第25話 兄からの手紙
ノルディア辺境伯家の執務室で、レオンはいつものようにルーカスとの朝稽古を終え、机に積まれた書類へ目を通していた。
騎士団から届いた報告書、魔獣の討伐記録、食料や武具の備蓄管理、街道補修の見積書。
辺境伯代行になってからは、これがレオンの日常になっていた。
最近は騎士団改革の影響もあり、確認しなければならない書類がさらに増えている。
新人兵の配置や新しい訓練計画を考え、帝国製の装備を与えた大盾部隊の運用訓練についても決めなければならない。
どれも、領民や兵士の命に関わることだ。忙しいからといって、放置することはできなかった。
レオンには、父のように剣一本で領地を守ることはできない。
北の守護者と呼ばれたグラニウスのように、圧倒的な武力だけで人々へ安心を与えることもできない。
だからこそ、レオンは机へ向かい続けていた。
自分にできる方法で、領地と領民を守るために。
コンコン。
書類へ目を通していると、執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
レオンが答えると、扉が静かに開かれた。
執務室へ入ってきたのはゼムだった。
その後ろには、レオンの見覚えがない男が立っている。
銀色の装飾が施された軍服から、帝国の使者であることが分かった。
ゼムはレオンの前まで進むと、丁寧に一礼した。
「ぼっちゃま」
「どうした?」
「帝国より、ルーカス殿下宛ての書状が届いております」
レオンは書類から顔を上げた。
帝国から、この時期に届いた書状。
何となく、嫌な予感がした。
執務室のソファでくつろいでいたルーカスも立ち上がる。
すると、使者はルーカスへ向き直り、恭しく頭を下げた。
「第一皇子殿下より、書状をお預かりしております」
その瞬間、ルーカスの表情が僅かに曇った。
ほんの僅かな変化だったが、レオンは見逃さなかった。
「兄上からか?」
「ああ」
ルーカスは使者から書状を受け取った。
使者は役目を終えると、少し離れた場所まで下がり、ルーカスが書状を確認するのを待った。
封蝋には、ヴァルハイト皇家の紋章が刻まれている。皇家の人間から直接送られた、正式な書状だった。
ルーカスはその場で封を切り、中に入っていた手紙を広げる。
数秒。
十秒。
二十秒。
読み進めるにつれて、ルーカスの表情がみるみる険しくなっていった。眉間には深い皺が刻まれ、翡翠色の瞳も鋭く細められている。
レオンは思わず首を傾げた。
普段は何が起きても堂々としているルーカスが、ここまで露骨に嫌そうな顔を見せるのは珍しい。
「どうした?」
ルーカスは、しばらく何も答えなかった。
やがて、何も言わないままレオンへ手紙を差し出す。
「兄貴からだ」
レオンは受け取ろうとして、途中で手を止めた。
「見てもいいのか?」
相手は、帝国第一皇子ジークハルトからルーカスへ送られた書状だ。
たとえルーカスがレオンの執務室で読んでいたとしても、本来なら他国の貴族が勝手に目を通してよいものではない。
しかし、ルーカスは平然としていた。
「構わん。ただの説教だ」
「説教……?」
レオンは嫌な予感を覚えながら、差し出された手紙を受け取った。
そして、最初の一文へ目を落とす。
◇
親愛なる弟へ。
まず、確認したい。
お前は、ノルディア辺境伯家へ弔問に向かったはずだな?
こちらへ届いた報告によれば、現在もノルディア領に滞在しているとのことだ。
私の認識が正しければ、弔問とは三週間も行うものではない。
◇
手紙を持つレオンの肩が、僅かに震え始めた。
その変化に気づいたゼムが横から手紙を覗き込む。
いつの間にか執務室へ入っていたガレスも、気になったのか反対側から手紙へ目を向けていた。
レオンは笑いを堪えながら、続きを読む。
◇
さらに、こちらへ届いた報告によれば、無断でのレッドボア討伐、グレイムベアとの戦闘、ノルディア騎士団の改革会議への参加、新人兵育成計画の見学、毎朝の辺境伯代行への剣術指導など、好き勝手に行動しているらしいな。
私はいつから、お前がノルディア家の騎士団教官になったのか知らない。
◇
「ぶっ……!」
レオンは、ついに吹き出した。
耐えられなかった。
ガレスは笑いを堪えるために顔を逸らしているが、その肩は激しく震えている。
ゼムも口元へ手を当て、咳払いで誤魔化していた。
ただ一人、ルーカスだけが不満そうな顔をしている。
「何がおかしい?」
「いや……お前の兄上、かなり怒っているな」
レオンは必死に笑いを堪えながら答えた。
「いつものことだ」
ルーカスは真顔だった。
反省している様子は、まったくない。
レオンは目元に浮かんだ涙を拭いながら、さらに手紙を読み進めた。
◇
帝国では、処理しなければならない書類が山積みだ。
私は毎日、お前の分まで働いている。
少しは反省しろ。
◇
今度こそ、レオンは耐えられなかった。
「ぶっ、ははははっ!」
レオンの普段とは違う笑い声を聞き、ガレスもとうとう吹き出した。
ゼムも口元を押さえているが、笑っていることは隠しきれていない。
ルーカスだけは、何故笑われているのか納得できないような顔をしていた。
レオンは笑いを堪えながら、手紙の最後へ目を向けた。
◇
直ちに帰還せよ!
なお、この手紙を読んでから三日以内に帰還しない場合、私が直接迎えに行く。
その際は、父上にも全て報告する。
ジークハルト・ヴァルハイト
◇
最後まで読み終えたレオンは、笑いを収めながら、ゆっくりと手紙を畳んだ。
そして、ルーカスへ返しながら一言だけ告げる。
「帰れ」
即答だった。
「帰ってください」
ガレスも即座に続く。
「お帰りくださいませ」
ゼムも穏やかな笑顔で告げた。
執務室にいる全員の意見が、見事に一致した。
ルーカスは不満そうに腕を組む。
「兄貴は大袈裟なんだ」
レオンは真顔で答えた。
「いや、普通にお前の兄上が正しい」
「そうか?」
「そうだ」
弔問を理由にノルディアへ来て、すでに三週間。
その間、勝手に北の森へ入り、レッドボアやグレイムベアと戦った。毎朝レオンへ帝国式剣術を教え、騎士団改革の会議へ乱入し、新しい部隊編成による討伐まで見学した。
どう考えても、弔問のための滞在ではない。
明らかに長居だった。
ルーカスは、しばらく何も言わなかった。
やがて窓の外へ視線を向ける。
訓練場では、ノルディア騎士団の兵士達が新しい編成で訓練を行っていた。
帝国製の大盾を構えるベテラン兵。
その後ろから槍を突き出す中堅兵。
さらに後方では、新人兵達が弓を構えている。
ルーカスはその光景を眺めた後、ゆっくりと視線を上げた。
窓の向こうには、青いノルディアの空が広がっていた。
短い滞在だった。
だが、得たものは大きかった。
ルーカスは小さく息を吐くと、レオンへ向き直った。
「……分かった」
レオンが顔を上げる。
「帰る」
その言葉を聞いた瞬間、壁際で待っていた帝国の使者が露骨に安堵した。
ようやく、自分の仕事を無事に終えられる。
その表情が、はっきりと物語っていた。
帝国から遠く離れたノルディアまで皇子を迎えに来た使者の苦労を想像し、レオンは同情するように何度も頷く。
そんなレオンを見ていたルーカスが、突然口を開いた。
「まだ時間はある。あと三日だ」
「まだいるのかよ」
レオンは思わず呆れた声を上げた。
「最後まで付き合え」
「嫌だと言ったら?」
「朝の訓練を倍にする」
「よし、分かった。付き合おう!」
レオンは即答した。
ガレス達が声を上げて笑い、ルーカスも僅かに口元を緩めた。
帝国の剣がノルディアを去るまで、あと三日。
残されたその三日間は、二人にとって忘れられない時間になるのだった。




