間章 慈愛の聖人 後編
日が暮れた。
孤児院では、夕食の時間を迎えていた。
食堂へ子供達が集まる中、リニアは何度も入口へ目を向けていた。
しかし、待っている相手は一向に現れない。
「セリオスは?」
リニアが周囲を見回す。
子供達は、誰もが首を横に振った。
神父も不安そうに食堂の入口を見る。
「まだ帰っていませんね。おかしい……教会を出てから、随分と時間が経っているはずですが」
その言葉を聞いた瞬間、リニアは椅子から立ち上がった。
「私、探してくる!」
「待ちなさい、リニア。外はもう暗いですよ」
「でも、セリオスがいないの!」
制止する声も聞かず、リニアは孤児院を飛び出した。
夜の町を駆け回る。
教会の広場。
人気のない裏路地。
セリオスがよく本を読んでいた木の下。
二人で遊んだ川辺。
思い当たる場所を、片っ端から探していく。
「セリオス!」
何度名前を呼んでも、返事はない。
辺りは既に暗闇に包まれていた。
昼間には賑わっていた通りからも人が消え、閉められた店の扉が並んでいる。
リニアの胸に、嫌な予感が広がっていく。
その時だった。
「リ……リニア」
背後から、震える声が聞こえた。
振り返ると、昼間セリオスを馬鹿にしていた少年が立っていた。
顔は真っ青で、身体も僅かに震えている。
「何?」
リニアが近づくと、少年は怯えたように一歩後ろへ下がった。
「ごめん……俺……見たんだ」
「何を?」
「セリオスが……」
少年の目に涙が浮かぶ。
「変なおじさんに、連れていかれるところ……」
リニアの表情が変わった。
「どうして今まで言わなかったの!」
思わず大きな声が出る。
少年は肩を震わせ、涙を零した。
「怖かったんだ……すごく怖そうな人で……見つかったら、俺も連れていかれると思って……」
嗚咽を漏らしながら、それでも言葉を続ける。
「でも……やっぱり言わなきゃ駄目だと思って……セリオスが帰ってこなかったら、俺のせいになるから……」
リニアは少年を見つめた。
どうしてすぐに言わなかったのか。
怒鳴りつけたい気持ちは残っている。
それでも、少年が恐怖に震えながら、勇気を振り絞ってここまで来たことも分かった。
だから、リニアは怒りを飲み込んだ。
「ありがとう」
少年が驚いて顔を上げる。
「え……?」
「教えてくれて、ありがとう」
リニアは真っ直ぐ少年を見る。
「これで、セリオスを助けに行けるわ」
少年は腕で涙を拭った。
「あの古い倉庫だよ……川の近くにある……」
「分かった!」
リニアは力強く頷いた。
「本当にありがとう!」
それだけ告げると、すぐに走り出す。
暗い夜の町を、一人の少女が駆け抜けていく。
「待ってて、セリオス!」
何度も転びそうになりながら、懸命に足を動かす。
「今、助けに行くから!」
やがて、川沿いに建つ古い倉庫が見えてきた。
長い間使われていないのか、壁板は腐り、屋根も所々崩れている。
窓からは、微かな明かりが漏れていた。
リニアは息を切らしながら立ち止まった。
膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
それから、ゆっくりと自分の右手を見つめた。
今日の魔力検査で判明した火属性。
魔法を使えると分かったばかりで、一度もまともに発動したことはない。
失敗するかもしれない。
自分の身体を焼いてしまうかもしれない。
怖かった。
それでも、倉庫の中にはセリオスがいる。
「セリオスを助ける」
その一心で、右手へ力を込めた。
身体の奥にある熱を、必死に掌へ集める。
「お願い……!」
僅かな光が生まれる。
それは少しずつ大きくなり、やがて赤い炎となってリニアの掌へ宿った。
「行って!」
リニアが腕を振る。
炎は一直線に飛び、倉庫の壁へぶつかった。
乾燥した古い木材へ、瞬く間に燃え移る。
一枚の板から隣の板へ。
壁から柱へ。
火は、リニアの予想を遥かに超える速さで燃え広がっていった。
「なっ……!」
「火事だ!」
倉庫の中から、男達の怒声が響く。
リニアは拳を握り締め、燃え始めた倉庫へ向かって駆け出した。
その直後。
倉庫の扉が勢いよく開いた。
炎と煙から逃れるように、二人の男が飛び出してくる。
「クソッ!」
「誰だ! こんなことをしやがったのは!」
男達が周囲を見回す。
衣服の一部は焼け焦げ、髪からも煙が上がっていた。
その瞬間、物陰に隠れていたリニアが飛び出した。
「セリオスはどこ!」
男達が一斉に振り返る。
「何だ、このガキは!」
「まさか、こいつが火をつけたのか!?」
一人の男が怒りに任せ、持っていた鉄の棒を振り上げた。
「邪魔だ!」
鉄の棒が、リニアの頭へ振り下ろされる。
リニアは咄嗟に身を引いた。
鉄の棒が鼻先を掠める。
しかし、背後から二人目の男が迫っていた。
「逃がすか!」
前後から挟まれる。
逃げ場はない。
それでもリニアは身を屈めた。
「おい、待て!」
ガンッ!
鈍い音が響いた。
最初の男が振り回した鉄の棒が、リニアを飛び越え、横から迫っていた仲間の頭へ直撃したのだ。
「ぐっ……」
殴られた男は目を見開き、手にしていた鉄の棒を落とす。
そのまま、地面へ崩れ落ちた。
「なっ……!」
仲間を殴ってしまった男が、一瞬だけ動きを止める。
その隙を、リニアは見逃さなかった。
地面へ落ちた鉄の棒を拾い上げ、両手で握る。
「えいっ!」
力任せに振り下ろした。
ガンッ!
鉄の棒が男の頭へ直撃する。
「ぐあっ!」
男は苦悶の声を上げ、その場へ倒れ込んだ。
二人とも動かない。
リニアは鉄の棒を握ったまま、荒い呼吸を繰り返した。
手が震えている。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
それでも、倉庫の奥へ目を向けた。
「セリオス!」
鉄の棒を投げ捨て、炎の中へ飛び込んだ。
倉庫の中は、既に黒い煙で満たされていた。
視界が遮られる。
熱い。
息を吸うたびに喉が焼けるように痛む。
それでも、リニアは奥へ進んだ。
「セリオス!」
何度も名前を呼ぶ。
返事は聞こえない。
「どこにいるの!」
燃え上がる木箱を避け、さらに奥へ進む。
やがて煙の向こうに、人影が見えた。
倉庫の奥にある柱。
そこへ、縄で縛られた少年が凭れ掛かっている。
「セリオス!」
リニアが駆け寄る。
薬の影響が残っているのか、セリオスは朦朧としながら顔を上げた。
「リニア……?」
「助けに来たよ!」
リニアは必死に縄を解いた。
固く結ばれた縄へ何度も爪を立て、ようやく結び目を緩める。
「立てる?」
「う、うん……」
セリオスは立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、その場へ崩れそうになった。
リニアが身体を支える。
「しっかりして!」
「ごめん……まだ、身体が動かなくて……」
「大丈夫。私が運ぶから!」
リニアはセリオスの腕を自分の肩へ回した。
同じ八歳の子供を支えて歩くのは、決して簡単ではない。
それでも歯を食いしばり、一歩ずつ出口へ向かう。
その時だった。
ミシッ。
頭上から、嫌な音が聞こえた。
続けて、燃えた柱が大きく軋む。
メキメキッ!
炎に耐えきれなくなった柱が傾き、天井の一部が崩れ始める。
リニアは頭上を見上げた。
自分達へ向かって、大量の瓦礫が落ちてくる。
「危ない!」
リニアは咄嗟に、セリオスを前へ突き飛ばした。
「えっ――」
ドォンッ!
轟音と共に、大量の瓦礫が落下した。
セリオスの小さな身体が床を転がる。
「リニア!」
振り返った先に、瓦礫の下敷きとなったリニアの姿があった。
「リニア!」
セリオスは必死に立ち上がり、燃える瓦礫へ手を伸ばした。
崩れた木材は熱を帯び、所々で炎を上げている。
それでも構わなかった。
「待ってて! 今、助けるから!」
素手で瓦礫を掴む。
掌が焼ける。
棘が皮膚へ突き刺さり、皮が剥けた。
血が流れる。
それでも、セリオスは手を止めなかった。
「お願い……どいて!」
一つ。
また一つ。
小さな身体で、必死に瓦礫をどかしていく。
何度も手を滑らせた。
重すぎて持ち上がらない木材へ、何度も手を掛けた。
「リニアを返して!」
泣きながら、何度も何度も持ち上げる。
やがて、ようやくリニアの身体を引き出すことができた。
「リニア!」
リニアの衣服は破れ、全身が血に濡れている。
呼び掛けても返事はなかった。
「起きてよ……リニア!」
セリオスは震える身体で、リニアを背負った。
足元がふらつく。
薬の影響も残っている。
それでも、炎の中を歩き始めた。
「絶対に……助けるから……」
何度も転びそうになりながら、出口を目指す。
背後では炎が燃え上がり、天井から火の粉が降り注いでいた。
それでも、セリオスは一度もリニアを手放さなかった。
やがて、燃え盛る倉庫から飛び出す。
冷たい夜風が、熱に焼かれた頬を撫でた。
セリオスはその場へ膝をつき、必死に周囲へ叫ぶ。
「助けてください!」
声が夜の町へ響く。
「誰か! リニアを助けてください!」
騒ぎを聞きつけ、近くに住む大人達が集まり始めていた。
しかし、助けを求めるセリオスの姿を見た瞬間、その足が止まる。
白い髪。
紅い瞳。
炎に照らされたその姿に、人々は怯えたような顔をした。
「あの子……」
「不吉の子だ」
「関わらない方がいい」
「でも、女の子が怪我を……」
「近づくな。何が起きるか分からない」
誰も、セリオスのもとへ来ようとしない。
「お願いです!」
セリオスは涙を流しながら叫んだ。
「何でもします! だから、リニアを助けてください!」
何度叫んでも。
何度頭を下げても。
人々は遠巻きに見つめるだけだった。
セリオスは震える腕で、リニアの身体を抱き締めた。
「リニア……」
その声が届いたのか、リニアがゆっくりと目を開いた。
「……セリオス……」
「リニア!」
セリオスの顔に、一瞬だけ希望が浮かぶ。
リニアはセリオスの姿を確かめると、安堵したように笑った。
「よかった……助かったのね」
「喋っちゃ駄目だ!」
セリオスは傷口を手で押さえた。
しかし、指の隙間から血が溢れ出してくる。
「今、誰かを呼ぶから! 絶対に助けるから!」
リニアは小さく首を横に振った。
「もう……無理よ」
「そんなこと言わないで!」
涙が止まらなかった。
「ボクのせいだ……ボクが捕まったから……リニアが……」
リニアは、もう一度首を横に振る。
「違うよ」
弱々しく、それでもはっきりと言った。
「セリオスは助かった……それで十分」
「十分じゃないよ!」
セリオスはリニアの手を強く握る。
「リニアも一緒じゃなきゃ駄目だ!」
リニアは悲しそうに、それでも優しく微笑んだ。
「そうだ……セリオス」
「何?」
「あとで……あの子に、ありがとうって言ってね」
「あの子……?」
「昼間の……いじめっ子」
リニアは途切れそうになる息を整えながら、ゆっくりと続ける。
「あの子が……勇気を出して教えてくれたから、私はセリオスを助けに来られたの」
「あいつが……」
「だから……ありがとうって伝えて」
セリオスの目から、新たな涙が零れた。
「どうして……」
「え……?」
「どうして、信じられるの?」
セリオスには分からなかった。
「あんなに酷いことを言ってたのに……ずっと、ボク達を馬鹿にしてたのに……」
それでもリニアは、少年が勇気を出したことを認めた。
感謝まで伝えようとしている。
リニアは穏やかに笑った。
「人は……変わるもの」
その声に、恨みはなかった。
「あの子は怖かったのに……最後には教えてくれた。だから、信じてよかったの」
リニアは一度目を閉じ、それから再びセリオスを見る。
「でもね……もし、誰かに裏切られても……信じた自分を責めちゃ駄目よ」
セリオスは何も言わず、その言葉を聞いていた。
「私はね……小さい頃、お父さんとお母さんが迎えに来てくれるって信じてたの」
リニアの目に、僅かな寂しさが浮かぶ。
「いつか迎えに来るって……そう言ってたから」
けれど、その日は来なかった。
リニアは孤児院へ預けられたまま、両親に再び会うことはなかった。
「ずっと待ってたけど……来なかった」
リニアは寂しそうに笑った。
「でも、信じたことを後悔してないよ」
「どうして……?」
「信じた私は、悪くないもの」
弱っているはずなのに、その言葉だけは力強かった。
「悪いのは……約束を守らなかった大人だから」
リニアの指が、セリオスの手を僅かに握り返す。
「だからね……裏切られても、信じた自分を責めちゃ駄目」
一言ずつ、セリオスの心へ残すように告げる。
「人を信じられる優しい心を持ってる自分を……誇っていいの」
リニアは微笑んだ。
「それって……すごく素敵なことだから」
セリオスは涙を拭うことも忘れ、何度も頷いた。
「うん……約束する」
声を震わせながら答える。
「あの子に、ありがとうって伝える」
リニアの手を、さらに強く握り締める。
「ボク……リニアみたいになるから」
誰かが困っていれば、迷わず手を差し伸べる。
傷つけられた相手でも、勇気を出したことを認める。
裏切られることを恐れず、人を信じ続ける。
そんな人になる。
リニアは嬉しそうに目を細めた。
「なれるよ……」
その声は、もうほとんど聞こえなかった。
「セリオスなら……きっと……」
握り返していたリニアの手から、ゆっくりと力が抜けた。
「リニア?」
返事はない。
「リニア……?」
閉じた瞼が開くこともなかった。
「起きてよ……」
セリオスはリニアの身体を揺らした。
「ねえ、リニア……約束したでしょ……」
何度呼んでも、返事はない。
「一緒に帰ろうよ……」
燃え続ける倉庫の前で。
幼い少年の泣き声だけが、暗い夜空へ響き続けた。
それから数か月後。
老神父は、教会の一室へセリオスを呼び出した。
机を挟んで向かい合い、一枚の書類を差し出す。
「セリオス君。先日行った詳しい適性検査の結果が出ました」
セリオスは黙って書類を見る。
そこに何が書かれているのか、まだ幼いセリオスには全てを読み取ることができなかった。
老神父は穏やかに説明する。
「君には、回復魔法の才能があります」
セリオスが顔を上げた。
「回復魔法……?」
「ええ。属性を持たない者だけが扱える、無属性魔法の一つです」
傷ついた者の痛みを和らげる。
傷口を塞ぎ、失われかけた命を繋ぎ止める。
誰かを救うための魔法。
「君の適性は、これまで私が見てきた子供達の中でも非常に高い」
老神父は、もう一度書類を差し出した。
「教国中央の学校へ行きなさい。そこで正しい知識と技術を学び、多くの命を救う力を身につけるのです」
セリオスは静かに書類を受け取った。
脳裏に浮かんだのは、最後まで笑っていた少女の姿だった。
炎の中へ飛び込み、自分を助けてくれた少女。
誰よりも強く。
誰よりも優しく。
最後まで人を信じ続けた少女。
あの時、自分に回復魔法を使う知識があれば。
もっと早く力の使い方を知っていれば。
リニアを助けられたかもしれない。
セリオスは書類を握り締める。
「ボク……行きます」
老神父が静かに頷いた。
セリオスは小さな拳を強く握った。
「もう二度と、大切な人を助けられずに泣きたくありません」
あの日の痛みは、今も胸の奥に残っている。
きっと、一生消えることはない。
「リニアみたいに……困っている人を助けられる人になります」
たとえ自分を嫌う人でも。
白い髪や紅い瞳を見て、不吉だと罵る人でも。
助けを求めているのなら、その手を取る。
リニアが教えてくれた優しさを、今度は自分が誰かへ渡していく。
セリオスは書類を胸へ抱き、教会を出た。
外では、白い雪が静かに降っていた。
白い髪を不吉だと言われるたび、嫌いになった雪景色。
自分と同じ色をしていることさえ、以前は嫌だった。
けれど今は、ほんの少しだけ違って見えた。
降り積もる雪が、汚れた町を優しく包み込んでいる。
セリオスは空を見上げ、小さく微笑んだ。
「見ていてね、リニア」
白い息が、冬の空へ溶けていく。
「ボクは必ず、誰かを助けられる人になるから」
幼い少年は、雪の上へ一歩を踏み出した。
誰よりも人を信じ。
誰よりも優しく。
誰よりも多くの命を救う。
後に『慈愛の聖人』と呼ばれる少年の物語は
この日、一人の少女との約束から始まった。




