間章 鍛えるべき力(後編)
翌朝、まだ日も昇り切らない時間から、レオンとルーカスは二人だけでノルディア領の森へ入っていた。
護衛も騎士も連れていない。
もっとも、ルーカスが「これも訓練だ」と言い張り、何を言っても聞かないと分かったレオンが、止めることを諦めた結果だった。
「しかし、本当に来たんだな」
木々の間を進みながら、レオンが呆れたように言う。
ルーカスは当然のような顔で答えた。
「来ると言っただろう」
「言ったな」
「だから来た」
「そうか」
会話になっているようで、なっていない。
だが、レオンは不思議と嫌ではなかった。
出会ったばかりの頃であれば、ルーカスの強引さに振り回されているとしか思わなかっただろう。
しかし、十日間を共に過ごし、毎日のように剣を交えた今では、このやり取りにも少しずつ慣れ始めていた。
二人が森の奥へ進んでいくと、先を歩いていたルーカスが突然足を止めた。
「いるな」
「ああ」
レオンも、茂みの向こうから大型の魔獣の気配を感じていた。
木々の枝が不自然に揺れ、地面を踏み締める重い音が少しずつ近づいてくる。
直後、茂みが大きく弾けた。
「ブォォォォォォッ!!」
激しい鳴き声を上げながら、二頭のレッドボアが飛び出してきた。
巨大な牙と、分厚い赤黒い皮膚。
土を蹴る太い脚には、並の人間など簡単に吹き飛ばしてしまうだけの力がある。
新人騎士であれば、姿を見ただけで逃げ出してもおかしくない相手だった。
しかし、レオンとルーカスは臆することなく、同時に剣を抜いた。
「行くぞ」
ルーカスが魔力を解放すると、その身体と剣へ青白い風が纏わりついた。
「右を取る」
「なら、俺は左だ」
作戦会議は、それだけだった。
どちらが指示を出したわけでもない。
それでも二人には、それだけで十分だった。
一頭のレッドボアが、ルーカスへ向かって突進する。
巨大な身体が地面を蹴るたび、足元が大きく揺れ、鋭い牙がルーカスの胸元を狙って迫った。
同時に、もう一頭のレッドボアがレオンを目掛けて突進してくる。
レオンは右目へ魔力を流し、【未来予知の魔眼】を発動した。
次の瞬間、ほんの僅かに先の未来が脳裏へ映し出される。
レオンへ向かって一直線に突進しているレッドボアが、途中で右へ方向を変え、ルーカスの側面へ襲いかかる光景だった。
「ルーカス! 下がれ!」
レオンが叫ぶと、ルーカスは理由を尋ねることなく即座に反応した。
振り下ろそうとしていた剣を引き、半歩後ろへ下がる。
その直後、進路を変えたレッドボアの牙が、先ほどまでルーカスの身体があった場所を通り過ぎた。
「助かった」
短い言葉だったが、その声には僅かな驚きが混じっていた。
レオンは答えず、その隙にレッドボアの側面へ回り込む。
両脚へ魔力を流して身体強化を発動すると、一気に間合いを詰めた。
そして、一頭のレッドボアの前脚へ剣を振るう。
斬撃は浅く、脚を切断するには至らない。
だが、それで十分だった。
傷ついたレッドボアの前脚が沈み、突進の勢いのまま大きく体勢を崩す。
「今だ!」
レオンの声を聞き、ルーカスが地面を蹴った。
風属性による身体強化と、剣への風属性付与。
その二つを組み合わせたルーカスの帝国式剣術は、圧倒的な速さを誇っていた。
一瞬でレッドボアの懐へ踏み込むと、風を纏った斬撃を首元へ叩き込む。
ザシュッ!!
鋭い音と共に、鮮血が宙へ舞った。
レッドボアの首が胴体から切り離され、巨大な身体が地面へ倒れる。
しかし、もう一頭のレッドボアが怒り狂い、巨大な牙を振り上げていた。
レオンの右目に、再び未来が映る。
左から振り上げられた牙が、ルーカスの身体を捉える光景だった。
「下がれ!」
レオンは反射的に叫んだ。
ルーカスは素早く地面を蹴り、後方へ飛び退く。
その身体のすぐ前を、レッドボアの巨大な牙が通過した。
紙一重の回避だった。
着地したルーカスは、レオンへ一瞬だけ視線を向けた。
そして、気づく。
迷う必要がなかった。
レオンが声を上げ、ルーカスがそれに従って動く。
ただ、それだけでよかった。
何故か、次に何をするべきなのかが分かる。レオンがどこへ動き、自分がどこから攻撃すればよいのかを、細かく言葉にしなくても理解できた。
レオンが左へ回り込み、それに合わせてルーカスが右へ動く。
二人は何も言葉を交わしていない。
それでも、示し合わせていたかのように同時に動いていた。
「レオン!」
今度はルーカスが叫んだ。
レオンの魔眼にも、直後に起きる未来が映っていた。
だが、その光景を理解するよりも先に、身体が動く。
レオンが横へ飛んだ直後、ルーカスの放った風刃が、先ほどまでレオンの立っていた場所を通過した。
ズバァァァッ!!
青白い風の刃がレッドボアの肩口を深く切り裂き、鮮血が噴き出す。
レッドボアは悲鳴を上げ、大きく身体を揺らした。
ほんの一瞬だけ、決定的な隙が生まれる。
「今だ!」
二人の声が重なった。
レオンは地面を蹴り、レッドボアの前脚を狙って剣を振るう。
ほぼ同時に、ルーカスがレオンの背中を踏み台にして飛び上がった。
レオンの斬撃を受け、レッドボアの体勢が崩れる。
その頭上から、風を纏ったルーカスの剣が振り下ろされた。
鋭い斬撃がレッドボアの首筋へ叩き込まれ、巨大な身体が轟音と共に地面へ倒れる。
二頭のレッドボアが動かなくなると、戦いが終わったことを知らせるかのように、森の中を穏やかな風が吹き抜けた。
「終わったな」
レオンが大きく息を吐く。
「ああ」
ルーカスも剣に付いた血を払い、鞘へ収めた。
二人はしばらく、地面に倒れた二頭のレッドボアを見つめていた。
やがて、ルーカスが不思議そうに呟く。
「妙だな」
「何がだ?」
レオンが首を傾げる。
ルーカスは、自分でも感じたことをうまく説明できないのか、少し考え込んだ。
「楽だった」
「ボア狩りがか?」
「ああ」
今回のレッドボアは、通常よりも大きな個体だった。それも、同時に二頭を相手にしている。
決して弱い魔獣ではない。普通の騎士であれば、もっと時間をかけなければ倒せない相手だ。
「俺一人でも倒せた」
ルーカスは倒れたレッドボアを見ながら続ける。
「だが、今日の方が速かった」
レオンは小さく苦笑した。
「俺が隙を作ったからだろう」
しかし、ルーカスは首を横へ振る。
「違う」
迷いのない断言だった。
「隙を作っただけではない」
ルーカスはしばらく言葉を探した後、静かに答えた。
「動きやすかった」
それが、今の感覚を表す最も近い言葉だったのだろう。
「お前がどこにいるのか分かる。次に何をするのかも、何となく分かる」
そこで一度言葉を切り、ルーカスはレオンへ向き直った。
「だから、迷わず剣を振れる」
これまで帝国で、数え切れないほどの模擬戦を行ってきた。
帝国軍の騎士達と共に魔獣を討伐したこともある。
だが、これほど自然に誰かと動きを合わせられたのは初めてだった。
相手に合わせようと考える必要すらない。
レオンの動きを見れば、自分がどこへ動くべきなのかが自然と分かる。
「不思議だな」
ルーカスが笑った。
「俺まで強くなった気分だ」
レオンも、つられるように少し笑う。
「気分じゃないだろ」
「ああ」
ルーカスは素直に頷いた。
「確かに、強くなっている」
森の中を風が吹き抜け、ルーカスの銀髪を揺らした。
その風が収まると、ルーカスは翡翠色の瞳で真っ直ぐにレオンを見つめた。
「レオン」
「何だ?」
「お前は、今でも十分に強い」
レオンは何も答えず、ルーカスの続きを待った。
「だが、連携を鍛えれば、もっと強くなれる」
ルーカスは僅かに笑う。
「お前とならな」
その言葉に、嘘はなかった。
帝国第二皇子、ルーカス・ヴァルハイト。
幼い頃から剣の才能を認められ、帝国の剣と呼ばれている少年が、心からそう思っていることがレオンにも伝わった。
「それは光栄だな」
レオンが笑って答える。
すると、ルーカスは少し呆れたような表情を浮かべた。
「だからだ」
「何がだ?」
「ルーカス殿はやめろ」
レオンは一瞬呆気に取られ、その後、思わず吹き出した。
「結局、そこに戻るのか」
「ああ」
ルーカスは当然のように頷く。
「耳が痒い」
「便利な言葉だな」
「事実だ」
ルーカスは真顔だった。
二人はしばらく無言で見つめ合う。
先に折れたのは、レオンだった。
「分かったよ」
レオンは苦笑しながら、初めて敬称を外して名前を呼んだ。
「ルーカス」
その瞬間、ルーカスは満足そうに笑った。
「ああ」
帝国の皇子と、王国の辺境伯家の嫡男。
生まれた国も、背負っている立場も違う。
本来ならば、戦場で敵として剣を交えていたかもしれない二人。
だが、この日。
レオンとルーカスは、確かに友人となったのだった。




