第23話 最初の一歩
騎士団改革会議から三日後、ノルディア領北部に位置するバルト山脈の麓には、二十名ほどの討伐隊が集まっていた。
レッドボアの討伐は、ノルディアでは日常的に行われている仕事だ。
領地の北部に広がる森には数多くの魔獣が生息しており、畑や街道へ被害が及ぶ前に、騎士団が定期的に数を減らしている。
しかし、今日の討伐は、これまでとは大きく違っていた。
「本当に、この編成で行くんですか?」
隊列の後方にいた若い兵士が、不安そうに呟いた。
その視線の先では、歴戦のベテラン兵達が最前列に並んでいる。全員が巨大な帝国製の大盾を持ち、身体を隙間なく覆う重鎧を身につけていた。
大盾を横一列に並べて立つ姿は、まるで城壁がそのまま歩いているかのようだった。
一方、新人兵達は隊列の後方に配置され、弓や罠、回復薬や予備の武器をそれぞれ背負っている。
これまでのノルディア騎士団では、新人が盾と剣を持って最前線へ立ち、その後ろから経験を積んだ兵士達が攻撃することが当たり前だった。
だが、今日の隊列は、その常識とまったく逆になっている。
「若様の命令だ」
騎士団長として討伐隊を率いるガレスが、若い兵士達を振り返った。
「まずは、やってみる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
辺境伯代行であるレオン自身が考え、決めたことだ。そして何より、レオンは「北の守護者」と呼ばれたグラニウスの息子でもある。
若干十二歳でありながら、父を救うためにバルト山脈の洞窟から生還し、グレイムベアを一撃で討伐した。その実績とノルディア家の名に、兵士達は少なからず信頼を寄せていた。
討伐隊から少し離れた場所では、レオンがルーカスと並んで立っていた。
「本当に、新人を後ろへ配置するのか?」
ルーカスが隊列を眺めながら尋ねる。
「ああ」
「怖くないのか?」
「何がだ?」
「実戦経験を積ませる機会が減る。後方にいるだけでは、いつまで経っても前線で戦えるようにはならないかもしれないぞ」
レオンは、その言葉に首を横へ振った。
「最初は、戦場に慣れることが大事なんだ。生きてさえいれば、経験は後からいくらでも積める。ただ――」
レオンは討伐隊からルーカスへ視線を移し、その翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「死んだら、そこで終わりなんだ」
ルーカスは何も言わなかった。
レオンの言葉を確かめるように、その顔をしばらく見つめる。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「お前らしい」
レオンは答えず、僅かに肩を竦めた。
その時、森の奥から何かが近づいてくる音が聞こえ始めた。
ドドドドドドッ!!
木々が大きく揺れ、足元の地面まで微かに震える。
討伐隊から、それまで残っていた僅かな話し声が消えた。全員の表情が引き締まり、それぞれが武器へ手をかける。
近づいてくるのは、レッドボアだ。
しかも、一頭や二頭ではない。
木々の隙間から見える赤黒い影の数は、十頭を超えていた。どうやら、群れで森の中を移動しているところに遭遇してしまったらしい。
最前列に立つベテラン兵が、背後の仲間達へ向かって叫ぶ。
「野郎ども、来るぞ!!」
次の瞬間、森を突き破るように巨大な猪の魔獣が姿を現した。
全長二メートルを超える巨体。全身を覆う赤黒い毛皮と、口元から突き出した鋭い牙。太い四肢で地面を蹴るたび、土と小石が後方へ激しく飛び散っている。
初めて魔獣の突進を正面から見た新人兵であれば、その迫力に足が竦んでもおかしくない。
だが、今日は違った。
「大盾、構え!!」
ガレスの号令が響いた。
最前列のベテラン兵達が一斉に大盾を持ち上げ、下端を地面へ叩きつける。
ドンッ!!
重い音が一つに重なり、大地を震わせた。
十枚の大盾が隙間なく並び、巨大な壁を作り上げる。その姿は、敵の侵入を拒む城門のようだった。
直後、突進してきたレッドボアの群れが、重騎士達の作った壁へ激突した。
ドゴォォン!!
凄まじい衝撃が響き、大盾の表面が大きく揺れた。
ベテラン兵達の足元から土が舞い、重鎧の内側で身体が軋む。それでも、誰一人として後方へ吹き飛ばされる者はいない。
帝国製の重鎧が身体を守り、巨大な大盾がレッドボアの突進を受け止める。
そして、何度も魔獣と戦ってきたベテラン兵達が、衝撃を受け流しながら踏み留まっていた。
壁は、一切崩れなかった。
「止まった……?」
後方にいた新人兵達が、驚きに目を見開く。
これまでの討伐であれば、レッドボアの突進を受けた新人兵が何人も吹き飛ばされていた。運が悪ければ、その一撃だけで重傷を負う者や、命を落とす者さえいた。
だが、今回は違う。
帝国製の大盾と重鎧。
そして、長年の戦いで培われたベテラン兵達の経験。
その全てが揃ったことで、レッドボアの群れによる突進を真正面から止めていた。
「今だ!」
ガレスの声が響く。
大盾の後ろで待機していた中堅兵達が、一斉に槍を突き出した。
ズドッ!!
ズドッ!!
大盾の隙間から伸びた槍が、動きを止められたレッドボアの身体へ次々と突き刺さる。
魔獣達が苦痛の声を上げ、その場で激しく暴れた。しかし、前には大盾があり、後ろからは仲間のレッドボアが押し寄せてくるため、簡単には身動きが取れない。
「後方、弓を放て!」
号令を受け、新人兵達が弓を構える。
狙うのは、前衛と中衛が動きを止めているレッドボアだ。
ビュッ!!
ビュッ!!
弦の音が連続して響き、何本もの矢が宙を飛ぶ。
一本、二本、三本と、放たれた矢がレッドボアの身体へ確実に命中していった。
これまでであれば、新人兵達は最前線に立たされ、目の前の魔獣から生き残ることだけで精一杯だった。周囲を見渡す余裕もなければ、仲間と連携する余裕もない。
だが、今は違う。
自分達の前には、ベテラン兵が作った強固な壁がある。
魔獣の動きを見る余裕がある。
狙いを定める余裕がある。
そして、自分の役目を果たす余裕がある。
「当たった!」
一人の新人兵が、思わず声を上げた。
その顔は驚きと喜びに満ちていた。
実戦へ参加するようになってから、初めて自分の攻撃が魔獣へ命中した。
初めて、戦場で仲間の役に立てた。
そう実感することができたのだ。
少し離れた場所から戦況を見守っていたレオンは、その新人兵の表情を見て、小さく頷いた。
「よくなった」
隣に立つルーカスが、レオンへ視線を向ける。
「何がだ?」
レオンは、後方で次の矢を準備している新人兵達を見た。
「新人達の顔だよ」
ルーカスも、その視線を追った。
新人兵達の顔には、まだ魔獣に対する恐怖が残っている。
だが、そこに浮かんでいるのは、恐怖だけではなかった。
自分の攻撃が役に立ったという達成感。
次も当てられるかもしれないという自信。
前にいる仲間が守ってくれるという安堵。
つい先ほどまで怯えていた若者達の顔が、戦いの中で少しずつ兵士のものへ変わっていく。
その変化を、ルーカスも黙って見つめていた。
やがて、最後まで抵抗していた一頭が、中堅兵の槍を受けて地面へ倒れた。
しばらく動かないことを確認した兵士達から、レッドボアの討伐終了を知らせる歓喜の声が上がる。
しかし、ガレスはすぐに気を緩めなかった。
周囲を見回し、討伐隊全員へ聞こえる声で指示を出す。
「負傷者を確認しろ!」
兵士達が互いの状態を確かめ、すぐに報告が返ってくる。
「軽傷者二名! 骨折者なし! 重傷者もいません!」
その報告を聞き、ガレスは僅かに目を見開いた。
周囲にいた兵士達も、先ほどまで上げていた歓声を止める。
やがて、誰かが恐る恐る呟いた。
「死者は……?」
全員の無事を、もう一度確認する。
何度確かめても、結果は同じだった。
「死者は、ゼロです!」
討伐隊の全員が、驚いたように顔を見合わせた。
これほどの数のレッドボアを相手にしながら、死者は一人も出ていない。重傷者どころか、骨を折った者すらいなかった。
ガレスは、少し離れた場所に立つレオンへ視線を向けた。
レオンは、腰の鞄から小さな帳簿を取り出していた。
普段から持ち歩いている、騎士団の兵士達について記した帳簿だ。
その中には、今回の討伐へ参加した新人兵達の名前も書かれている。
エリック。
マルク。
ジルク。
それ以外にも、多くの若い兵士達の名前が並んでいた。
レオンは、その名前を一人ずつ確認すると、小さく笑った。
「今日は、赤い印をつけずに済んだ」
ガレスは、その言葉の意味をすぐに理解した。
戦死者として、兵士の名前へ赤い印をつけずに済んだ。
ただ、それだけの話だった。
しかし、レオンにとっては、それこそが何よりも大きな成果だった。
ルーカスは、しばらく黙ってレオンを見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「なるほど」
レオンが顔を上げると、ルーカスは討伐を終えた兵士達へ視線を向けていた。
初めて魔獣へ矢を当てたことを喜び、笑い合っている新人兵達。
その肩を叩き、よくやったと声をかけるベテラン兵達。
これまでの討伐後には、見られなかった光景だった。
「お前が欲しかったのは、盾じゃない」
レオンは何も言わず、ルーカスの言葉を待った。
ルーカスは笑っている兵士達を見つめたまま、静かに続ける。
「未来だったのか?」
山から吹き下ろした風が、二人の髪を揺らした。
レオンは少しだけ笑い、首を横へ振る。
「そんな大層なものじゃないよ」
そして、無事に討伐を終えた新人兵達を見る。
「ただ、生きて帰ってほしいだけなんだ」
その言葉に、ルーカスは何も返さなかった。
しかし、レオンを見るその翡翠色の瞳には、確かな敬意が浮かんでいた。
帝国の剣と呼ばれる少年は、この日初めて、レオン・ノルディアを一人の領主として認めたのだった。




