第283話 恋心
朝食を終えたレオンは、スルガ邸の客室へ戻っていた。
襖を閉めると、大きく息を吐く。
「……眠い」
当然だった。
昨夜、ミコトから借りた英雄ハルトの日誌。そこに書かれていた文字が日本語だったこと。迷いの洞窟に研究室を残した賢者と、帝国の英雄ハルトが同一人物だったこと。そして、印という未知の技術。
気になることが多すぎて、結局眠ったのは一時間ほどだった。
そのうえ、朝からミコトに印を教えてもらい、慣れない火や風への魔力変換を何度も繰り返した。身体そのものに大した疲れはなく、魔力にもまだ十分な余裕がある。だが、眠気だけはどうにもならなかった。
レオンは客室に敷かれた布団を見る。
「……少しくらいならいいか」
歓迎の宴まではまだ時間がある。少し眠って、昼過ぎには起きればいい。
そう考えながら布団へ横になり、頭を枕へ預けた瞬間、昨日ルーカスと交わした会話が頭をよぎった。
『明日は歓迎の宴だ』
『ああ』
『寝坊するなよ』
『しないって』
『お前なら分からない』
『どんな評価なんだよ』
レオンは目を閉じたまま小さく笑う。
「寝坊なんて……するかよ……」
その言葉を最後に、レオンの意識はあっという間に眠りへ落ちていった。
それからしばらくして、スルガ邸の廊下を一人の少女が歩いていた。
両手には湯気の立つ茶が載せられた盆。ミコトだった。
朝から印の修練を続けていたレオンは、昨夜一時間ほどしか眠っていない。朝食の時は平気そうにしていたが、さすがに疲れているだろう。
ミコトはレオンの客室の前で足を止める。
「レオン様」
声を掛けるが返事はない。
「……?」
もう一度呼ぶ。
「レオン様?」
それでも返事がなかった。
ミコトは僅かに眉を寄せる。昨夜ほとんど眠っていないうえ、朝から慣れない属性への魔力変換を何度も繰り返していた。最初は痛みまで伴っていた。
まさか、体調を崩したのではないか。
そう考えた瞬間、ミコトの表情から余裕が消えた。
「失礼いたします」
返事を待たず、静かに襖を開く。
「レオン様――」
そこで言葉が止まった。
布団の中で、レオンが眠っていた。
規則正しい寝息。苦しそうな様子などない。むしろ、本当に気持ちよさそうに眠っている。
ミコトはしばらくその姿を見つめ、小さく息を吐いた。
「……お休みになられていただけでしたか」
安堵すると、盆を机の上へ置く。
本来なら、そのまま部屋を出ればいい。
だが、ミコトの足は動かなかった。
眠っているレオンを見る。
昨日、訓練場で向かい合った時とはまるで別人だった。
自分の攻撃を避け、次々と氷の壁を作り、春先だというのに訓練場へ雪まで降らせた。最後には自分の逃げ道を全て誘導し、抜刀の瞬間すら読み切った。
あの時のレオンは鋭く、強く、一瞬たりとも気を抜けない相手だった。
だが、今は完全に無防備だった。
ミコトはゆっくりとレオンの傍へ近づき、しゃがみ込んで寝顔を覗き込む。
「本当に……気持ちよさそうに眠られますね」
レオンに反応はない。
「レオン様?」
試しに呼んでみても起きない。
ミコトの黒い瞳が僅かに細くなった。
今、この部屋には自分とレオンしかいない。レオンは熟睡している。誰かが来る気配もない。
ミコトは自分の帯へ視線を落とした。
「これは……好機なのでは?」
誰に言うでもなく、真剣な顔でそう呟く。
昨日も断られた。今朝も印を教える条件として自分を抱くよう提案したが、やはり断られた。
だが、今なら。
ミコトの手がゆっくりと自分の帯へ伸びる。指先が帯へ触れた。
このまま帯を解いて、隣へ入れば――。
「……すぅ」
小さな寝息が聞こえた。
ミコトの手が止まる。
再びレオンの顔を見る。本当に何の警戒もなく、気持ちよさそうに眠っている。
その顔を見ているうちに、ミコトの口元が僅かに緩んだ。
「ふふっ……」
思わず笑ってしまい、帯から手を離す。
「これでは、起こせませんね」
ミコトはレオンの隣に座り、改めてその寝顔を見つめた。
どうして、ここまでこの人に惹かれているのだろう。
最初は興味だった。
ノルディア辺境伯。英雄ハルトの血を引く者。自分と同じ、王国では珍しい黒髪。そして、ルーカスから聞いていた、自分と同じ歳でありながら領主として辺境を治めている少年。
実際に会ってみれば、島国の文化を不思議なほど知っていた。箸を当たり前のように使い、畳での振る舞いにも違和感がない。
だから興味を持った。
そして、戦ってみた。
ミコトの脳裏に昨日の訓練場が蘇る。
春先の空から白い雪が降り始め、吐く息が白くなるほど気温が下がっていく。自分は最後まで、レオンが作り続けた氷壁によって逃げる方向を限定されていることに気づかなかった。
そして頭上に現れた巨大な氷塊。
『この勝負、俺の勝ちだ』
あの時のレオンの表情を、今でもはっきり覚えている。
追い詰められ、最後の抜刀を試みた自分。しかし刀を抜くより早く、レオンの剣の柄が木刀を押さえ、そのまま喉元へ木剣を添えられた。
完敗だった。
悔しかった。次は絶対に勝ちたい。
それは今も変わらない。
「……それだけでは、ございませんね」
ミコトは小さく呟いた。
思い出すのは、ルーカスと話していた時のレオンだった。
皇族であるルーカスに対して、正式な場では第二皇子として接している。だが、二人だけになれば、まるで昔からの友人のように話していた。
『明日は歓迎の宴だ』
『ああ』
『寝坊するなよ』
『しないって』
『お前なら分からない』
『どんな評価なんだよ』
そのやり取りを見た時、少し驚いた。
第二皇子にあれほど自然に言い返す人間を、ミコトはほとんど知らない。ルーカスもレオンには遠慮がない。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ二人とも楽しそうだった。
領主でも辺境伯でもない、十六歳の少年として笑うレオン。
そして、自分と話している時もそうだった。
ミコトは眠っているレオンを見る。
自分が何度求婚しても、呆れながら結局は話に付き合ってくれる。身体を差し出すと言っても、それを利用しようとはしない。
今朝も印を教えてほしいと言われた時、少しくらい自分の立場を利用することだって出来た。それなのにレオンは『他にしてくれ』と言った。
そして、自分が再戦を望めば、『分かった。約束する』と答えてくれた。
いつになるか分からない約束を。
ミコトは自分の胸へ手を当てた。
少しだけ鼓動が速い。
最初は強い男だからだと思っていた。
帝国では強さは大きな価値を持つ。自分より強い男。それだけでも伴侶として望む理由には十分だった。
英雄ハルトの末裔だから。
同じ黒髪だから。
自分を負かしたから。
理由なら、いくらでも挙げられる。
でも今は、そのどれもが少し違うように思えた。
「……そうでございましたか」
ミコトはようやく、自分の中にある感情に気づく。
そして眠るレオンへ、優しく微笑んだ。
「私は……本当に、レオン様をお慕いしているのですね」
口に出すと、不思議と胸の中がすっきりした。
強いから欲しいのではない。
ハルトの末裔だからでもない。
ノルディア辺境伯だからでもない。
レオンだから、傍にいたい。そう思っている。
ミコトはもう一度レオンの寝顔を見る。
「……すぅ」
また気持ちよさそうな寝息が聞こえた。
「ふふっ」
ミコトは小さく笑う。
そして、レオンの布団を見た。
少し考えてから、ミコトは呟いた。
「何もせず、隣で眠るだけでしたら……」
誰に対する言い訳なのか、自分でも分からない。
だが、先ほどのように帯へ手を掛けることはしなかった。着物も帯もそのままに、そっとレオンの布団へ入る。
少しだけ距離を空けて横になり、顔を向ける。
近い。
先ほどまでよりも、遥かに近くにレオンの寝顔がある。
「レオン様」
小さく呼ぶが、返事はない。
「本当に、気持ちよさそうに眠られますね」
しばらくその寝顔を眺めていた。
だが、ミコトも昨日は試合をし、今朝はレオンへ印を教えている。
隣から聞こえる規則正しい寝息に耳を傾けているうちに、少しずつ瞼が重くなってきた。
「……少しだけ」
ミコトは目を閉じる。
「少しだけ……」
そう呟いて、間もなくミコトからも静かな寝息が聞こえ始めた。
どれほど眠っていたのだろう。
「……ん」
レオンはゆっくりと目を開いた。
頭がぼんやりする。
だが、久しぶりにしっかり眠った気がする。
「……よく寝た」
小さく呟き、身体を起こそうとして止まった。
「……ん?」
何かがおかしい。
すぐ隣から、自分とは違う寝息が聞こえる。
レオンはゆっくりと顔を横へ向けた。
艶やかな黒髪。
整った顔。
閉じられた瞳。
「…………」
ミコトが寝ていた。
自分と同じ布団で。
「…………」
数秒、頭が完全に停止した。
そして。
「はぁ!?」
レオンは勢いよく飛び起きた。
「何で!? 何でミコトが俺の布団で寝てるんだよ!?」
その声に、ミコトの瞼がゆっくりと開く。
「……おはようございます、レオン様」
「おはようじゃない! 何で俺の布団で寝てるんだよ!」
ミコトは眠そうに身体を起こす。
そして、自分の着物を見る。
着物も帯も、寝る前と何一つ変わっていない。
それからレオンを見る。
「レオン様……」
「な、何だよ」
ミコトは真顔だった。
「激しゅうございましたね」
「いや、服着てるし! 俺は何もしてない!!」
レオンは即座に叫んだ。
ミコトは真顔のまま数秒レオンを見つめる。
「冗談でございます」
「真顔で言うなよ!」
「ふふっ」
とうとうミコトが口元へ手を添えて笑い始めた。
「笑い事じゃないだろ!」
「申し訳ございません」
「絶対そう思ってないだろ!」
「はい」
「認めるのかよ!」
ミコトはまた楽しそうに笑う。
その笑顔を見て、レオンは呆れたようにため息を吐いた。
「ったく……」
そこで、ふと窓の外が目に入る。
朝とは違う赤みを帯びた光。
長く伸びた影。
レオンの表情が止まった。
「……あれ?」
嫌な予感がする。
「ミコト」
「はい」
「今……何時?」
「間もなく、ジークハルト第一皇子殿下がお迎えに来られる頃かと」
「…………」
レオンは固まった。
頭の中に、昨日の会話が蘇る。
『明日は歓迎の宴だ』
『ああ』
『寝坊するなよ』
『しないって』
『お前なら分からない』
『どんな評価なんだよ』
レオンはしばらく動かなかった。
ルーカス。お前の評価、正しかったわ。
次の瞬間、レオンは勢いよく布団から飛び出した。
「やばっ!」
その慌てた背中を見ながら、ミコトは楽しそうに笑っていた。




