第282話 印
「またそれかよ!」
朝のスルガ邸に、レオンの声が響いた。
目の前では、ミコトが何事もなかったかのような顔で座っている。
「何か問題がございますか?」
「あるだろ!」
レオンは思わず日誌を閉じた。
「昨日も言ったよな? 今はそういうことを考えてないって」
「はい」
「じゃあ何で、印を教える条件が俺に抱かれることになるんだよ」
「私としては、最も望ましい条件でございますので」
「俺の都合はどこいった?」
ミコトは不思議そうに首を傾げる。
本気なのか冗談なのか。
いや、昨日からの様子を見る限り、恐らく本気だ。
レオンは大きく息を吐いた。
「他にしてくれ」
「他、でございますか?」
「ああ」
「俺に出来ることなら聞くから」
「……」
ミコトは少し考え込む。
やがて、先ほどまでとは違う、真剣な表情でレオンを見た。
「では、一つお願いがございます」
「何だ?」
「昨夜、レオン様は仰っておられました」
ミコトは静かに続ける。
「今は、まだやるべきことがあると」
「ああ」
詳しいことまでは話していない。
魔獣のことも。
原作で起こる出来事も。
クラリスの未来も。
北竜のことも。
何一つ話していない。
ただ、自分にはまだやらなければならないことがある。
だから、今はそういったことを考えていない。
そう伝えただけだ。
ミコトも、それ以上聞こうとはしなかった。
「ですので」
ミコトはレオンを真っ直ぐ見つめる。
「そのやるべきことが終わった時」
一度、言葉を切る。
「もう一度、私と試合をしていただけませんか?」
「……試合?」
「はい」
ミコトは頷いた。
「今度も、賭けのある試合を」
「……」
レオンは少し目を丸くした。
てっきり、また妙な要求をされると思っていた。
だが、ミコトが望んだのは再戦だった。
「いつになるか分からないぞ?」
「構いません」
「数年先になるかもしれない」
「お待ちいたします」
即答だった。
「そこまで俺と戦いたいのか?」
「はい」
その答えにも、一切の迷いはない。
「昨日、私はレオン様に負けました」
ミコトは静かに自分の手を見る。
「それも、自分では勝ったと思った瞬間に」
昨日の試合。
巨大な氷塊。
降り続けた雪。
次々と作られた氷の壁。
ミコトは最後まで気づかなかった。
自分が氷の壁によって逃げる方向を誘導されていたことに。
最後の抜刀さえ、レオンには読まれていた。
「次は」
ミコトが顔を上げる。
「勝ちます」
黒い瞳には昨日と同じ、武人としての強い意志が宿っていた。
レオンは少し考え、やがて笑った。
「分かった、約束する。俺のやるべきことが終わったら、もう一度戦おう」
ミコトの表情が僅かに綻んだ。
「ありがとうございます」
「ただし」
レオンは指を一本立てる。
「次の賭けの内容は、その時に決めるからな、先に変な条件を決めるのは禁止だぞ?」
「承知いたしました」
ミコトは素直に頷く。
そして、少し考えてから口を開いた。
「では、私が勝ちましたら妻にしていただくということで」
「決めるのはその時って言っただろ」
「別に側室でも構いません」
「ブレないな、ほんとに」
レオンは呆れたようにため息を吐く。
だが、ミコトは至って真剣だった。
「私は最初から、そのつもりでございますので」
「……そうだったな」
出会ってから。
この少女は何一つブレていない。
「とにかく」
レオンは立ち上がる。
「これで約束成立だな」
「はい」
「じゃあ、教えてくれ」
「承知いたしました」
レオンは英雄ハルトの日誌を手に取り。
ミコトと共に客室を出た。
朝の冷たい空気が残るスルガ邸の訓練場。
レオンとミコトは、少し距離を空けて向かい合っていた。
傍らには、英雄ハルトの日誌が置かれている。
開かれているのは印について記された頁。
複雑に組み合わされた指。
その周囲には、魔力の流れを示す線が細かく描かれていた。
「まず」
ミコトが両手を胸の前へ上げる。
「昨日も申し上げましたが、印は指の形を真似するだけでは意味がございません」
「ああ」
「昨夜やってみたけど、何も起きなかった」
「……試されたのですか?」
「気になったからな」
ミコトが僅かに目を細める。
「本当にお休みになられていないのですね」
「一時間は寝た」
「それは休んだとは申しません」
「分かってるよ」
レオンが苦笑する。
ミコトは小さく息を吐くと再び両手を上げた。
「では、最初は火から始めましょう」
「火?」
「はい」
細い指が、ゆっくりと組み合わされていく。
「よくご覧ください」
レオンはミコトの手元を凝視する。
右手。
左手。
一本ずつ指の位置を確認する。
日誌にも同じ図は描かれている。
だが実際に人が結んでいるところを見ると、遥かに分かりやすい。
「こうか?」
レオンも同じように指を組む。
ミコトが近づきその手を見る。
「こちらの指を、もう少し内側へ」
「これくらい?」
「はい」
ミコトが頷く。
「形は問題ございません」
そして自分の胸元へ手を当てる。
「次が重要でございます」
「魔力の流れか」
「はい」
ミコトは静かに説明する。
「普段、レオン様が氷魔法を使われる際、魔力を氷へ変換することを一つ一つ意識されてはいないと思います」
「ああ」
氷を作ろうと思えば作れる。
水を凍らせようと思えば凍らせられる。
どうやって魔力を氷へ変えているのか。
そんなことを意識したことはない。
「それは、レオン様にとって氷への変換が自然だからでございます」
「ですが」
ミコトが印を結ぶ。
「今から行うのは、その自然な流れを別の方向へ変えることでございます」
「なるほどな」
「まず、ご自身の魔力を感じてください」
レオンは目を閉じる。
身体の中に流れる魔力を意識する。
普段なら、わざわざ意識する必要すらないほど、当たり前に存在しているもの。
「そのまま」
ミコトの声が聞こえる。
「印へ組んだ手に右手から親指を伝って左手に魔力を流してください」
レオンはゆっくりと魔力を動かした。
両腕。
手首。
指先。
そして。
組み合わせた指へ。
魔力を流す。
「……」
何も起こらない。
レオンは目を開けた。
「駄目だな」
「今のは、ただ魔力を流しただけでございます」
「違うのか?」
「はい」
ミコトは頷く。
「流す途中で、魔力を火へ変換する必要がございます」
「簡単に言うな……」
「最初は難しいと思います」
レオンは日誌を見る。
そこに描かれている魔力の流れ。
ただ、理屈は分かっている。
魔力そのものに属性があるわけではない。
自分が氷を得意としているだけ。
なら、火へ変えることも出来るはずだ。
「もう一回」
「はい」
レオンは再び印を結び、魔力を流す。
今度はただ指先へ送るのではない。
普段なら自然と氷へ変わる魔力を別の属性の火へ無理やり変えようとする。
その瞬間ズキッっと全身に痛みが走る。
「っ……!」
身体の内側に鋭い痛みが走った。
レオンは思わず印を解く。
「何だ、今の……」
胸元へ手を当てる。
怪我をしたわけではない。
だが、身体の中を通る魔力そのものを、無理に捻じ曲げたような痛み。
しかし、ミコトは驚かなかった。
「大丈夫でございます」
「大丈夫なのか?」
「はい」
ミコトは静かに頷く。
「最初は、他の属性を使用しようとすると痛みが伴います」
「……これ、普通なのか?」
「普通でございます」
ミコトは自分の手を見る。
「これまで使用してこなかった属性へ、魔力を無理に変換しておりますので、身体が慣れるまでは、どうしても痛みが生じます」
「ミコトも?」
「はい」
「私も最初はかなり痛みました」
「慣れれば?」
「徐々に弱くなります」
「そうか……」
正常な反応。
それなら問題ない。
そう思った時、ふと別の痛みが頭をよぎった。
「……」
レオンは無意識に右目へ触れる。
未来を見る時。
右目の奥に走る。
あの痛みと今の痛みとは場所が違う。
それに、強さも違う。
それでも、どこか似ているような気がした。
「レオン様?」
「ん?」
「右目がどうかなさいましたか?」
「いや」
レオンは右目から手を離した。
「何でもない」
未来を見ることと。
他属性を使うこと。
二つに何の関係があるとは考えすぎだろう。
「もう一回やる」
「よろしいのですか?」
「ああ」
レオンは再び印を結ぶ。
「使うたびに倒れるような痛みじゃないなら問題ない」
「……レオン様」
「何だ?」
「痛みに慣れ過ぎておられませんか?」
「そうか?」
「はい」
ミコトは少し呆れたように答えた。
「まあ、いいだろ」
レオンは印を見つめる。
「次は成功させる」
「では」
ミコトも指導へ戻る。
「先ほどのように、力で無理に変えようとしないでください」
「でも無理やり別属性にするんだろ?」
「結果としてはそうでございます」
「ですが、力任せに魔力を押し込むのではございません」
ミコトは自分の指を動かす。
「印によって、魔力が火へ変わる道を作るのでございます」
「道……」
「はい」
「水が作られた溝を流れるように」
「魔力の流れる先を変える」
レオンは目を閉じる。
もう一度、身体の中の魔力を意識する。
押すのではなく、道を作る。
日誌に描かれた線。
ミコトの説明。
その二つを頭の中で重ねる。
普段なら、何も考えなくても氷へ向かう魔力を少しずつ別の属性へ。
ズキッ。
「っ……」
痛い。
だが、今度は印を解かない。
「そのままでございます」
ミコトの声が飛ぶ。
「そこで止めないでください」
「分かってる……」
魔力を流す。
少しずつ、ゆっくりと、そして、ある瞬間、感覚が変わった。
「……!」
冷たく変化しようとしていた魔力が。
別の何かへ変わる。
熱。
指先に僅かな熱を感じる。
次の瞬間。
ボッ。
小さな音が鳴った。
「……」
レオンが目を開ける。
指先に小さな赤い炎が灯っていた。
「……出た」
揺れる炎を見つめる。
氷ではない。
この世界へ生まれてから一度も使ったことのない火属性。
「本当に出た……」
レオンは思わず笑った。
ミコトも僅かに目を見開いている。
「……お早いですね」
「そうなのか?」
「はい」
ミコトは炎を見つめる。
「通常でしたら、印を覚えたその日に別の属性へ変換することは難しゅうございます」
「じゃあ、俺に火の才能があるとか?」
「いえ」
即答だった。
「そこは否定するのかよ」
「今の魔力消費を感じてみてください」
「魔力消費?」
そう言われて、レオンは自分の魔力へ意識を向ける。
そして、すぐに気づいた。
「……ああ」
指先に灯っているのは小さな炎だけ。
本来なら、ほとんど魔力を消費しない程度の魔法だ。
だが今は違う。
火へ変換する途中でかなりの魔力が失われている。
「効率、悪いな」
「はい」
ミコトが頷く。
「恐らくレオン様は、火への変換が得意ではございません。そのため、変換するだけでも多くの魔力を消費しております」
レオンは炎を消した。
「普通の奴がこれを何度もやったら?」
「すぐに魔力が尽きると思われます」
「やっぱりか……」
印があれば。
誰でも自由自在に全属性を扱える。
そんな都合のいい技術ではないらしい。
得意ではない属性なら、変換効率が大きく落ちる。
最初は痛みまで伴う。
それなら、普通の人間が自分の得意属性を使うのも当然だった。
「なるほどな……」
レオンが納得していると。
ミコトがじっとこちらを見ていた。
「何だ?」
「いえ」
ミコトは少し考える。
「普通の方でございましたら、ここで使用回数について注意するところなのですが」
「うん」
「レオン様の場合、その必要があるのか、私には分からなくなりまして」
「……どういう意味だよ」
「昨日の試合でも」
ミコトは訓練場を見回す。
「巨大な氷塊を作り、大量の氷壁を作られ、さらには訓練場へ雪まで降らせておられました。それでも魔力切れを起こす様子すらございませんでしたので」
「……」
「ですので」
ミコトは真顔で結論を出す。
「変換効率の悪さを、魔力量で補えてしまうのではないかと」
レオンは自分の手を見る。
そして、ため息を吐いた。
「結局、魔力量でゴリ押しかよ……」
「そのようでございます」
「そこは否定してくれよ」
「事実でございますので」
ミコトは平然と答える。
「……まあ、いいか」
使えるのなら、それでいい。
レオンは再び、火の印を結んだ。
先ほど教えられた通り。
魔力の流れる道を作る。
ズキッ。
「っ……」
まだ、痛みはある。
だが一度目より、ほんの僅かに弱い。
ボッ。
再び指先に炎が灯った。
レオンは、その炎を見つめる。
属性を変換する時に生じる痛み。
そして未来を見る時、右目に走る痛み。
「……」
また一瞬だけ二つが頭の中で重なった。
だが今のレオンには、その意味までは分からない。
レオンは炎を消した。
そして顔を上げる。
「ミコト」
「はい」
「次の印も教えてくれ」
「もう次へ進まれるのですか?」
「ああ」
レオンは傍らに置かれた。
英雄ハルトの日誌を見る。
「せっかく教えてもらえるんだ」
「覚えられるだけ覚えて帰る」
ミコトはそんなレオンをしばらく見つめる。
そして小さく微笑んだ。
「承知いたしました」
再び両手を上げる。
「では」
「次は風をお教えいたします」
レオンもその指の動きを追った。
五百年前の英雄ハルトが残した技術。
印。
その技術が少しずつレオンのものになり始めていた。




