第275話 冬の戦場
「雪……?」
コトハが空を見上げる。
ひらり、ひらりと白い雪が、訓練場へ静かに舞い落ちていた。
春を迎えようとしている帝都。
つい先ほどまで、穏やかな春の陽気だったはずだ。
それなのに雪は降り始めた。
一粒、二粒、と雪は止まらない
次第にその数を増していく。
クニヒロも空を見上げ、僅かに眉を寄せた。
「この時期に雪とは……」
だが、すぐに違和感に気付く。
雪が降っているのは、空高くからではない。
訓練場を覆うほどの範囲。
その周囲だけで生まれた雪が、ゆっくりと舞い落ちている。
「……寒い」
コトハが自分の両腕を抱く。
吐き出した息が白く染まった。
クニヒロも静かに白い息を吐く。
明らかに、先ほどより気温が下がっている。
その原因は一つしかなかった。
訓練場に立ち並ぶ、いくつもの氷壁。
レオンがミコトの攻撃を防ぐたびに作り続けてきたものだ。
氷壁から冷気が流れ続け、訓練場全体の気温を少しずつ奪っている。
地面にも薄く霜が広がり始めていた。
「まさか……」
クニヒロがレオンを見る。
その間にも、試合は続いていた。
ミコトの手が動く次の瞬間、鋭い風の刃が飛ぶ。
レオンは横へ跳んだ。
風の刃が背後の氷壁へ激突する。
ガンッ!!
氷が砕け、細かな破片が舞う。
だが、レオンは止まらない。
着地すると同時に、さらに横へ走る。
「逃がしません」
ミコトが追う。
左手で印を結ぶ。
今度は土。
地面から岩が飛び出した。
レオンは木剣を振るう。
ガンッ!!
岩を弾き、そのまま氷壁の横を駆け抜ける。
ミコトも追う。
レオンが左手を向けた。
ズズズッ!!
新たな氷壁が地面からせり上がる。
ミコトの正面を塞いだ。
「……っ」
ミコトはすぐに方向を変える。
氷壁の右側へ、そのままレオンを追う。
だが、レオンの口元が僅かに上がった。
ミコトは気付かない。
自分がどこへ走っているのか。
どの方向へ進まされているのか。
レオンが作った氷壁は、ただ攻撃を防ぐためだけのものではなかった。
一枚また一枚と攻撃を防ぎながら、少しずつ配置していた。
ミコトが通れる道を残しながら。
逃げられる方向を減らしながら。
少しずつ、少しずつ、望んだ場所へ誘導している。
だが、ミコトから見えている景色は違う。
レオンは近付いてこない。
自分が印を結べば逃げる。
攻撃すれば氷壁で防ぐ。
そして、また距離を取る。
自分が押している、そう見えていた。
ミコトが両手で印を結ぶ。
大きく息を吸い、炎を吐き出した
「ふっ!」
ゴオオオッ!!
炎がレオンへ迫る。
レオンは左手を突き出した。
巨大な氷壁がせり上がる。
ジュウウウウッ!!
炎と氷が激突する。
大量の白い蒸気が訓練場へ広がった。
ミコトはすぐに横へ走る。
蒸気の向こう側へ回り込む。
そして、レオンを見つけた。
「そこです!」
ミコトは地面を蹴り、一気に距離を詰める。
だが、レオンはまた後ろへ下がった。
「……!」
ミコトが追う。
レオンは氷壁と氷壁の間へ入る。
ミコトも迷わず、その後を追った。
ルーカスが、その光景をじっと見つめている。
そして、ようやく確信した。
「やはりか……」
クニヒロがルーカスを見る。
「ルーカス様?」
「あいつは逃げているんじゃない」
「え?」
コトハもルーカスを見る。
ルーカスは訓練場を指差した。
「見ろ」
クニヒロが視線を戻す。
立ち並ぶ氷壁、その間を走るレオンとミコト。
そして、ミコトの位置。
クニヒロの目が僅かに見開かれた。
「これは……」
氷壁が、道を作っている。
いや、道ではない。
逃げ道を削っている。
ミコトが移動できる方向を、少しずつ限定している。
クニヒロは思わず呟く。
「誘導していたのですか……」
ルーカスは静かに頷く。
「最初からだな」
その頃、ミコトは、まだ気付いていなかった。
目の前にいるレオンだけを追う。
印を結び、風の刃を放つが、レオンが避ける。
更に追い土弾を飛ばすが、氷壁で防がれる。
また追う。
気付けば、周囲には何枚もの氷壁が立ち並んでいた。
雪はさらに強くなっている。
ミコトの黒髪にも白い雪が積もり始める。
吐く息も白く濃くなっていく。
それでもミコトは止まらない。
「レオン辺境伯様!」
ミコトが地面を蹴る。
だが、今度はレオンが動かなかった。
「……?」
ミコトが足を止める。
先ほどまで距離を取り続けていたレオンが、初めてその場に立ち止まった。
木剣を右手に持ったまま。
静かにミコトを見ている。
雪が二人の間を舞う。
「どうなさいました?」
ミコトが木刀を構える。
「もう、お逃げにならないのですか?」
レオンは答えない。
一度だけ、周囲へ視線を向ける。
立ち並ぶ氷壁、そして、ミコトの現在地。
全てが予定した位置にある。
レオンは小さく息を吐いた。
白い息が、目の前へ広がる。
「ミコト」
「はい」
レオンは木剣を下ろした。
そして、静かに言った。
「この勝負、俺の勝ちだ」
ミコトの眉が僅かに動く。
「……何を仰っているのですか?」
まだ勝負は終わっていない。
自分は傷一つ負っていない。
木刀も握っている。
印も使える。
対してレオンは、先ほどから自分の攻撃を防ぎ続けていただけ。
どう見ても、ミコトの優勢が続いている。
「まだ私は負けておりません」
「ああ」
レオンは頷く。
「まだな」
「でしたら――」
「でも」
レオンが言葉を遮る。
「もう、逃げられない」
「……?」
ミコトが初めて周囲を見る。
右に氷壁。
左に氷壁。
そして後ろにも、巨大な氷の壁。
そこで初めて気付いた。
自分がいつの間にか、氷壁に囲まれた場所へ入り込んでいる。
「これは……」
ミコトの表情が変わる。
レオンは静かに続けた。
「俺が逃げてると思ってただろ?」
ミコトは答えない。
「違う」
レオンは木剣を肩へ乗せる。
「お前に逃げ道を選ばせてたんだ」
ミコトが周囲を見渡しながら思い返す。
レオンが氷壁を作るたび、自分は開いている方向へ回り込んだ。
右が塞がれれば左。
正面が塞がれれば横。
レオンを追い詰めるために。
最短の道を選び続けた。
だが、その道を作っていたのは、レオンだった。
「まさか……」
ミコトがレオンを見る。
レオンは答えない。
代わりに、左手をゆっくりと上げた。
人差し指を空へ向ける。
「上」
「……?」
「見てみろ」
ミコトが顔を上げ、そして目を見開いた。
「――っ!?」
雪が舞う空の、その向こう。
訓練場の遥か頭上に巨大な影が浮かんでいた。
巨大な氷塊、人一人を押し潰すどころではない。
訓練場の一角を丸ごと覆ってしまうほどの巨大な氷塊が、空中に浮かんでいる。
その表面から冷気が溢れ。
白い霧が流れ落ち。
周囲では無数の雪が生まれていた。
コトハが息を呑む。
「そんな……」
クニヒロも言葉を失う。
いつ作った。
誰も気付かなかった。
ミコトの印による攻撃を防ぎ。
氷壁を作り。
訓練場を走り回りながら。
同時に、あれほど巨大な氷塊を作り上げていた。
ルーカスだけが静かに空を見上げる。
「相変わらず……」
白い息を吐きながら、小さく呟いた。
「馬鹿げた魔力量だ」
ミコトは頭上の氷塊を見つめる。
そして、ようやく理解した。
雪が降っていた理由。
訓練場の気温が下がり続けていた理由。
レオンが氷壁を作り続けていた理由。
全て、この瞬間へ繋がっていた。
レオンは左手を下ろす。
巨大な氷塊がゆっくりと動いた。
ミコトの頬を、冷たい風が撫でる。
レオンは木剣を握り直した。
「さあ」
ミコトを真っ直ぐ見つめる。
「最後だ」




