第272話 和平のその後
和平調停式が終わり、謁見の間に張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいく。
帝国の重臣達が互いに言葉を交わし、先ほど署名されたばかりの条約は、文官の手によって丁寧に片付けられていた。
レオンも、ようやく肩の力を抜く。
これで、帝国へ来た最大の目的は果たした。
そんなレオンの前へ、皇帝ジーカスが歩み寄ってきた。
「レオン辺境伯」
レオンは、すぐに姿勢を正す。
「はい」
ジーカスは穏やかな表情でレオンを見る。
「改めて礼を言わせてくれ。今回の条約は、帝国にとっても大きな意味を持つものとなった」
「こちらこそ、帝国に受け入れていただけたこと、感謝しております」
レオンが頭を下げると、ジーカスは静かに頷いた。
「思えば、ノルディアとは長い付き合いになる。ヴァルグ殿の時代には不可侵条約が結ばれ、グラニウス殿の時代には和平条約へと進んだ」
一度言葉を切り、先ほどまで条約が置かれていた机を見る。
「そして、今度は貴殿の代で、互いに助け合い、商いまで行う関係になった」
レオンも、その机へ視線を向けた。
「祖父と父が築いてきたものがあったからです、私一人では、ここまで来ることはできませんでした」
ジーカスは僅かに笑みを浮かべる。
「そう言えるところも、グラニウス殿によく似ている」
「父に……ですか?」
「ああ、本人は否定するだろうがな」
レオンは思わず苦笑する。
父なら確かに、自分が何かを成し遂げたと言われても、
『領民と騎士達がいたからだ』
そんなことを平然と言いそうだった。
ジーカスはレオンの肩へ軽く手を置く。
「レオン辺境伯。これからも帝国をよろしく頼む」
レオンは真っ直ぐ皇帝を見る。
「はい。ノルディアも、よろしくお願いいたします」
「ああ」
ジーカスは満足そうに頷くと、踵を返した。
そのまま近衛兵達を伴い、謁見の間を後にする。
レオンは、その背中へ一礼した。
顔を上げると、今度はジークハルトがこちらへ歩いてきていた。
「レオン辺境伯」
「第一皇子殿下」
互いにそう呼び合う。
少しだけ、不思議な感覚があった。
以前、ジークハルトがノルディアを訪れた時、別れ際にルーカスと同じように接してほしいと言われた。
そして最後には、
『ジーク』
『レオン』
そう呼び合った。
だが、今は帝国皇城の謁見の間。
周囲には帝国の重臣や文官、そして他国から来たエミルもいる。
ジークハルトは帝国第一皇子。
レオンは王国の辺境伯。
正式な場である以上、互いの立場に相応しい振る舞いをする必要があった。
ジークハルトも、それを理解しているのだろう。
いつもの穏やかな表情を浮かべながら、丁寧な口調で話す。
「明日の予定について、お伝えしておきたいことがあります」
「明日ですか?」
「はい」
ジークハルトは頷く。
「明日の夜、今回の和平とレオン辺境伯の帝国訪問を祝して、皇城で歓迎の宴を催します」
「歓迎の宴……」
レオンは少しだけ驚く。
そんな話は聞いていなかった。
「帝国の主要な貴族、そして将軍家の者達も出席する予定です」
「随分と大きな宴になりそうですね」
「ええ」
ジークハルトは小さく笑う。
「今回の条約は、それだけ帝国にとって重要なものですから」
「なるほど……」
レオンは納得して頷いた。
帝国との交渉が終わったからといって、すぐに帰れるわけではないらしい。
領主になってからというもの、こうした付き合いにも随分慣れたつもりだったが、やはり宴は少し苦手だった。
そんなことを考えていると、ジークハルトが続ける。
「明日の夕方、私がスルガ邸までお迎えに参ります」
「第一皇子殿下自らですか?」
思わず聞き返す。
「はい」
「そこまでしていただかなくても、こちらから皇城へ伺いますが……」
「お気になさらず。私がお迎えに参ります」
そこまで言われて断る理由もない。
「分かりました。では、よろしくお願いいたします」
「はい」
そこで、ジークハルトが僅かに声を落とした。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「宴が始まる前に、少しお時間をいただけませんか?」
レオンは首を傾げる。
「俺……」
言いかけて、周囲を見て言い直す。
「私にですか?」
「はい」
ジークハルトは真っ直ぐレオンを見る。
「お話ししておきたいことがあります」
先ほどまでとは少し違う、真剣な表情だった。
何の話だ?
レオンはそう思ったが、この場で聞くような内容ではないからこそ、わざわざ宴の前に時間を取ろうとしているのだろう。
「分かりました。時間は問題ありません」
「ありがとうございます」
ジークハルトは小さく頷く。
「では、明日の夕方に」
「はい」
互いに一礼する。
ジークハルトは、そのまま謁見の間を後にした。
レオンはその背中を見送りながら、少しだけ考える。
(話したいこと……か)
今回の和平に関係することなのか。
それとも、別の何かなのか。
考えても答えは出ない。
明日になれば分かる。
そう考えていると、隣から声が聞こえた。
「レオン」
「ん?」
振り返る。
そこにはルーカスが立っていた。
先ほどまで正式な場だったため、皇子として振る舞っていたが、今はいつもの表情に戻っている。
「これで、今日のお前の公務は終わりだ」
「ああ……」
レオンは大きく息を吐いた。
「やっと終わった」
和平調停
条約への署名
皇帝との会話
さすがに緊張していたらしい。
肩を軽く回す。
「後はスルガ邸に戻って、少し休ませてもらうかな」
「そうか」
ルーカスは短く答える。
だが、何故かその視線が、レオンではなく別の方向へ向いた。
「……なんだよ?」
レオンも、その視線を追う。
そこには、黒の振袖姿のミコトが立っていた。
ミコトもこちらを見ている。
目が合うと、静かに微笑んだ。
その瞬間、レオンは思い出した。
「あ……」
ルーカスが淡々と言う。
「忘れていたのか?」
「いや、忘れてたわけじゃ……」
レオンは少し間を置き観念しかの様に口を開く
「……ちょっと忘れてた」
ルーカスは呆れたように息を吐く。
ミコトが静かにこちらへ歩いてくる。
「レオン辺境伯様。本日のご予定は、まだ終わっておりません」
「だよな……」
「はい」
ミコトは微笑んだ。
「私は、楽しみにしておりました」
「俺は全然楽しみじゃないんだけど」
「何故でしょうか?」
「負けたら結婚だからだよ!」
レオンの声が謁見の間へ響く。
近くにいた帝国の文官が、思わずこちらを見る。
レオンは慌てて声を落とした。
「……というか、ここで話す内容じゃないな」
「そうですね」
ミコトは平然と答える。
ルーカスはそんな二人を見ながら、僅かに口元を緩めた。
「スルガ邸へ戻るぞ」
「ああ」
「俺も立会人として行く」
レオンはルーカスを見る。
「公平に頼むぞ?」
「当然だ。俺はどちらにも味方しない」
「それならいい」
レオンは小さく息を吐き、改めてミコトを見る。
黒の振袖を纏い、静かに佇む少女。
今の姿だけを見れば、これから剣を交える相手には到底見えない。
だが、ルーカスが過去に一度だけ敗れた相手。
それが、目の前のミコトだった。
レオンは無意識に右目へ触れる。
(負けられないな……)
単純に勝ちたいという話ではない。
負ければ、ミコトを妻として迎える。
自分の人生が変わる勝負だ。
和平という、国の未来を左右する大きな役目を終えたその日の午後。
今度は、レオン自身の未来が懸かった勝負が始まろうとしていた。




