間章 専属商人と帝国の頭脳
王国第一王子アレクの来訪から二日後
クロエはノルディア邸ではなく 宿場町にある宿の一室で朝を迎えていた
窓から差し込む朝日を浴びながら 小さく息を吐く
「しばらくはここで生活かな」
理由は単純だった
アレクとは面識がある為だ
それも一度や二度ではない
ヴァイスフェルト公爵令嬢だった頃 王城で開かれる茶会や夜会には何度も参加していた
王国第一王子 王位継承のアレク
そして当時 クロエはそのアレクの婚約者候補の一人だった
貴族同士の繋がりを深めるため 幾度となく顔を合わせてきた
直接二人きりで話す機会は少なかったが それでも挨拶を交わし 同じ席で食事をし 舞踏会では何度も顔を合わせた
だからこそクロエは思う
「見つかったら終わりだよね」
アレクなら 今の自分を見ても気付く可能性が高い
髪は以前より少し短くなり 服装も公爵令嬢ではなく商人の格好をしている
だが顔までは変わらない
もし正体が知られれば 余計な詮索を招き レオンにも迷惑を掛けることになる
だからこそ 自分から宿へ移った
「レオンなら大丈夫」
今頃ノルディア邸では レオンがアレク達の対応をしているはずだ
少し申し訳ない気持ちはある
それでも今は 表に出ないことが一番の手助けになる
クロエは気持ちを切り替えるように頬を軽く叩いた
「よし!」
机の上へ積まれた帳簿へ手を伸ばす
専属商人の仕事は山ほどある
専属商人になってから 暇だった日は一日もない
クロエは一番上の帳簿を開いた
最初に目へ入ったのは ボア肉事業だった
「今月も順調っと」
王都や教国へ運ばれるボア肉
以前はノルディア領だけで消費されていた魔獣肉だった
しかし今では王都でも人気商品となり 安定した利益を生み続けている
クロエは数字を指でなぞる
「利益も先月より増えてる」
思わず笑みがこぼれた
次の帳簿を開く
「保温箱も」
こちらも順調だった
真空構造にする為風魔法を利用し組み合わせた保温箱
教国との回復薬事業
フェルナード領との海産物輸送
今ではノルディア領に欠かせない商品となっている
「フェルナード領からの海産物も予定通り」
干物
塩漬け
冬の時期は新鮮な魚介
以前では考えられなかった量が毎日のように届いている
その利益も決して小さくない
「教国との取引も問題なし」
回復薬
魔力草
教国との共同事業も軌道に乗っていた
レオンが考えた新しい魔力草栽培
あの時は半信半疑だった
けれど今では教国からも高く評価され 魔力草だけでも継続的な取引へと繋がっている
クロエは次々と帳簿をめくる
どれも黒字
どれも成長している
自然と頬が緩んだ
「本当に凄いな」
レオンは領主になってまだ三年余り
それなのに これだけ多くの事業を成功させていた
もちろん全てが順風満帆だったわけではない
失敗もあった
苦労もあった
それでも諦めず 一つ一つ形にしてきた
『僕は商売で支える』
それが専属商人としての役目
レオンが剣や采配で領地を守るなら
自分は商売で領地を豊かにする
クロエは最後の帳簿へ手を伸ばした
表紙には 新しく書かれた文字があった
【氷事業】
今年の冬から始まったばかりの 新しい事業だった
クロエはゆっくりと帳簿を開いた
「うん……順調だね」
帳簿には毎日の出荷数と売上が細かく記されている
ノルディア領の丘から湧き出る湧水
その湧水を凍らせた氷は 保温箱へ積み込まれ フェルナード領へ運ばれていた
クロエは一緒に綴じられた報告書を手に取る
「えっと……」
一枚ずつ目を通していく
『海鮮の鮮度が以前より長く保たれている』
『肉の品質が落ちにくくなった』
『氷の溶けた冷たい水でも鮮度が保たれると評判が良い』
クロエは思わず微笑んだ
「良かった」
フェルナード領では 氷で魚を冷やすだけではなく
溶けた冷たい水も魚介を冷やすために利用されていた
その評判は漁師や商人達の間でも広まり
追加の注文も少しずつ増え始めている
「保温箱も 氷も大成功だね」
クロエは帳簿を閉じることなく 次のページをめくる
利益も予想以上だった
氷だけではない 保温箱も売れアイデア料も入ってきている
フェルナード領からは新鮮な海産物が届き
それをノルディアで販売する
一つの商売が また次の商売へ繋がっていく
「本当に無駄がないな」
レオンはいつもそうだった
一つだけで終わらせない
ボア肉事業も
回復薬事業も
保温箱も
そして氷事業も
全部が繋がり 領地全体の利益になっている
「僕はその商品を一番高く売るだけ」
それが専属商人としての役目だった
レオンが新しい価値を生み出す
自分はその価値を広め 利益へ変える
それだけでいい
クロエは満足そうに笑った
コンコンと部屋の扉が静かに叩かれた
「はい」
「クロエ様 お客様がお見えです」
宿の主人の声だった
「僕に?」
「はい 帝国第一皇子ジークハルト様がお呼びです」
クロエは少し驚いた
「帝国第一皇子が……僕を?」
思い当たる理由は一つしかない
「商談かな」
大盾と重鎧
以前から話が出ていた帝国との取引
正式な交渉が始まるのだろう
クロエは帳簿を閉じると 椅子から立ち上がった
「分かったよ 今から行くね」
上着を整え 深く息を吸う
「専属商人として 頑張らないと」
そう呟くと クロエは宿の主人の案内で 帝国使節団の待つ宿へ向かった
宿の主人に案内され クロエは帝国使節団が滞在する宿へ入った
廊下を進み 一室の前で足を止める
「こちらです」
「ありがとう」
クロエは一度深呼吸をすると 扉を軽く叩いた
「ノルディア専属商人のクロエです」
「どうぞ」
落ち着いた男性の声が返ってくる
クロエが部屋へ入ると
そこには二人の青年が座っていた
一人は銀髪に翡翠色の瞳 鋭い眼差しを持つ
帝国第二皇子【帝国の剣】ルーカス・ヴァルハイト
更に奥に居る一人の青年に目を向けた
穏やかな笑みを浮かべながらも
艶のある銀髪
知性を感じさせる翡翠色の瞳
無駄のない細身の体格
派手な威圧感はない
それでも部屋へ入った瞬間から 自然と視線を引き寄せる不思議な存在感があった
穏やかな表情の奥に 冷静に相手を見極める鋭い眼差しが宿っている
クロエはすぐに確信した
(この人が……)
帝国第一皇子 【帝国の頭脳】ジークハルト・ヴァルハイト
ジークハルトは静かに立ち上がる
「初めまして 私はジークハルト・ヴァルハイトです 本日は突然お呼び立てして申し訳ありません」
クロエも姿勢を正し 一礼した
「初めまして ノルディア辺境伯家専属商人 クロエです 本日はよろしくお願いいたします」
ジークハルトは穏やかに微笑む
「こちらこそ よろしくお願いいたします」
三人は席へ着いた
クロエは机の上に数枚の書類が並べていく
そして最後の一枚の紙を机へ置いた
「まずは希望する品ですが……帝国騎士団で使用する大盾十枚と 重鎧十着を購入したいと考えています」
ジークハルトは紙へ目を通す
数量を確認すると ゆっくり顔を上げた
「承知しました」
「希望金額をお出しします」
クロエは鞄から一枚の紙を取り出した
部屋は静まり返っていた
「お待たせしました こちらをどうぞ」
用紙を手に取り ジークハルトが見る
「大盾十枚で金貨百二十枚 重鎧十着で金貨百七十枚ですか……」
ルーカスは小さく目を見開いた
ジークハルトは表情を変えない
「なるほど」
静かに頷くだけだった
クロエも相手の反応を見つめる
まだここからが本当の商談だった
ジークハルトは少しだけ口元を緩める
「では 商談を始めましょうか」
その一言で 部屋の空気が少しだけ張り詰めた




