間章 慈愛の聖人 前編
雪が降っていた。
教国西部にある、小さな村。
人々が寝静まった夜更け、村の教会の前へ一つの籠が静かに置かれた。
籠の中には、生まれて間もない赤ん坊が眠っている。
雪のように白い髪。
血を思わせるほど紅い瞳。
母親は震える手を伸ばし、赤ん坊の柔らかな頬をそっと撫でた。
「ごめんなさい……」
一度零れた涙は、止めようとしても止まらなかった。
この子を愛していた。
誰よりも大切に思っていた。
だからこそ、手放さなければならないことが苦しかった。
教国では、白い髪と紅い瞳は不吉の象徴とされている。
赤ん坊が生まれてから、周囲の者達は何度も囁いた。
「悪魔の子」
「災いを呼ぶ」
このまま育てても、この子も自分達も幸せにはなれない。
母親はそう言われ続けてきた。
降り積もる雪の中、母親は最後にもう一度だけ赤ん坊を抱き上げた。
小さな身体を胸へ抱き締め、その温もりを忘れないように目を閉じる。
「どうか……幸せになって」
それだけを言い残し、赤ん坊を籠へ戻した。
そして一度も振り返ることなく、降りしきる雪の向こうへ消えていった。
後には、白い雪と小さな籠だけが残された。
やがて教会の扉が開く。
中から姿を現したのは、一人の老神父だった。
「こんな時間に……」
老神父は教会の前に置かれた籠へ気づき、ゆっくりと近づいていく。
籠の中を覗いた瞬間、その目が僅かに見開かれた。
白い髪。
紅い瞳。
教国で不吉とされる姿。
それでも老神父は、恐れることも顔をしかめることもなかった。
ただ優しく微笑み、凍えかけていた赤ん坊をそっと抱き上げる。
「そうですか……ここへ来ましたか」
老神父の腕に抱かれた赤ん坊が、小さく身じろぎをする。
「安心しなさい。今日からここが君の家ですよ」
静かな声に包まれ、赤ん坊は再び目を閉じた。
二人の姿を覆い隠すように、雪は静かに降り続けていた。
それから六年。
教会に併設された孤児院で、白い髪の少年は今日も一人だった。
少年の名は、セリオス。
孤児院で暮らす子供達は、誰も彼へ近づこうとしない。
それだけではなかった。
教会へ勉強を学びに来る村の子供達からも、セリオスはいつも心ない言葉を浴びせられていた。
「おい」
呼びかける声にセリオスが顔を上げると、数人の子供達がこちらを見て笑っていた。
「化け物が来たぞ」
「白い髪だ」
「目も赤い」
「気味悪い」
嘲るような笑い声が辺りに響く。
セリオスは何も言い返さなかった。
言い返せるはずもなかった。
ただ視線を落とし、嵐が過ぎ去るのを待つように俯いていた。
「知ってるか?」
一人の少年が、何かを自慢するように仲間達へ告げる。
「こいつ親に捨てられたんだって」
「やっぱりな」
「こんな見た目じゃ仕方ないよ」
「ボクだってこんな子いらない」
「だから捨てられたんだ」
その言葉だけは、聞き流すことができなかった。
鋭い棘となって、幼いセリオスの胸へ深く突き刺さる。
本当だった。
父も。
母も。
自分を捨てた。
この姿で生まれたから。
白い髪と紅い瞳を持っていたから。
だから、皆が言っていることは間違っていない。
セリオス自身も、いつしかそう思うようになっていた。
俯いたまま、その場を離れようとした時だった。
「うるさーい!」
突然、辺りに元気な声が響き渡った。
子供達が一斉に振り向く。
少し離れた場所に、栗色の短い髪をした少女が立っていた。
少女は腰へ手を当て、子供達を睨んでいる。
「リニア……」
「寄ってたかって一人をいじめるなんて、恥ずかしくないの!?」
「本当のことだろ!」
少年が負けじと言い返す。
すると紅い髪の少女は迷わず歩み寄り、その頭を軽く叩いた。
「いたっ!」
「本当のことなら何言ってもいいの? そんなこと言われたら傷付くに決まってるでしょ!」
「でも……」
「でもじゃない! ほら! どっか行って!」
子供達は互いの顔を見合わせる。
「ちぇっ」
「行こうぜ」
最後まで悪態をつきながらも、子供達はその場から去っていった。
騒がしかった辺りに、ようやく静けさが戻る。
少女は遠ざかっていく背中を見送り、大きく息を吐いた。
「もう……弱いくせに人数だけは多いんだから」
セリオスは目の前に立つ少女を見つめた。
どうして自分を助けてくれたのか分からない。
恐る恐る、声を絞り出す。
「どうして……」
「ん?」
紅い髪の少女が振り返る。
「どうして助けてくれたの?」
その問いを聞いた少女は、不思議そうに首を傾げた。
「なんで助けるのに理由なんているの?」
あまりにも自然に返された言葉に、セリオスは戸惑った。
それでも不安を拭うことができず、自分の白い前髪へ触れる。
「ボクの容姿……嫌じゃないの?」
リニアはセリオスの顔をじっと見つめた。
雪のように白い髪。
不吉だと恐れられる紅い瞳。
しばらく眺めた後、何を聞かれたのか分からないというように首を傾げる。
「え? 何が?」
「え……?」
「雪兎みたいで可愛いじゃない」
少女は、あまりにも当たり前のことのように笑った。
その笑顔には、嘘もなかった。
同情も。
気遣いも。
ただ、目の前にいるセリオスを見て、素直にそう思っているだけだった。
セリオスは紅い瞳を大きく見開いた。
生まれて初めてだった。
自分の姿を見て、可愛いと言ってくれた人は。
「ボク……」
胸の奥から幾つもの感情が込み上げてくる。
しかし、何一つ言葉にできなかった。
少女はそんなセリオスへ、明るい笑顔を向ける。
「私はリニア!」
「あなたは?」
「……セリオス」
「そっか!」
「よろしくね!」
そう言って、リニアは迷いなく手を差し出した。
セリオスはその手を見つめたまま、動くことができなかった。
自分が触れれば、嫌がられるかもしれない。
差し出された手も、すぐに引っ込められてしまうかもしれない。
そんな不安が身体を縛りつけていた。
だが、リニアは手を差し出したまま笑う。
「大丈夫。私は逃げないよ」
セリオスは震える手を伸ばし、恐る恐るその手を握った。
温かかった。
雪の中で凍えていた心まで包み込んでくれるような、優しい温もりだった。
それは、セリオスが生まれて初めて知った、友達の温もりだった。
それからというもの、セリオスはリニアと一緒に過ごすことが増えた。
食事をする時も。
勉強をする時も。
教会の掃除をする時も。
気づけば、いつも隣にはリニアがいた。
そして、共に過ごすうちにセリオスは気づいた。
リニアは、決してじっとしていられない。
小さな子が転べば、誰よりも早く駆け寄る。
重い荷物を抱えているシスターを見つければ、
「持つよ!」
そう笑って、すぐに手伝う。
子供達の喧嘩を見つければ、
「こら!」
と声を上げ、真っ先に二人の間へ飛び込んでいく。
自分より年上の相手でも関係ない。
リニアは困っている人を見ると、放っておくことができなかった。
「危ないよ」
心配になったセリオスが何度注意しても、リニアは明るく笑う。
「困ってる人がいるんだから仕方ないじゃない!」
その笑顔は、セリオスにとっていつも眩しかった。
ある日のこと。
荷物を抱えた老人が足を止めた拍子に、幾つものリンゴが地面へ落ちた。
丸いリンゴは、坂道を次々と転がっていく。
「あっ!」
老人が困った顔をするよりも早く、リニアは走り出していた。
「待ってて!」
坂道を転がっていくリンゴを追いかけ、一つずつ夢中で拾い集める。
服が土で汚れても。
転んで膝を擦りむいても。
リニアは少しも気にしなかった。
全てのリンゴを拾い終えると、満面の笑みを浮かべて老人の元へ戻る。
「はい!」
老人はリンゴを受け取りながら、何度も頭を下げた。
「ありがとう、本当に助かったよ」
リニアは少し照れくさそうに笑う。
「これくらい当たり前よ!」
その様子を見つめながら、セリオスは小さく呟いた。
「どうしてそこまでするの?」
リニアは不思議そうに首を傾げる。
「助かったって笑ってくれるでしょ? それだけで十分よ」
セリオスは、リンゴを抱えた老人へ目を向けた。
その顔には、心から安堵した笑みが浮かんでいる。
そして、その笑顔を見つめるリニアもまた、本当に嬉しそうに笑っていた。
その時、セリオスは初めて思った。
誰かを助けるということは、こんなにも素敵なことなのだと。
それから、二年が経った。
セリオスとリニアは、八歳になっていた。
教国では、八歳を迎える子供に魔力検査を行う決まりがある。
その年に八歳となる子供達は最寄りの教会へ集められ、魔力量と属性を一人ずつ調べられるのだ。
検査が行われる日。
教会の広間には、多くの子供達が集まっていた。
これから自分にどのような属性があるのか。
そもそも魔法を使うだけの魔力を持っているのか。
期待に胸を膨らませる者もいれば、不安そうに俯く者もいる。
皆、どこか緊張した表情を浮かべていた。
列に並ぶセリオスも、落ち着かない様子で何度も手を握り直している。
「セリオス、緊張してるの?」
隣から、リニアが顔を覗き込んだ。
「うん……少しだけ」
セリオスが正直に答えると、リニアは明るく笑った。
「大丈夫よ! 魔力があってもなくても、セリオスはセリオスなんだから!」
その笑顔を見るだけで、不思議と胸の緊張が和らいだ。
「うん。ありがとう」
やがて、検査を担当する神父が名前を呼ぶ。
「リニア」
「はい!」
リニアは元気よく返事をすると、大きく手を振りながら前へ出た。
広間の中央には、大人の胸ほどの高さがある大きな水晶が置かれている。
「こちらへ手を置いてください」
「はい!」
リニアが迷いなく水晶へ手を置く。
次の瞬間。
水晶の内側から、鮮やかな赤い光が溢れ出した。
広間から小さな歓声が上がる。
神父も満足そうに頷いた。
「火属性です。おめでとうございます」
「やった!」
リニアは嬉しそうに両手を上げた。
自分の検査を終えると、待っているセリオスへ笑顔を向ける。
その姿を見たセリオスも、僅かに頬を緩めた。
検査は順番に進み、ついにセリオスの名が呼ばれる。
「セリオス」
「はい」
セリオスは緊張した面持ちで前へ出た。
周囲から視線が集まる。
白い髪。
紅い瞳。
ただでさえ目立つ容姿をしているため、他の子供達も興味深そうにセリオスを見つめていた。
セリオスは震える手を持ち上げ、恐る恐る水晶へ触れた。
その瞬間。
水晶の中から、白い光が広がった。
火の赤でもない。
水の青でもない。
風の緑でも、土の黄色でもない。
色を持たない、純白の光だった。
神父が驚いたように目を見開く。
広間に集まった大人や子供達も、一斉にざわめき始めた。
「白い光……?」
「何の属性だ?」
「属性無しじゃないか?」
周囲の声を聞き、セリオスは不安そうに水晶から手を離した。
神父はしばらく水晶を見つめた後、静かに告げる。
「セリオス君は、属性無しです」
セリオスには、その言葉の意味が分からなかった。
「属性無し……?」
「火や水のような属性を持っていないということです」
「ボクだけ……みんなと違うんですか?」
「違います」
神父は否定せずに答えた。
その言葉を聞き、セリオスの表情が曇る。
しかし、神父は穏やかな声で続けた。
「ですが、魔力がないわけではありません。君の中には、確かに魔力があります」
「ボクも魔法を使えるんですか?」
「ええ。属性を持たない者にしか扱えない魔法もあります。ですから、安心してください」
どのような魔法が使えるのか。
それは、さらに詳しく適性を調べなければ分からない。
それでも、何も使えないわけではないと知り、セリオスは小さく頷いた。
検査を終えて戻ると、リニアが満面の笑みで待っていた。
「よかったね!」
「え?」
「だって、二人とも魔法が使えるんでしょ?」
リニアは、セリオスに属性があるかどうかなど気にしていなかった。
魔力を持っている。
魔法を使うことができる。
彼女にとって大切なのは、それだけだった。
「うん……そうだね」
セリオスも、ようやく笑った。
検査を終えた二人が教会を出ると、見覚えのある子供達が待ち構えていた。
「あっ!」
「いたぞ!」
声を上げたのは、以前からセリオスを馬鹿にしている少年達だった。
その声を聞きつけ、昼間に検査を受けていた他の子供達まで集まってくる。
「聞いたぞ!」
「属性無しだったんだって?」
「やっぱり変な奴じゃん!」
「白い髪と赤い目だけじゃなくて、魔法まで変なんだ!」
子供達の笑い声が響く。
セリオスは何も言い返せず、俯いた。
自分だけが違う。
検査の直後に突きつけられたその事実が、胸へ重くのしかかる。
その時だった。
「うるさーい!」
大きな声と共に、リニアがセリオスの前へ出た。
両手を広げ、セリオスを庇うように立つ。
「またあんた達なの!?」
「本当のことを言っただけじゃん!」
少年の一人が言い返した。
次の瞬間。
ゴツンッ!
リニアの拳が、少年の頭へ振り下ろされた。
「いたっ!」
少年が頭を抱えて蹲る。
「本当のことなら、何を言ってもいいの!?」
リニアは怒りに満ちた目で、少年達を睨みつけた。
「だったら、私も本当のことを言うわ!」
そして、一歩前へ出る。
「弱虫! 大勢で集まらないと何もできないくせに!」
「うっ……」
「それに、セリオスの方があんた達よりずっと優しい! 誰かを傷つけて笑ってるあんた達より、ずっと凄いんだから!」
少年達の顔が、悔しさと恥ずかしさで赤くなる。
やがて一人が叫んだ。
「またリニアだ!」
「逃げろ!」
少年達は一斉に背を向けた。
「あっ、待ちなさい!」
リニアはすぐに追いかける。
「もうセリオスをいじめないって約束しなさい!」
「嫌だ!」
「誰が約束するか!」
「だったら逃げるなー!」
子供達は悲鳴を上げながら走り去っていく。
その後ろを、リニアが全速力で追いかけていった。
その光景を見ていたセリオスは、思わず笑ってしまった。
やがて追いかけるのを諦めたリニアが戻ってくる。
「まったく、足だけは速いんだから」
「ありがとう、リニア」
セリオスが礼を告げると、リニアは胸を張った。
「気にしないで」
そして、当たり前のように笑う。
「友達なんだから!」
その言葉に、セリオスも笑顔で頷いた。
「うん」
そんな二人の姿を、少し離れた場所から見つめる男がいた。
薄汚れた外套。
伸び放題の髭。
周囲を窺う鋭い目つき。
口元には、獲物を見つけたかのような嫌らしい笑みが浮かんでいる。
男は近くを歩いていた住民へ、何気ない様子で声を掛けた。
「なあ。あの白い髪の子供は、どこの子だ?」
住民は足を止め、セリオスへ目を向ける。
「ああ、あの子なら教会の孤児ですよ。生まれて間もない頃に、親から捨てられたそうで」
「孤児か」
「ええ。今日の検査で、属性無しだと分かったらしいです」
その言葉を聞いた瞬間、男の目が細くなった。
「属性無し……ねぇ」
それだけ聞けば十分だった。
属性を持たない人間は珍しい。
表向きは不吉な存在として避けられる一方で、その希少性に目をつけ、高値で買い取ろうとする者達もいる。
男は、それをよく知っていた。
身寄りのない孤児。
珍しい属性無し。
連れ去ったところで、必死に探す親もいない。
男は小さく笑った。
「そいつは運がいい」
誰にも聞こえない声で呟く。
「あの坊主は、大当たりだな」
夕暮れが近づいた頃。
孤児院へ帰ろうとしていたリニアは、教会の神父に呼び止められた。
「リニアさん。申し訳ありませんが、荷物運びを手伝っていただけますか?」
「はい!」
リニアは元気よく返事をした。
積み上げられた木箱へ向かいながら、先に外へ出ようとしていたセリオスへ声を掛ける。
「セリオス! 先に帰ってて!」
「リニアは?」
「これを運んだら、すぐに追いつくから!」
「分かった」
セリオスは一人で、孤児院へ続く道を歩き始めた。
次第に日が傾き、道を歩く人の姿も少なくなっていく。
その小さな背中を、物陰から男が静かに見つめていた。
セリオスが人気のない裏道へ入る。
男は周囲に誰もいないことを確かめると、足早に近づいた。
「坊や」
優しげな声で呼び掛ける。
セリオスは足を止め、振り返った。
「何ですか?」
「道に迷ってしまってね。教会へ行きたいんだが、どちらか分かるかな?」
「教会なら……」
道を教えようと、セリオスが男へ近づく。
その瞬間。
男の手に握られた布が、セリオスの口と鼻を覆った。
「んっ……!」
鼻を突く、甘い匂い。
息を止めようとした時には、既に遅かった。
意識が急速に遠ざかっていく。
手足から力が抜け、身体が思うように動かない。
「ん……ぅ……」
必死に抵抗しようとしても、男の腕を押し返すことすらできなかった。
視界がぼやける。
男は、意識を失ったセリオスを抱き留めた。
そして周囲を見回す。
誰もいない。
「商品に傷はつけられねぇからな」
男は笑いながらセリオスを肩へ担ぎ上げ、そのまま暗い裏路地へ消えていった。




