第256話 ゼムと言う名
客間には穏やかな静寂が流れていた
障子から差し込む柔らかな春の日差し
窓の向こうには先ほどの庭園が広がり
池では色鮮やかな魚達がゆったりと泳いでいる
やがて襖が静かに開いた
使用人がお盆を持って入室する
机の上へ丁寧に並べられたのは 湯気の立つ湯飲みと小さな和菓子だった
ふわりと優しい香りが部屋へ広がる
「どうぞ」
コトハが微笑む
「帝国南部の島国では昔から親しまれているお茶です」
「ありがとうございます」
レオンは湯飲みを両手で持ち
ゆっくりと口へ運んだ
温かな香りが鼻を抜ける
優しい苦味 そしてほのかな甘み
その瞬間光一として生きていた頃の記憶が蘇る
休日の午後 祖父と向かい合いながら飲んだ緑茶
湯気の立つ急須
静かな縁側
春風に揺れる木々
胸の奥がどこか温かくなる
「……美味しいです」
自然と笑みが零れた
「口に合いましたか」
コトハが嬉しそうに尋ねる
「はい とても落ち着く味ですね」
クニヒロも静かに頷いた
「お気に召していただけたようで何よりです」
その様子をミコトは静かに見つめていた
湯飲みの持ち方
飲む所作
どれもぎこちなさがない
まるで幼い頃から慣れ親しんできたような自然さだった
(やはり……)
玄関で履物を揃えた時と同じ
王国貴族とは思えないほど
この屋敷へ自然に溶け込んでいる
不思議な方だ そんな思いが少しずつ強くなっていく
クニヒロは湯飲みを置くと穏やかな表情で口を開いた
「レオン辺境伯 一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい」
「領主として 最も大切にされていることは何でしょうか」
突然の問いだった
だがレオンは少しも迷わなかった
「領民ですね……領民が安心して暮らせることです」
静かな声で答える
「安心して働けること 安心して商売ができること それが領地の発展に繋がると思っています 戦争になれば人は減ります 商人も来なくなる だから私は 領民が明日の生活を心配しなくていい領地を作りたいと思っています」
部屋に静寂が流れる
クニヒロは静かに目を閉じ
小さく頷いた
「なるほど……素晴らしいお考えです 十六歳とは思えません」
コトハも優しく微笑む
「だからノルディア領はあれほど発展したのですね」
レオンは照れくさそうに笑った
「私だけじゃありません ノルディア騎士団のみんなや 専属商人や執事のみんな そして領民全員のお陰です 私一人では何も出来ませんでした」
その言葉を聞いたミコトは静かにレオンを見つめる
父が高く評価していた理由が少し分かった気がした
功績を自分一人のものにしない
それが自然にできる人だった
クニヒロは穏やかに微笑みながら
もう一度口を開く
「もう一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
レオンは頷いた
クニヒロは武人らしい鋭い眼差しになる
「ルーカス殿下より伺いました 帝国式の勝負でレオン辺境伯が勝利されたそうですね」
レオンは苦笑した
「勝敗だけで言えばそうですが 私はまだ一勝しかしてません 四年程前 ルーカスが父上の弔問としてノルディアへ来た時には散々負けましたから 今回ようやく一勝できただけです」
クニヒロは静かに笑う
「ですが その一勝がどれほど価値あるものか帝国の武人なら誰もが理解しております ルーカス殿下は幼い頃より帝国式を学ばれております そのルーカス殿下へ帝国式で一勝を挙げられた 決して容易なことではありません」
レオンは照れくさそうに頭を掻いた
「そう言っていただけるのは嬉しいですが俺一人の力じゃありません それもノルディア騎士団や執事達のお陰です」
クニヒロはその言葉に静かに頷いた
「執事……ですか」
少し考え込むように目を閉じる
そしてゆっくりと口を開いた
「その執事の方はルーカス殿下が師と呼ばれている方でしょうか?」
レオンは少し驚いた
「知っていたんですか?」
「ええ」
クニヒロは静かに頷く
「ジークハルト殿下よりルーカス殿下が師と仰ぐ方がおられると伺っております その執事の方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ゼムです」
その名前を聞いた瞬間
クニヒロの表情が僅かに変わる
「……ゼム」
その名には覚えがあった
約五十年前話を幼い頃に祖父から聞いた
そして先日 ジークハルト殿下から耳にした名前
二つの記憶が一つに繋がる
クニヒロは静かにレオンへ視線を向けた
「その方は……銀髪に黒い瞳を持つ 帝国出身の方ではありませんか?」
レオンは少し目を見開く
その言葉で幼い頃のゼムの姿が脳裏へ浮かんだ
父グラニウスが生きていた頃
ゼムの髪は透き通るような美しい銀髪だった
だが 今は歳を重ね その髪は真っ白な白髪へと変わっている
毎日顔を合わせていたため
その変化を意識することはほとんどなかった
「……そうですね 今は歳を取って真っ白な白髪ですが 昔は綺麗な銀髪でした」
クニヒロは静かに目を閉じ 小さく頷いた
「やはり……」
その一言にレオンは不思議そうに首を傾げた
「何かご存知なんですか?」
クニヒロはゆっくりとレオンを見つめ返した
「当時を知る者はもう少なくなりましたが知っている者はおります……そのお話をさせていただきましょう」
客間には静かな空気が流れていた
クニヒロは湯飲みを静かに机へ置く
そしてゆっくりと口を開いた
「ゼム殿は私の祖父の弟と現皇帝陛下の祖母の妹との間に生まれた方です」
その言葉にレオンは目を見開いた
「えっ……」
思わず声が漏れる
あまりにも予想外だった
ゼムが帝国出身なのは知っていた
だが 将軍家と皇帝家へ繋がる血筋だったなど
一度も聞いたことがない
クニヒロは静かに続ける
「当時は 互いの血は混ぜない そのような将軍家の決まりがありました……今では既に廃されておりますが当時は両将軍家も帝国貴族も それぞれの血筋を守ることを何より重んじていたのです ですが二人は互いを想い に決まりに背き 帝国南部の辺境へ移り住みました……ちょうどバルト山脈を挟み ノルディア領の反対側です」
レオンは静かに耳を傾ける
クニヒロは遠い昔を思い返すように続けた
「その後 両家は一つの条件を提示しました 戦で武功を立てることができれば正式に婚姻を認めると……二人はその条件を受け入れ夫婦揃って出兵しました」
部屋に静寂が落ちる
クニヒロはゆっくりと目を伏せた
「ですが……二人が帰ることはありませんでした 約五十年前 ヴァルグ・ノルディア辺境伯との戦です」
その一言でレオンは全てを悟った
祖父ヴァルグ 帝国兵四万人を討った戦い
その四万人の中にゼムの両親もいた
レオンは静かに息を呑む
「そんなことが……」
クニヒロは静かに頷いた
「もっとも……この話はゼム殿本人もご存じないでしょう」
レオンは驚いた
「知らないんですか?」
「ええ 私達がゼム殿の存在を知ったのはご両親の戦死が両家へ伝えられた後のことでした その報せと共に二人の間に幼い子供がいたことを初めて知ったのです」
クニヒロは話を続けた
「祖父はすぐにゼム殿をスルガ家で引き取ろうと使いの者を帝国南部へ向かわせました……ですが 既に家には誰もいなかったそうです 幼い子供がどこへ行ったのか最後まで分からなかったと聞いております」
レオンは静かに俯いた
その話を聞いた瞬間
父グラニウスが珍しくゼムについて語ってくれた日のことを思い出す
『ゼムは元々 父上を殺すためにノルディアへ来た』
当時は驚いた
だが 今なら全てが繋がる
(そうか……スルガ家が探しに来た頃にはゼムはもうノルディアへ向かっていたんだ……)
クニヒロは静かに続けた
「祖父は随分と後悔したそうです 家の決まりなど気にせず二人の婚姻を認めていれば このような悲劇は起きなかったのではないかと 何度も口にしていたと聞いております」
部屋に再び静寂が流れる
「そして祖父は決めました 家の決まりのために人の幸せを犠牲にしてはならないと その出来事をきっかけにスルガ家は考え方を改めました 同じ悲劇を二度と繰り返さないためです」
コトハも静かに頷く
「今ではそのような決まりは残っておりません 本人達の意思を尊重しております」
レオンは静かに頷いた
「そうだったんですね……」
ゼムは 一度もその過去を語らなかった
祖父ヴァルグにも
父グラニウスにも
そして自分にも
何も語らず ノルディア家へ忠義を尽くしてきた
その忠義の重さを思うと胸が締め付けられる
「帰ったら……」
レオンは小さく呟く
「一度 ゼムと話してみます」
クニヒロは穏やかに微笑んだ
「ゼム殿もきっと驚かれるでしょう ゼム殿には知る権利はあると思います」
その時だった
静かに話を聞いていたミコトがゆっくりと口を開く
「お父様」
クニヒロは娘へ視線を向ける
「どうした?お前が口を挟むなんて珍しい」
「この後 帝都のご案内は私が務めてもよろしいでしょうか?」
その言葉にコトハは少し驚いた表情を浮かべた
クニヒロも思わず笑みを浮かべる
「珍しいな お前からそのようなことを言うとは」
ミコトは静かに頷く
「レオン辺境伯のお話をもっと伺いたいと思いました」
クニヒロは穏やかに頷いた
「分かった 任せよう」
「ありがとうございます」
ミコトは一礼すると
レオンへ向き直る
「レオン辺境伯様 この後 帝都をご案内いたします まずは帝都で一番の有名なのは武具 なので帝国の武具店へ参りましょう」
レオンも笑みを浮かべた
「よろしくお願いします」
こうしてレオンはミコトと共に帝都を巡ることとなった




