第279話 英雄ハルトの日誌
「私が英雄ハルトの日誌を、一人で解読しているからでございます」
レオンは思わず身を乗り出した。
「日誌?」
「はい」
ミコトは静かに頷く。
「スルガ家には、英雄ハルト様が残された書物がございます。その中の一つが日誌です……ただ」
ミコトは僅かに視線を落とした。
「書かれている文字は、現在の帝国で使われているものとは異なります」
「違う文字?」
「はい、そのため長い間、内容を正確に読み解ける者はおりませんでした」
レオンは眉を寄せる。
「それをミコトが解読したのか?」
「全てではございません」
ミコトは首を横へ振る。
「今でも意味の分からない文字や文章は多くございます。ですが、幼い頃から何度も読み返し、同じ文字、同じ言葉、前後の文章を照らし合わせながら、少しずつ解読して参りました」
「どれくらい掛かったんだ?」
「十年ほどでしょうか?」
「十年……」
レオンは思わず呟く。
ミコトは今、自分と同じ十六歳だ。
なら、六歳ほどの頃から。
この日誌と向き合ってきたことになる。
「どうしてそこまで?」
ミコトは少し考えた後。
僅かに表情を柔らかくした。
「憧れていたからでございます」
「英雄ハルトに?」
「はい」
ミコトは頷く。
「英雄ハルト様は、今ではその名で伝わっておりますが当時は違う名で呼ばれておりました」
「違う名前?」
「はい」
ミコトはゆっくりと口にする。
「駿河遥人……それが英雄ハルト様の本来のお名前です」
「……駿河遥人」
レオンはその名前を小さく繰り返した。
妙に耳へ馴染む名前だった。
この世界で生まれ育ったレオンにとってではない。
前世の神谷光一として生きていた自分にとって。
あまりにも聞き慣れた。
日本人の名前。
(駿河……遥人)
レオンは表情には出さない。
だが、胸の奥では、一つの疑念が確信へ近付き始めていた。
以前から、英雄ハルトについては引っ掛かることが多かった。
そして、今聞いた本名。
駿河遥人。
偶然とは。
どうしても思えなかった。
ミコトはそんなレオンの内心には気付かず、話を続ける。
「英雄ハルト様は三つの国が一つとなった後、皇帝にはなられませんでした。最も信頼していたヴァル家へ国を託し、帝国を離れられたと記されております」
「ああ」
その話はレオンも聞いている。
三国統一後、ハルトは自ら皇帝になることを選ばなかった。
信頼していたヴァル家の当主へ国を託し。
その後、各国を巡った。
「日誌によれば、帝国を離れた理由の一つは魔法の原理を研究するためだったようです」
「魔法の原理……」
「はい。属性、魔力の変換、魔法陣、その他にも私では未だ理解できない研究が数多く記されております」
レオンの眉が僅かに動く。
魔力の変換。
魔法陣。
そして日本人のような名前。
頭に浮かぶのはバルド山脈の麓 "迷いの洞窟"。
その奥にあった研究室。
そして、そこで手に入れた時空間魔法のスクロール。
(まさか……)
レオンは黙って続きを待つ。
「英雄ハルト様は各国を巡った後、王国へ渡られました。そして王国で一人の女性と出会われています」
「女性?」
「はい、王国貴族のご令嬢です。爵位は男爵」
レオンは何気なく聞いていた。
だが、次の言葉で、その表情が変わる。
「その男爵は当時、王国を守る騎士団長を務めていたと記されております」
「騎士団長……」
「はい」
ミコトは続ける。
「そして、その男爵家の紋章についても記されておりました」
「紋章?」
「盾です」
「……」
レオンの動きが止まる。
紋章の盾。
その言葉には聞き覚えがあった。
いや、それどころではない。
「待ってくれ」
レオンはミコトを見る。
「その男爵家の名前は?」
ミコトは真っ直ぐレオンを見る。
そして、静かに答えた。
「ノルディア」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ノルディア……?」
「はい」
ミコトは頷く。
「英雄ハルト様、駿河遥人様は王国へ渡った後、ノルディア男爵家のご令嬢と結婚されております」
「……」
レオンは言葉を失った。
ノルディア。
自分の家名。
五百年前。
王国を守る騎士団長だった男爵。
その家の紋章は盾。
そして、その娘と英雄ハルト。
駿河遥人が結婚した。
「ちょっと待ってくれ……」
レオンは額へ手を当てる。
情報が多すぎる。
「英雄ハルトがノルディア家の令嬢と結婚した?」
「はい」
「日誌には、そう記されております」
レオンは黙り込む。
偶然、そう片付けるには、あまりにも出来すぎていた。
「それで……」
レオンは顔を上げる。
「お前は最初から知ってたのか?」
「はい」
ミコトは頷く。
「ですので、レオン辺境伯様が帝国へ来られると聞いた時からノルディアという家名が気になっておりました」
「だから案内役を?」
「その理由の一つでございます」
「一つ?」
「はい」
ミコトはレオンを見つめる。
「そして、初めてレオン辺境伯様を拝見した時、もう一つ気になることがございました」
「何だ?」
ミコトの視線が。
レオンの髪へ向けられる。
「その黒髪です」
「髪?」
レオンは自分の前髪へ触れる。
「はい」
ミコトも艶やかな黒髪へ軽く触れた。
「王国では金髪、茶髪、青髪、赤茶色の髪を持つ方がほとんどだと聞いております。黒髪の方は珍しい」
「ああ」
レオンも頷く。
実際、王国で暮らしていても。
自分と同じ黒髪の人間を見かけることは少なかった。
「そして」
ミコトは続ける。
「英雄ハルト様……駿河遥人様も私達と同じ黒髪だったと伝わっております」
「……」
「五百年前、英雄ハルト様が結婚されたノルディア家、そして五百年後、同じノルディアという家名を持ち、王国では珍しい黒髪を持つレオン辺境伯様」
ミコトは静かに言う。
「初めてお会いした時、もしかするとと、そう思いました」
「なるほどな……」
レオンは自分の髪を摘まむ。
家名。
黒髪。
確かに英雄ハルトの日誌を十年も解読してきたミコトなら。
気になって当然だろう。
「ですが」
ミコトは首を横へ振る。
「その時点では、ただの偶然かもしれないと思っておりました。五百年も前のお話です、家名と髪の色だけで英雄ハルト様との繋がりがあるとは言えません」
「まあ、そうだよな」
「はい」
ミコトは頷く。
「ですが」
少しだけ表情が変わる。
「スルガ邸へお越しになられてから、偶然では説明しづらいことが次々とございました」
「……」
レオンは嫌な予感がした。
「まず玄関です」
「あー……」
「レオン辺境伯様は誰にも何も言われていないにもかかわらず、脱いだ靴を自然に揃えられました」
「……」
「畳の部屋へ入られた時も畳の縁を一度も踏まれませんでした」
「……」
「お茶の飲み方も、話をされている間の正座も、とても自然でした」
レオンは何も言えない。
「そして、夕食の時です」
ミコトは続ける。
「父上と母上は王国から来られたレオン辺境伯様が困られないよう、フォークとナイフもご用意しておりました」
「ああ……」
「ですが、レオン辺境伯様は一緒に置かれていた箸を何の迷いもなく使われました」
「……」
レオンは視線を逸らした。
レオンとして生まれてから。
箸など一度も持ったことはなかった。
だが、前世では違う。
二十八年間、毎日、当たり前のように使っていた。
だから、懐かしさもあり何も考えずに手に取ってしまった。
「それだけではございません」
ミコトが続ける。
「母上が『今日は赤飯にすれば良かったかしら』そう冗談を仰った時」
レオンは額へ手を当てた。
「……やっぱりそこもか」
「はい」
ミコトが僅かに微笑む。
「レオン辺境伯様は吹き出して笑われました」
「……」
「あの言葉の意味を最初から理解しておられたからではございませんか?」
レオンは答えない。
答えられない。
「赤飯を炊くのは女性が初潮を迎えた際などの、祝い事があった時の島国の風習でございます。そのような文化は王国にも帝国にもございません、それなのに」
ミコトはレオンを真っ直ぐ見つめる。
「レオン辺境伯様は説明される前から意味を理解されていた」
「……」
レオンは深く息を吐いた。
(完全にやらかしてるな……)
懐かしかった。
ただ、それだけだった。
靴を揃えることも。
畳の縁を踏まないことも。
正座も。
緑茶も。
箸も。
赤飯も。
神谷光一だった頃なら。
何一つ不思議ではない。
だが、ここは異世界だ。
しかも、自分は王国で生まれ育った辺境伯。
そんな人間が島国の文化を当たり前のように知っている。
不自然に決まっている。
ミコトは静かに続ける。
「ノルディアという家名、王国では珍しい黒髪、そして英雄ハルト様の日誌に記されている島国の文化を当たり前のように知っている、ここまで重なれば」
一度言葉を切る。
「偶然とは思えませんでした」
レオンはミコトを見る。
「それで俺が英雄ハルトと関係してると思ったのか?」
「はい」
ミコトは迷わず頷いた。
「英雄ハルト様が王国へ渡り、ノルディア家のご令嬢と結婚された、そして五百年後、そのノルディア家の当主である貴方が英雄ハルト様と同じ黒髪を持ち、島国の文化を知っている」
ミコトは静かに言う。
「私はレオン辺境伯様が英雄ハルト様の血を受け継いでいるのではないかと考えました」
「……」
レオンは何も答えなかった。
否定する材料がない。
むしろ自分自身そう考え始めていた。
英雄ハルト。
駿河遥人。
ノルディア家。
そして迷いの洞窟。
(もしかして、あの研究室も……)
レオンはそこまで考え。
一度思考を止める。
まだ証拠はない。
「だから」
レオンはミコトを見る。
「最初は英雄ハルトとの関係を確かめるために俺に近付いたのか?」
「はい」
ミコトは素直に頷く。
「最初はそうでございました」
「やっぱり一目惚れじゃなかったな」
「はい」
ミコトは即答した。
「そこは少しくらい迷ってくれよ」
「嘘を申し上げるわけには参りませんので」
「真面目だな……」
レオンは苦笑する。
だが一つ疑問が残っている。
「じゃあ、求婚したのも俺が英雄ハルトの子孫かもしれないからか?」
その問いにミコトは少しだけ黙った。
そして、ゆっくりと首を横へ振る。
「いいえ」
「違うのか?」
「はい」
ミコトは僅かに頬を赤くする。
「最初は英雄ハルト様との繋がりを知りたかっただけです……ですが帝都をご案内し、お話をしてレオン辺境伯様がどのような方なのかを知りました」
少し間を置く。
「そして私自身が」
レオンを真っ直ぐ見つめる。
「貴方との間に子を残したいと思いました」
「……」
レオンは数秒黙った。
「やっぱり直球だな……」
「遠回しな方がよろしかったでしょうか?」
「そういう問題じゃない」
「そうですか」
「そうだよ」
ミコトは不思議そうに首を傾げる。
レオンは大きく息を吐いた。
だが、ようやく全て繋がった。
なぜ、人付き合いが得意ではないミコトが。
自ら案内役を申し出たのか。
なぜ、会って間もない自分に興味を持ったのか。
そして。
なぜ求婚したのか。
「なるほどな……」
レオンは小さく笑う。
「やっと分かった」
「ご納得いただけましたか?」
「ああ」
レオンは頷く。
「全部話してくれてありがとう」
「いえ」
ミコトは静かに頭を下げた。
客室に短い静寂が訪れる。
レオンは考える。
英雄ハルト、いや駿河遥人。
ノルディア家。
魔力変換。
魔法陣。
そして。まだ解読されていない日誌。
今、自分が欲しいものは、もう決まっていた。
レオンは顔を上げる。
「ミコト」
「はい」
「昼間の勝負、俺が勝ったら言うことを一つ聞くって約束だったよな?」
「はい」
ミコトは姿勢を正す。
「何なりとお申し付けください」
「じゃあ」
レオンは迷わず言った。
「英雄ハルトの日誌を俺に見せてくれないか?」
ミコトの瞳が僅かに見開かれた。
「……日誌を?」
「ああ、今の話を聞いて確かめたいことが出来た」
レオンは真っ直ぐミコトを見る。
「それを俺に見せてほしい」
ミコトはしばらくレオンを見つめていた。
そして、静かに頷く。
「承知いたしました、少々お待ちください」
「今持ってくるのか?」
「はい」
ミコトは立ち上がる。
そして一礼すると客室を出ていった。
しばらくして、再び襖が開く。
戻ってきたミコトの両手には。
古びた一冊の日誌が抱えられていた。
長い年月を感じさせる表紙。
五百年前 英雄ハルト。
駿河遥人が残したもの。
ミコトはレオンの前へ正座すると。
大切そうに日誌を差し出した。
「こちらでございます」
レオンは両手で受け取ろうとする。
その時、ミコトが尋ねた。
「本当に私の身体ではなくてよろしいのですか?」
レオンの手が止まった。
「……」
数秒の沈黙。
「またかよ!」
「念のためでございます」
「確認しなくていい!」
ミコトは少しだけ残念そうに日誌を見る。
「そうでございますか……」
「これは約束だろ?」
レオンは苦笑しながら日誌を受け取る。
「俺が勝って願いを一つ聞いてもらう、それで俺はコレを選んだ」
「はい」
ミコトは静かに頷いた。
「では、お約束通りレオン辺境伯様へお預けいたします」
「ああ」
レオンは日誌を見る。
五百年前の英雄。
そしてノルディア家。
その秘密へ繋がっているかもしれない一冊。
レオンが表紙へ手を掛けようとした時。
ミコトが小さく呟いた。
「……これをお見せする代わりに抱いていただいた方が良かったかもしれません」
「ん?」
レオンが顔を上げる。
「何か言ったか?」
「いいえ」
ミコトは何事もなかったように首を横へ振る。
「何も申しておりません」
「そうか?」
「はい」
レオンは少し首を傾げた後。
再び日誌へ視線を落とした。
ミコトはそんなレオンを静かに見つめていた。
五百年の時を越え。
駿河遥人が残した日誌が。
再びノルディア家の人間の手へ渡った。




