第15話 最初の準備
ゼムがお茶の用意をするために執務室を後にしてから、しばらくの間、レオンは窓の外を眺めていた。
視線の先には、父の墓がある。
何人もの領民が花を持ち寄り、静かに祈りを捧げている。
父は、本当に多くの人から慕われていたのだろう。
レオンは目を閉じ、父を救えなかった日のことを思い出した。
治療法は見つけた。だが、間に合わなかった。
あと半日。たった半日。
その差が、全てだった。
「準備不足だったんだよな……」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
知識はあった。だが、足りなかった。
時間も、人手も、資金も、全てが足りなかった。
だから、今度は同じ失敗をしない。
レオンは机へ戻ると、新しい紙を一枚取り出し、ペンを走らせた。
【カイン・レインルート】
・龍脈移動
・北竜の目覚め
・王都侵攻
【ルーカス・ヴァルハイトルート】
・帝国との戦争
・ノルディア街道から侵攻
【セリオス・セラフィスルート】
・民衆暴動
・王都襲撃
どれも最悪だった。
どの出来事も、ノルディア領を滅ぼしかねない。
一つとして放置できるものはなかった。
だが、レオンの視線は最後の項目で止まる。
【アレク・エルグランドルート】
そこには、一人の少女の名前が書かれていた。
【クラリス・ローゼンベルク】
レオンは小さく息を吐き、ゲームの記憶を呼び起こした。
王立学園創立記念パーティー。
物語中盤における、最大のイベント。
そこでクラリスは、周囲からの孤立を決定的なものにする。
大勢の前で断罪され、アレクから婚約を破棄される。
そこから、彼女の全てが崩れ始めた。
周囲から見放され、家からも切り捨てられ、そして最後には…………「奴隷オークション」へ出品される。
ゲーム本編では、その場面までは描かれていない。
設定資料集の端に記されていた後日談。
ローゼンベルク公爵令嬢、クラリス・ローゼンベルクは、奴隷オークションへ出品され、何者かによって落札された。
値段は、金貨二千枚。
ゲーム本編でも、会話の中で『金貨二千枚で買われたらしい』と語られるだけだった。
レオンは眉をひそめた。
今なら分かる。
金貨二千枚は、とてつもない大金だ。普通の領民であれば、一生遊んで暮らすことができる。
だが、クラリスは公爵令嬢だ。それも、第一王子の婚約者だった少女である。
そのような人間に値札が付けられること自体、おかしかった。
何より、その後の彼女については、何一つ描かれていない。
その後、彼女が「あの姿」で現れるまでは。
レオンは、王都で出会った少女の姿を思い出した。
王城の庭園。
月明かりの下で踊った、二人だけのダンス。
不安に揺れていた涙。
少し緊張した表情。
そして、ぎこちない笑顔。
ゲームの中に登場する悪役令嬢ではない。
ただの少女だった。
真面目で、不器用で、少しだけ意地っ張りな少女。
その少女が売られる。
誰かの所有物となり、復讐だけを支えに生きる未来へ落ちていく。
そんな未来を、認められるはずがなかった。
レオンは、紙へ数字を書いた。
『金貨二千枚』
数秒間、その数字を見つめる。
そして、横線を引いて消した。
「足りない」
次に、『金貨三千枚』と書く。
だが、それもすぐに消した。
『金貨五千枚』
また消す。
『金貨一万枚』
レオンは少し考えたが、やがて首を横へ振った。
「まだ足りない」
ゲームの情報を信用し過ぎるな。
父の件で学んだはずだった。
そう考え、金貨一万枚の文字も消した。
未来は変わる。
現実は、ゲームではない。
原作には登場しなかった別の貴族が、オークションへ参加するかもしれない。
帝国の貴族が現れるかもしれない。
競り合いによって、値段が大きく吊り上がるかもしれない。
何が起きても勝てるだけの準備をしろ。
それが、今回の失敗から得た教訓だった。
レオンは深く息を吸った。
そして、紙へ大きく数字を書く。
『金貨二万枚』
その数字を、赤い筆で大きく囲んだ。
金貨二万枚。
前世の金銭感覚へ換算すれば、およそ八億円。
普通であれば、正気とは思えない金額だった。
だが、レオンは本気だった。
「二倍でも足りない」
窓の向こうにある父の墓を見る。
「三倍でも足りない」
机の上で拳を握る。
「確実に助けるなら……」
そして、静かに言った。
「十倍だ」
レオンは、その数字を見つめた。
今すぐに必要な金ではない。
クラリスが出品される奴隷オークションが開かれるのは、数年後のことだ。
まだ、時間はある。
だからこそ、今から準備する。
父の時のように、足りなかったと後悔しないために。
間に合わなかったと、泣かないために。
先に用意し、先に動く。
未来を知っているのなら、その未来へ備える。
それが、レオンの出した答えだった。
レオンは、紙の一番上へ新たな文字を書き加えた。
【最優先目標】
『クラリス・ローゼンベルク救出』
その下に、必要となる資金を書く。
【必要資金】
『金貨二万枚』
レオンはペンを置いた。
傾き始めた夕日が窓から差し込み、執務室を赤く染めている。
若き辺境伯代行が決めた、最初の目標。
それは、今から七年後に行うであろう奴隷オークション。
悪役令嬢と呼ばれる少女を救うための準備だった。
そして、それは未来を変えるための、最初の一歩でもあった。




