第153話 夜明け前の港
コンコンと静かなノックの音が部屋に響いた
「レオン君 朝だよ起きられるかい?」
マリナの優しい声だった
レオンはゆっくりと目を開ける
窓の外はまだ暗い
夜明け前 港町全体が眠っているような時間だった
「はい 今起きます」
レオンはベッドから起き上がる
昨夜借りた娘の部屋
綺麗に整えられた机
小さな本棚
花柄のカーテン
大切に使われていたことが分かる部屋だった
レオンは軽く布団を整える
誰の部屋なのかは知らない
けれど カミュとマリナがこの部屋を今でも大切にしていることだけは分かった
身支度を終えて扉を開ける
廊下にはマリナが立っていた
「おはよう よく眠れたかい?」
「はい!おかげさまで」
マリナは安心したように笑う
「それなら良かった……あの人なんてもう外にいるよ 待ちきれないみたいでね」
その時 外から大きな声が聞こえた
「マリナー!レオン坊は起きたかー!」
マリナは呆れたようにため息を吐く
「ほらね 起きてからずっとあの調子さ」
レオンは思わず苦笑した
「漁が本当に好きなんですね」
「好きなんてもんじゃないよ 海に出てないと落ち着かない人だからね」
二人は階段を降りる
一階の食卓には簡単な朝食が用意されていた
焼いた魚
温かい汁物
硬めのパン
そして小さな包み
「朝はしっかり食べておきな 船の上は思ったより体力を使うからね」
「ありがとうございます」
レオンは席へ着く
朝早いにも関わらず 料理は温かかった
マリナが早くから起きて用意してくれたのだろう
「いただきます」
焼き魚を口へ運ぶ
塩気がちょうどよく 眠っていた体に力が戻ってくるようだった
「美味しいです」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
マリナは満足そうに笑う
食事を終えるとマリナは小さな包みをレオンへ渡した
「昼だよ 船の上で食べな」
「ありがとうございます」
レオンは大切に受け取る
玄関を開けると冷たい潮風が頬を撫でた
空はまだ暗い だが港にはすでに人の気配がある
漁師達が船へ道具を積み込み
網を確認し 水樽を運んでいる
眠っているのは町だけで
港はすでに動き始めていた
カミュは船の横で大きく手を振った
「おーい!レオン坊!こっちだ!」
レオンは小走りで駆け寄る
船は思っていたよりも大きかった
一本釣りの漁船とはいえ
沖へ出るための頑丈な造りをしている
船体には長年使い込まれた傷がいくつも刻まれていた
「思ったより大きいですね」
カミュは船体を軽く叩く
「だろ!俺の自慢の船だからな!今日はこいつで沖へ出る」
「よろしくお願いします」
レオンが頭を下げると
カミュは豪快に笑った
「固い固い!今日は仕事じゃねぇから海を楽しめ!」
「はい」
その時 港の方から見覚えのある小柄な姿が歩いてきた
クロエだった
眠そうに目を擦りながらも
しっかり外套を羽織っている
「おはよう」
レオンは少し驚く
「クロエ 早いな」
「……一応見送り」
クロエはあくびを噛み殺す
「あとマリナさんの店も手伝う約束したから」
マリナが笑う
「助かるよ」
「昨日の売り方を見たら放っておけないからね」
クロエは少し得意げに笑った
「任せてよ」
カミュはクロエを見ると豪快に笑う
「クロエ坊!店は任せたぞ!魚を売り切ってくれよ!」
「任せて カミュさんこそちゃんと釣ってきてよ」
「はっはっは!言うじゃねぇか!」
港に笑い声が響く
レオンはその様子を見ながら
不思議と心が軽くなるのを感じた
前世でも船には何度も乗ったことがある
会社員だった頃に休日や取引先との付き合いで船釣りに行くことがよくあった
潮の香り
波に揺られる感覚
朝の冷たい空気
どれも懐かしい
だが今から出るのは遊びの船釣りではない
本物の漁師と共に海へ出る
それだけで胸が少し高鳴った
カミュは船へ乗り込むとレオンへ手を伸ばした
「ほら 乗れ レオン坊」
「はい」
レオンはカミュの手を借りて船へ乗る
足元がわずかに揺れた
波の揺れだが体は自然と バランス を取った
「おっ」
カミュが目を細める
「船は初めてじゃなさそうだな」
レオンは小さく笑う
「初めてですが…………まあ 大丈夫だと思います」
「そうか なら期待できそうだな!」
カミュは嬉しそうに笑う
漁師達が綱を外す
帆が張られ 船がゆっくりと岸から離れていく
クロエとマリナが港から手を振っている
「気を付けてね!」
クロエの声が届く
レオンは手を振り返した
カミュも大きく笑う
「行ってくる!」
船は朝焼けの海へ進み出す
東の空が少しずつ赤く染まり
水平線の向こうから光が差し始めていた
波が船体を叩く
潮風が髪を揺らす
レオンは海を見つめる
今日この海で自分は何を見るのだろうか
カミュは船首に立ち楽しそうに声を上げた
「さあ!レオン坊!一本釣りってやつを見せてやる!」
レオンは静かに頷いた
「お願いします」
夜明け前の港を出た船は朝日に向かって沖へ進んでいった
船が港を離れてしばらくすると周囲には見渡す限り海が広がっていた
陸はもう小さく見える
レオンは静かに海を眺める
穏やかな波に朝日に照らされ輝く海面
前世で何度も見た景色だった
「綺麗ですね」
思わず呟く
カミュは豪快に笑った
「だろ!俺はこの景色が好きなんだ!毎日見ても飽きねぇ!」
船はさらに沖へ進む
やがてカミュは船を止めた
「この辺りで十分だ」
船を固定すると釣り竿を一本手に取る
「レオン坊 一本釣りは簡単だ 魚との勝負だからな!」
そう言って餌を針へ付ける
「まずはこうやる」
カミュは竿を大きく振る
糸が綺麗な弧を描き
海へ吸い込まれていった
「後は待つだけだ」
レオンは頷きながら見つめる
「意外と普通なんですね」
「普通だから面白いんだ」
カミュは笑う
「魚が掛かった瞬間が勝負だからな!」
その時だった
竿先が大きく沈み込む
「来た!」
カミュは一気に竿を立てる
魚が激しく暴れる
「ほら!ここからが勝負だ!」
カミュは力任せではない
魚の動きに合わせ 糸が切れないよう巧みにいなしていく
「暴れろ暴れろ!そのくらいじゃ負けねぇぞ!」
楽しそうだった
まるで遊んでいる子供のように笑っている
やがて銀色に輝く魚が海面から姿を現した
「よし!」
カミュは素早く船へ引き上げる
大きな魚だった
「すごいですね」
レオンは素直に感心する
カミュは得意げに笑った
「だろ!一本釣りはこれがたまらねぇ!」
魚を箱へ入れると今度はもう一本の竿をレオンへ差し出した
「ほら 次はレオン坊の番だ」
レオンは竿を受け取る
「ありがとうございます」
「餌はさっき見ただろ?」
「はい」
レオンは餌を付け
ゆっくりと海へ投げ入れた
前世でも釣りは何度も経験している
だから手順に迷いはない
だが 今日は遊びではない本物の漁だ
そう思うと自然と背筋が伸びた
カミュは腕を組みながら笑う
「焦るなよ……魚は逃げねぇ 待つのも漁師の仕事だからな」
レオンは静かに頷いた
海を見つめながら竿先のわずかな動きに集中する
その瞬間だった
コツッと小さな当たりが竿先へ伝わった
レオンはすぐには合わせない
じっと竿先を見つめる
すると再び コツコツッと竿が先が下がる
今度は先程より少し強い
カミュは黙って見守っていた
レオンはまだ動かない
魚がしっかり餌を咥えるのを待つ
そして グッと竿先が大きく引き込まれた
その瞬間レオンは素早く竿を立てる
「よし!」
魚が勢いよく暴れ始めた
竿が大きくしなる
「おお!」
カミュが目を丸くする
「落ち着いてるじゃねぇか!」
レオンは魚の力に逆らわない
走れば糸を送り 止まれば少しずつ巻き上げる
魚との距離を少しずつ縮めていく
カミュは驚いたように呟く
「……おかしいな……本当に初めてか?」
レオンは苦笑した
「釣りは好きだったので…………この海は初めてですけど」
「そういうことか!」
カミュは納得したように笑う
「なら話は早ぇ!」
魚が再び大きく暴れる
レオンは無理に引かない
魚の動きに合わせ 丁寧にいなしながら巻き取っていく
やがて銀色の魚が海面へ姿を現した
「見えた!」
カミュは網を構える
「そのまま寄せろ!」
「はい!」
レオンはゆっくりと魚を船際まで寄せる
カミュは一気に網ですくい上げた
「よし!」
船の上へ魚が跳ねる
朝日に照らされ銀色の鱗が美しく輝いた
レオンは安堵の息を吐く
「釣れましたね」
「はっはっは!」
カミュは魚を見ながら豪快に笑う
「レオン坊!やっぱり海も初めてじゃねぇだろ!」
「……本当に初めてですよ……"この"海は」
カミュはしばらく魚とレオンを見比べる
そして嬉しそうに笑った
「面白ぇ!今日は楽しくなりそうだ!」
レオンも自然と笑みを浮かべる
穏やかな波に澄み切った青空
そして楽しそうに笑うカミュ
港町へ来て本当に良かった
そう思える朝だった
二人は再び餌を付け 広い海へ向かって竿を振る
朝日を浴びながら本格的な漁が始まった




