貴族の令嬢のような。
そんな雰囲気がある。
「そんなに見ないでください」
エミルが困ったように笑う。
「申し訳ありません」
「でも」
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
エミルは少し照れたように微笑んだ。
その時、ネフェルが何気なく尋ねる。
「エミル様は、魔導王国のお生まれなのでしたよね?」
「はい」
「ご両親も」
「白髪だったのですか?」
エミルの笑顔が、ほんの僅かに止まった。
メリトが妹を見る。
ネフェルも、自分が少し踏み込みすぎたことに気づいたらしい。
「申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です」
エミルは首を横へ振り、白い髪を一房だけ指先で摘まんだ。
「父も母も覚えていますから」
「覚えて」
「いらっしゃるのですか?」
「はい。私が奴隷になったのは十歳の時ですから」
部屋の空気が僅かに変わった。
メリトもネフェルも、エミルが元奴隷だったこと自体は知っている。
だが、その詳しい経緯までは聞いていなかった。
エミルは茶へ視線を落とした。
「私は魔導王国で生まれました。魔導王国では属性を持つことが非常に重視されています」
「聞いたことが」
「あります」
「そして私は……属性がありませんでした」
少しの沈黙が落ちる。
「十歳の時に、それが分かりました」
あの日のことは今でも覚えている。
父の顔も。
声も。
忘れたことなどない。
『属性のない者に価値はない』
父から、そう言われた。
「私は父に価値がないと言われました。そのまま地下牢へ入れられました」
その言葉を聞いた瞬間、メリトとネフェルの表情が僅かに変わった。
だが、エミルは俯いていたため気づかない。
「……地下牢へ?」
メリトが尋ねる。
「はい」
当時のエミルには分からなかった。
昨日まで普通に暮らしていた自分が、属性が無いというだけで、何故突然地下牢へ入れられるのか。
泣いた。
何度も父を呼んだ。
母も呼んだ。
だが、父は来なかった。
そしてしばらくして、母が来た。
「私は……助けに来てくださったのだと思いました」
地下牢の扉が開いた時、本当にそう思った。
母が来てくれた。
自分を助けてくれる。
家へ戻れる。
そう信じた。
だが、母は何も言わなかった。
抱きしめてもくれなかった。
ただ無表情のままエミルを地下牢から連れ出し、そのまま屋敷の外へ連れていった。
そこで待っていたのは、奴隷商人だった。
「……」
メリトとネフェルは何も言わない。
エミルは遠くを見るように目を細めた。
母は奴隷商人と何かを話していた。
幼かった自分には、その内容までは分からなかった。
ただ最後に、母が自分を見ることなく奴隷商人へ告げた言葉だけは、今でも覚えている。
『この子をお願いします。それ相応の方にお売りください』
それだけだった。
泣きもしなかった。
別れを惜しむ言葉もなかった。
抱きしめることも。
頭を撫でることも。
何もなかった。
「そのまま私は奴隷商人へ売られました」
ネフェルが僅かに唇を噛む。
「……お母様が?」
「はい」
「ご自身の娘を?」
「はい」
エミルは静かに頷いた。
「父には価値がないと言われ、母には奴隷として売られました。ですから私は、父にも母にも必要とされていなかったのだと思います」
双子は何も言えなかった。
エミルの声には怒りも憎しみもほとんどない。
だからこそ余計に痛々しかった。
まるで、それが当然だったとずっと自分へ言い聞かせてきたような話し方だった。
「でも」
エミルの表情が僅かに変わる。
「そんな私に、手を差し伸べてくださった方がいました」
メリトとネフェルには、誰のことかすぐに分かった。
「セリオス様」
「ですね?」
「はい」
今度の笑顔は、先ほどまでとは違った。
本当に優しい笑顔だった。
「奴隷商人から私を買ってくださったのが、セリオス様でした」
奴隷商人は、エミルの生まれについて何も話さなかった。
魔導王国から流れてきた属性無しの少女。
セリオスが聞かされたのは、それだけだった。
それでもセリオスはエミルを買い、初めて会った自分へ優しく手を差し伸べた。
『もう大丈夫ですよ』
たった一言。
それだけだった。
だが、十歳のエミルにはその言葉が全てだった。
「属性がなくても、奴隷でも、私が何者なのかも知らないのに、セリオス様だけは私を必要としてくださったんです」
だから今の自分がある。
教国へ行き、剣を学び、聖騎士になった。
本来なら属性無しの者は、教会で回復薬の製造に関わったり、シスターになったり、教会関係の仕事へ進む者が多い。
だが、セリオスはエミルをあえて聖騎士団へ入れた。
"剣の才能"があるから。
そう言って、自分に戦う道を与えてくれた。
「だから私は、この命でセリオス様をお守り出来るのであれば、それだけで十分だと思っています」
その言葉に、メリトとネフェルの表情が変わった。
「エミル様」
メリトが静かに呼ぶ。
「それは」
ネフェルが続ける。
「少し違うと思います」
エミルが目を瞬かせた。
「違う?」
「はい」
メリトは真っ直ぐエミルを見る。
「セリオス枢機卿は」
「エミル様に」
「死んでほしくて」
「救ったわけでは」
「ないと思います」
エミルは黙った。
「きっと」
「生きてほしかったから」
「手を差し伸べられたのでは?」
二人の言葉が静かに胸へ落ちる。
エミルは少しだけ目を伏せた。
「……そうですね」
小さく笑う。
「レオン君にも、似たようなことを言われました」
命の重さ。
自分の命を軽く扱う事を指摘された。
そうレオンにも言われた。
頭では、分かっている。
それでも十歳の時に植え付けられたものは、簡単には消えない。
「すみません」
「謝る必要は」
「ありません」
双子が同時に首を横へ振る。
エミルは二人を見て、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「いいえ」
「私達は」
「思ったことを」
「言っただけです」
「やっぱり息が合いますね」
「双子ですから」
「双子ですもの」
三人が小さく笑い、少し重くなっていた空気が僅かに和らいだ。
エミルは再び右手の指輪へ魔力を流す。雪のような白髪が少しずつ赤く染まり、見慣れた姿へ戻っていった。
「赤髪も」
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
エミルは微笑むと、残っていた茶を飲み干してから立ち上がった。
「そろそろ休みますね」
「はい、明日は早いですものね」
「ええ。レオン君と一緒にノルディアへ戻りますので」
メリトとネフェルは揃って少し残念そうな表情を浮かべる。
「寂しく」
「なります」
「ふふっ。また帝国へ来た時は、ぜひお二人に会いに来ます」
「約束ですよ」
「必ずですよ」
「はい。約束します」
エミルは二人へ一礼すると居間を出て、自分に用意された客室へ向かった。
扉が閉じ、エミルの足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
先ほどまで三人の笑い声が響いていた居間にはメリトとネフェルだけが残り、二人とも何も言わないまま閉じられた扉を見つめていた。
しばらくして、ネフェルが静かに口を開く。
「……メリト」
「ええ」
返事は早かった。
それだけでネフェルには分かった。
姉も自分と同じことを考えている。
「エミル様は魔導王国のお生まれでしたね」
「ええ。十八歳、そして十歳の時に属性が無いと分かった」
「父親に地下牢へ入れられ、その後は母親によって奴隷商人へ……」
そこで二人の言葉が止まった。
「……地下牢」
ネフェルが小さく呟くと、メリトも静かに頷いた。
「普通の家にはありませんね」
「ええ」
少なくとも平民ではない。
それなりの地位を持つ貴族の家に生まれたと考える方が自然だった。
それだけではない。
帝都へ来てから何日もエミルと一緒に過ごしてきたからこそ、二人には分かることがあった。
食事の作法、茶器の扱い方、歩き方、人前での立ち居振る舞い。
その一つ一つがあまりにも自然だった。
教国へ渡った後に身につけた礼儀作法と言われればそれまでだが、二人の目にはそう見えない。
意識して身につけたものというより、幼い頃からそれが当たり前だった者の所作に見えた。
そして何より。
「白髪……」
ネフェルが小さく呟いた。
メリトの赤い瞳が僅かに細くなる。
魔導王国の生まれで現在十八歳。十歳の時に属性が無いことが分かり、父親の命令で地下牢へ入れられ、その後は奴隷として国の外へ流れた。
そして本来の髪は白。
そこまで条件が重なれば、二人が思い浮かべるものは同じだった。
何かを調べる必要などない。
二人とも知っている。
八年前、魔導王国で起きたある出来事は、遠く離れた帝国にも伝わっていた。
「……やはり」
ネフェルが小さく呟き、その続きを口にしようとする。
「ネフェル」
メリトが静かに妹を止めた。
「……はい」
「それ以上は私達が口にすることではありません」
メリトはそう言って、エミルが出ていった扉へ視線を向ける。
ネフェルも同じ場所を見つめ、少しの沈黙の後に静かに頷いた。
「……そうですね」
二人はそれ以上、そのことについて口にしなかった。
だが、少ししてネフェルが何かを思い出したように眉を寄せる。
「ですが……セリオス枢機卿はお気づきなのでしょうか?」
メリトはすぐには答えなかった。
エミルが奴隷として教国へ流れたのは十歳の頃。
そして、そのエミルを奴隷商人から買い取り、それから八年間ずっと傍に置いてきたのがセリオスだという。
「エミル様が十歳の頃から、ずっとお側に置かれているのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、私達より先にお気づきになっていても不思議ではありませんね」
「……そうですね」
ネフェルも静かに頷いた。
それ以上、二人は何も言わなかった。
名前も、家名も、自分達が思い浮かべた人物のことも口にはしない。
ただ二人の脳裏には、八年前に魔導王国から帝国へ伝わってきたある知らせが浮かんでいた。
その知らせに記されていた少女と、先ほどまで目の前に座っていた白髪の聖騎士。
八年間、誰も結びつけることのなかった二つの存在が、メリトとネフェルの中で静かに重なっていた。




