間章 帝国の頭脳
ヴァルハイト帝国の帝都、ヴァルハイム。
皇城の執務室の中央には巨大な机が置かれ、その上には大量の書類が積み上げられていた。
軍備に関する報告、帝国各地を治める領主からの報告書、次年度の予算案、周辺諸国との外交文書。その全てへ目を通しながら、一人の青年が休むことなくペンを走らせている。
銀色の髪に、翡翠色の瞳。
弟のルーカスとは違う細身の体格をしており、その立ち居振る舞いからは知的で落ち着いた雰囲気が感じられた。
青年の名は、ジークハルト・ヴァルハイト。
ヴァルハイト帝国の第一皇子であり、帝国内では【帝国の頭脳】と呼ばれている。
軍略、兵站、外交、内政。
その全てに秀でた、次代の皇帝候補だった。
そんなジークハルトも、今日ばかりは大量の仕事に追われていた。
本来なら弟のルーカスが処理するはずだった書類まで、自分の机へ回されているからだ。
コンコン。
執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
ジークハルトが書類から目を離さずに短く答えると、扉が開いた。
そこには、ジークハルトと同じ銀髪と翡翠色の瞳を持つ少年が立っていた。
「帰ったぞ」
聞き慣れた声に、ジークハルトはようやく書類から視線を上げた。
帝国第二皇子、ルーカス・ヴァルハイトが立っている。
「知っている」
「つまらんな」
「十分に楽しんできただろう」
即答だった。
ルーカスが僅かに眉をひそめる。
ジークハルトは机の端へ手を伸ばすと、積み上げられた書類の中から一枚の報告書を取り出した。
それを見たルーカスの表情が、露骨に曇る。
「見たのか?」
「当然だ」
帝国第二皇子が他国でどのような行動を取ったのかを記した報告書だ。
第一皇子であるジークハルトが確認しない理由はない。
ジークハルトは報告書へ視線を落とし、その内容を淡々と読み上げた。
「無断で北の森へ入り、レッドボアを単独で討伐。続けてグレイムベアと交戦。ノルディア騎士団の改革会議へ乱入し、新人兵の育成計画を見学。それから、毎朝、辺境伯代行へ帝国式剣術を指導。その結果、滞在期間は三週間……」
最後まで読み上げたジークハルトは、報告書を机へ置き、ルーカスを見た。
「弔問とは、何だったんだ?」
ルーカスは答えず、気まずそうに顔を逸らした。
その態度を見たジークハルトは、深いため息を吐く。
相変わらずだった。
「兄貴!」
「何だ?」
「それは、もう終わった話だ」
「終わっていない」
ジークハルトは即答した。
ルーカスが、さらに露骨に嫌そうな顔をする。
その分かりやすい反応に、ジークハルトは僅かに苦笑した。
剣の実力だけを見れば、年齢どころか大人の騎士と比べても遜色がない。
しかし、こうして向き合ってみれば、まだ十歳の少年である。
そこで、ジークハルトはある違和感を覚えた。
ルーカスが部屋から出ていこうとしない。
いつもなら、必要な報告だけを終えると、すぐに訓練場へ向かう。
長々と説教を聞くような性格でもなく、ジークハルトの仕事を眺めながら立ち尽くすことなど、これまで一度もなかった。
だが、今日は違う。
ルーカスは何かを言いたそうに、その場へ立ち続けている。
「まだ何かあるのか?」
ジークハルトが尋ねると、ルーカスは僅かに考え込んだ。
そして、意を決したように口を開く。
「兄上」
「何だ? 気持ち悪いぞ」
普段は「兄貴」としか呼ばないルーカスから、突然「兄上」と呼ばれたのだ。
何かを企んでいると疑うのも当然だった。
ルーカスは、そんな兄の反応を気にすることなく告げる。
「軍略を教えろ」
執務室に、沈黙が流れた。
書類へ署名しようとしていたジークハルトの手が止まる。
聞き間違いではないかと疑いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「もう一度言え」
「軍略だ」
ルーカスは真剣な表情をしていた。
「戦術、兵站、補給、軍の運用。全部だ」
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
今度はジークハルトが言葉を失う番だった。
ルーカスが剣以外のことへ、自分から興味を示した。
それは、ジークハルトの記憶にある限り初めてのことだった。
幼い頃から剣の才能に恵まれていたルーカスは、何よりも強さを求めてきた。
どれほど軍略や内政の重要性を教えても、剣で敵を倒せばよいと言い、まともに学ぼうとはしなかった。
そのルーカスが、自分から軍略を教えてほしいと言っている。
ジークハルトはすぐに答えず、弟の翡翠色の瞳を見つめた。
「理由を聞こう」
ルーカスは少し考えた後、静かに答えた。
「負けた」
「誰にだ?」
「レオン・ノルディア」
その名前を聞き、ジークハルトの目が僅かに細くなった。
「剣でか?」
「違う」
ルーカスは即座に否定した。
「剣は、まだ大したことない」
その言葉に、ジークハルトは少し驚いた。
ルーカスは、滅多に他人を褒めない。
ましてや、剣について相手の将来性を認めるような言葉を口にすることなど、ほとんどなかった。
だが、今のルーカスは『大したことない』とは言わず、『"まだ"大したことない』と言った。
つまり、今は自分より弱くても、いずれ強くなる可能性を認めている。
「なら、お前は何に負けた?」
ジークハルトが尋ねると、ルーカスは腕を組み、静かに答えた。
「全部だ」
「全部?」
「ああ」
ルーカスは迷うことなく頷いた。
「騎士団の動かし方、領民の見方、兵の育て方、戦い方、守り方」
ルーカスは真っ直ぐに、ジークハルトの目を見つめた。
「どれも、俺には思いつかなかった」
ジークハルトは、机へ置いた報告書へ視線を落とした。
レオン・ノルディア。
年齢は十二歳。
父であるグラニウス・ノルディアを亡くし、現在は辺境伯代行として領地を治めている。
報告書には、レオンが行った騎士団改革についても詳しく記されていた。
帝国製の大盾と重鎧を用いた防御部隊の編成。
経験豊富なベテラン兵を前衛へ配置し、中堅兵に槍を持たせ、新人兵を後衛へ下げる新たな運用方法。
新人兵を段階的に育成する訓練計画。
そして、魔獣討伐における死傷者数の大幅な減少。
どれも、普通であれば経験豊富な将軍や騎士団長が、長い時間をかけて考えるような内容だ。
それを、十二歳の少年が考え、実行した。
普通ではあり得ない。
ジークハルトは、もう一度報告書を最初から読み返した。
しかし、そこに記されている内容は変わらない。
「面白いな」
自然と口元が上がった。
ルーカスは腕を組んだまま、自分のことを褒められたかのように満足そうな表情を浮かべる。
「そうだろう」
その姿を見て、ジークハルトは苦笑した。
「随分と気に入ったようだな」
「気に入っている」
ルーカスは、少しも迷うことなく即答した。
「負けたくない相手だ」
その言葉に、ジークハルトは再び驚かされた。
ルーカスが、ここまで他人を認めることは滅多にない。
剣で倒したい相手や、戦ってみたい強者なら、これまでにもいた。
しかし、相手の考え方まで認め、自分から学ぶものを増やして追いつこうとしたことは一度もなかった。
しばらくの沈黙の後、ジークハルトは窓の外へ視線を向けた。
皇城の窓からは、広大な帝都ヴァルハイムの街並みが見渡せる。
その先に広がる、帝国の未来を見据える。
「ルーカス」
「何だ?」
「軍略を学びたいと言ったな」
「ああ」
ジークハルトは小さく笑った。
「なら、教えてやろう」
ルーカスが顔を上げる。
ジークハルトは、その翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめながら続けた。
「剣だけでは、守れないものもある」
その言葉を聞き、ルーカスは黙って頷いた。
どれほど強い人間であっても、たった一人でできることには限界がある。
一人で敵を倒すことはできても、広大な国土の全てを守ることはできない。
戦場で勝利するには兵を動かし、武器や食料を運び、負傷者を治療しなければならない。
何より、戦いを始めずに国を守る方法も学ぶ必要がある。
そのことを、ジークハルトは誰よりも理解していた。
今日、ルーカスが選んだ道は、間違いなく弟の未来を変える。
今はまだ、剣の強さだけを追い求める少年だ。
だが、もう剣だけで終わることはないだろう。
そんな予感があった。
ジークハルトは再び、机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。
そこに記されている、一人の少年の名前。
レオン・ノルディア。
「いつか、会ってみたいものだな」
ジークハルトは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
この日、帝国の未来を担う第一皇子が、一人の辺境伯家の少年に興味を抱いた。
その小さな興味が、やがて帝国とノルディアを繋ぐ縁となり、本来なら血で染まるはずだった未来を変えることになる。
そして、剣だけを追い求めていたルーカスが、後に【帝国の戦神】と呼ばれることを、この時はまだ誰も知らなかった。




