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乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います(編集中)  作者: トンビが鷹を産んだトンビの方
第4章 新事業と枢機卿

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間章 新しい住まい

 クロエが一度王都へ戻ってから、数週間が過ぎた。


 その日の昼過ぎ。

 ノルディアの宿場町へ、一台の走竜車が入ってきた。

 御者台に座っているのはクロエだった。


 灰色の髪を風に揺らしながら、慣れた手つきで手綱を操り、走竜をゆっくりと止める。

 宿場町の景色を見渡したクロエは、小さく息を吐いた。


「ただいま」


 誰に向けたわけでもない。

 出迎える者がいたわけでもない。

 それでも、その言葉は不思議なほど自然に口から零れた。


 以前のクロエなら、決して口にしなかった言葉だった。

 旅商人として各地を巡り、その土地の宿へ泊まり、商売を終えれば次の町へ向かう。

 それが、クロエにとっての日常だった。

 帰る場所などなかった。

 いや、正確には作ろうとしなかった。

 帰る場所を作れば、足が止まる。

 一つの土地へ長く留まれば、否応なく目立つ。

 目立てば、自分の過去を探ろうとする者も現れる。

 だから、どこにも根を下ろさない旅商人でいる方が、クロエにとっては都合が良かった。


 だが、今は違う。

 クロエは、ノルディア辺境伯家の専属商人となった。

 王都で借りていた部屋も引き払い、必要な荷物は全てアイテムバッグへ収めてきた。


 もう、ただの旅商人ではない。

 これからはノルディア領を拠点に、商売をしていく。

 そう考えると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。


「クロエさん」


 不意に声を掛けられ、クロエは振り返った。

 宿場町の入口近くに、リックが立っている。

 いつもと変わらない、どこか軽そうな笑みを浮かべていた。


「お帰りなさい」


 クロエは一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑った。


「ただいま、リック」


 今度は、誰かへ向けた言葉だった。


「王都はどうでした?」


「忙しかったよ。ボア肉の引き渡しに、契約書の整理。借りていた部屋の引き払いと、これまで世話になった仕入れ先への挨拶もあったからね」


「それは大変でしたね」


「まあね。でも、これで全部終わったかな」


 クロエは腰へ下げた小さな鞄を、軽く叩いた。


「荷物も全部、この中に入れてきたし」


 リックは感心したように鞄を見る。


「本当に便利ですね、そのアイテムバッグ」


「便利じゃなきゃ、旅商人なんてやってられないよ」


 クロエは笑った。

 だが、すぐに何かを考えるように宿場町へ視線を向ける。


「ねえ、リック」


「はい?」


「少し相談があるんだけど」


「俺でよければ」


 クロエは御者台から飛び降り、改めて町を見渡した。

 以前と比べて、人の往来が明らかに増えている。

 ボア肉の取引が始まってから、寂れかけていた宿場町は少しずつ活気を取り戻していた。


 行き交う商人。

 新たな仕事を求めて集まった職人。

 荷車から荷物を下ろす運送業者。

 魔獣討伐隊へ物資を納める者達。

 様々な人々が町を行き交っている。


「家を探したいんだ」


「家ですか?」


 リックは意外そうに目を瞬かせた。


「うん」


 クロエは頷く。


「今までは旅商人だったから、宿で十分だったんだ。各地を回るのが仕事だったし、部屋を借りてもほとんど使わないからね」


 そこで一度言葉を区切り、ノルディアの町並みへ目を向ける。


「でも、今は違うでしょ? ボクはノルディア辺境伯家の専属商人になったんだから」


 もう、商売が終わるたびに別の町へ向かう必要はない。

 これからは、この土地から各地へ商品を送り出すことになる。


「ここを拠点にするなら、いつまでも宿暮らしってわけにもいかないかなと思って」


「なるほど」


 リックも納得したように頷いた。


「それなら、宿場町に何軒か空き家がありますよ。土地や建物の仲介をしている商人もいます」


「物件を扱う商人か……」


「はい。この町にある空き家なら、ほとんど把握しているはずです」


 クロエは少し考えた後、リックを見る。


「案内してもらってもいい?」


「もちろんです」


 二人は並んで、宿場町の奥へ歩き出した。

 道は石畳ではない。

 踏み固められた土の道だ。

 それでも以前より綺麗に整備され、行き交う人や荷車の跡が幾つも残っている。


 道の両側には、新しい店も増えていた。

 屋台から漂ってくる肉を焼く香ばしい匂い。

 鍛冶場から聞こえる、金属を打つ甲高い音。

 宿屋の前では、到着したばかりの商人達が荷物を下ろしている。


 ノルディアは辺境の地だ。

 王都のような華やかさはない。

 大きな商会も、豪華な劇場も、貴族が集う高級店もない。

 それでも、この町は確実に変わり始めていた。


 クロエは、その変化を嫌いではなかった。

 むしろ、自分もその一端を担っているのだと思うと、少しだけ誇らしい気持ちになる。


 しばらく歩いたところで、リックが一軒の店の前に立ち止まった。

 店先に掲げられた看板には、家と鍵の絵が大きく描かれている。


「ここです」


「ずいぶん分かりやすい看板だね」


「文字が読めない方もいますから」


「ああ、なるほど」


 二人が店へ入ると、奥の机へ座っていた中年の男が顔を上げた。

 丸い顔には、人の良さそうな笑みを浮かべている。

 しかし、こちらを見定める目だけは商人らしく鋭い。


「いらっしゃいませ」


 男はリックの姿に気づくと、すぐに立ち上がった。


「おや、リック様ではありませんか。今日はどうされました?」


「こちらのクロエさんが、家を探しているそうです」


「ほう……」


 男の視線がクロエへ向けられる。


「お噂は耳にしております。王都から来られた商人様だとか」


「クロエです」


 クロエは簡単に名乗る。


「この度、ノルディア辺境伯家の専属商人になりました」


 その言葉を聞いた瞬間、男の表情が僅かに変わった。

 ただの客ではない。

 領主家と直接取引を行う商人。

 それだけで、扱いを変えるには十分だった。


「それはそれは……でしたら、良い物件をご紹介しなければなりませんな」


 男は店の奥から一枚の地図を持ってきた。

 宿場町と、その周辺の土地が細かく記された地図だ。

 それを机の上へ広げると、幾つかの場所を指で示す。


「現在、すぐに入居できるのはこちらです」


 男の指が、地図の上を滑っていく。


「まず一軒目。宿場町の中心に近い、小さな家です。家賃は安いのですが、少々古い建物になります」


 指が次の場所へ移る。


「二軒目は、先ほどより広い家です。商談に使える部屋もございます。ただし、その分家賃は高くなります」


 さらに町の外れを指差した。


「三軒目は倉庫付きです。商人の方には便利でしょうが、町の中心から少し離れております」


 クロエは地図を見つめながら考え込む。

 場所と家賃だけでは、実際の暮らしやすさまでは分からない。


「実際に見てもいい?」


「もちろんでございます」


 男はすぐに頷いた。


「それでは、ご案内いたしましょう」







 最初の家は、宿場町の中心近くにあった。

 商店にも宿屋にも近く、立地は悪くない。

 しかし、建物は一目で分かるほど古かった。

 男が扉を開けた瞬間、湿気を含んだ木の匂いが漂ってくる。

 クロエは部屋へ足を踏み入れ、周囲を見回した。


「安い理由は分かったかも」


 思わず苦笑する。

 壁には何度も修繕した跡が残り、歩くたびに床板が軋んだ。

 天井の一部には、雨漏りの跡まである。


「住めないことはございませんが、幾らか手直しは必要になります」


 仲介商が申し訳なさそうに説明する。

 リックも床板を何度か踏み、状態を確かめた。


「隙間風も入りそうですね。冬はかなり寒いでしょう」


「うん……これは却下かな」


 ノルディアの冬は厳しい。

 立地が良くても、寒さを凌げなければ暮らしていくのは難しい。



 二軒目は、一軒目とは比べものにならないほど立派だった。

 広い居間。

 客を迎えられる応接室。

 小さな台所も備えられ、二階には寝室が幾つもある。

 建物自体も新しく、手直しする必要はほとんどなさそうだった。


「ここは良いね」


 クロエは素直に感心した。

 仲介商も嬉しそうに頷く。


「でしょう? 王都から来られた商人様にも、十分ご満足いただける物件かと」


「それで、家賃は?」


 仲介商が提示した金額を聞いた瞬間、クロエの表情が消えた。


「高っ!?」


「それだけの価値はございます」


「価値があるのは分かるけど……」


 クロエはもう一度、広い室内を見回した。

 確かに良い家だった。

 商談へ使える部屋もあり、将来的には役立つかもしれない。


 だが、専属商人になったばかりの今、これほど大きな家が本当に必要なのか。

 ノルディア領での商売は、これから大きくなる。

 だからこそ、まだ利益の見通しが立たない段階で、余計な固定費を増やすべきではない。


「今のボクには、使わない部屋が多すぎるかな」


 クロエは残念そうに首を振った。




 三軒目は、宿場町の外れにあった。

 住居よりも大きな倉庫が隣接しており、商品を保管するには便利そうだった。

 走竜車を停められるだけの土地もある。

 しかし、人通りは少ない。


 昼間でさえ静かなのだから、夜になれば周囲は真っ暗になるだろう。


「倉庫は良いけど、遠いね」


 クロエが町の中心へ続く道を見る。


「毎日、邸へ通うことを考えると少し不便ですかね」


 リックの言葉に、クロエも頷いた。


「うん。仕事場としてなら良いけど、暮らす場所としては微妙かな」


 結局、三軒とも決め手に欠けた。

 仲介商の店へ戻った頃には、既に夕方が近づいていた。


「ご希望に沿えず、申し訳ございません」


 仲介商が頭を下げる。


「新たな空きが出ましたら、すぐにお知らせいたします」


「うん。お願いします」


 クロエは礼を告げ、リックと共に店を出た。

 夕暮れの宿場町を並んで歩きながら、小さくため息を吐く。


「なかなか難しいね」


「住む場所ですからね。焦って決めて、後悔するわけにもいきません」


「まあ、そうだね。急ぎすぎても良くないか」


「当分は宿で暮らすこともできますし」


「それはできるけど……専属商人がいつまでも宿暮らしっていうのもね」


 クロエが苦笑した、その時だった。

 前方から、レオンとゼムが歩いてきた。

 レオンはいつものように、どこか面倒そうな顔をしている。

 その隣では、ゼムが数枚の書類を抱えていた。

 おそらく執務の合間に、宿場町の様子を確認しに来たのだろう。


「クロエ」


 先に気づいたレオンが声を掛ける。


「戻っていたのか」


「うん。今日戻ったところ」


「王都での用事は終わったのか?」


「全部終わったよ。借りてた部屋も引き払ってきた」


「そうか。なら良かった」


 レオンは頷いた。

 それから、クロエの隣にいるリックを見る。


「二人で何をしていたんだ?」


「クロエさんの家探しです」


 リックが答える。


「家?」


 レオンは不思議そうに首を傾げた。

 クロエが事情を説明する。


「専属商人になったからね。今までは旅商人だったから宿で良かったけど、これからはノルディアを拠点にするでしょ?」


「ああ」


「だから、宿場町で家を借りようと思ったんだ。でも、なかなか良いところが見つからなくて」


 レオンは少し考えた。

 そして、何でもないことのように言う。


「だったら、邸に住めばいい」


「え?」


 クロエの足が止まった。

 一瞬、頭の中が真っ白になる。


 ノルディア邸に住む。


 それはつまり、レオンと同じ邸で暮らすということだ。

 もちろん、二人きりではない。

 ゼムもいる。

 多くの使用人も暮らしている。

 リックをはじめ、騎士達も頻繁に出入りする。

 それくらいは分かっている。

 分かっているのだが、それでもクロエの胸は大きく跳ねた。


(えっ!? 邸に住むって、それって、もしかして……)


 そこまで考え、クロエは慌てて頭の中で否定する。


(いやいやいや、そんなわけない! レオンに限って、そんな意味があるはずないよ!)


 そう思うのに、僅かでも期待してしまった自分がいた。

 クロエは赤くなりかけた顔を隠すように、慌てて視線を逸らす。


「えっと……それは……」


 レオンはクロエの動揺に気づくことなく、淡々と続けた。


「その方が仕事もしやすいだろ。ボア肉の販売についてもすぐ相談できるし、王都で仕入れてほしい物があれば直接頼める」


「あ、うん……」


「新しい商売を思いついた時も、すぐに話せる。わざわざ宿まで呼びに行く手間も省けるしな」


 レオンは、どこまでも真剣だった。


「それに、使っていない部屋なら幾つもある。合理的だろ?」


 クロエは黙り込んだ。


(仕事か……)


 最初から分かっていた。

 レオンは、そういう人間だ。

 商売を円滑に進めるうえで、その方が都合が良いから提案しただけ。

 そこに特別な意味などない。

 変な下心があるより、遥かに安心できる。


 それでも、ほんの少しだけ浮かれてしまった自分が恥ずかしい。

 そして、本当にほんの少しだけ、がっかりしている自分もいた。


「そ、そうだね」


 クロエは笑って誤魔化した。


「確かに、仕事はしやすくなるかも」


 レオンは満足そうに頷く。


「だろ?」


 その隣で話を聞いていたゼムが、静かに口を開いた。


「確かに、悪くない案でございます」


「では、決まりだな」


「ですが、その前に一つ問題がございます」


 レオンは嫌な予感を覚えたのか、僅かに眉を寄せた。


「何だ?」


「ぼっちゃまのお部屋です」


「俺の部屋?」


「はい」


 ゼムは淡々と告げる。


「現在、ぼっちゃまがお使いになっている部屋は、幼少期からの子供部屋でございます」


 レオンは僅かに視線を逸らした。


「別にいいだろ」


「よくありません」


 即答だった。


「ぼっちゃまは既にノルディア辺境伯です。今後は来客も増え、王都や教国の要人が邸へ滞在する機会もあるでしょう」


「それと俺の部屋に、何の関係がある?」


「領主がいつまでも子供部屋を使っていると知られれば、外聞が悪すぎます」


 レオンは呆れたように眉をひそめる。


「誰が俺の部屋まで見に来るんだ?」


「部屋を整える使用人は見ます。その者達から、客人の従者へ話が伝わる可能性もございます」


「そんなことを気にする者がいるのか?」


「おります。貴族とは、そういうものです」


「……面倒だな」


「それに、領主用のお部屋が空いております」


 ゼムはレオンを真っ直ぐ見た。


「この機会に、そちらへ移っていただきます」


 レオンは露骨に嫌そうな顔をする。


「今の部屋は広さがちょうどいいんだよ。必要な物も全部揃っているし、広すぎる部屋は落ち着かない」


「慣れてください。領主ですので」


 ゼムの言葉に容赦はなかった。

 隣で聞いていたリックも、苦笑しながら口を挟む。


「俺もゼムさんに賛成ですね」


「お前まで何だ」


「旦那の今の部屋って、本当に子供の頃から使っている部屋なんですよね?」


「ああ。それが悪いか?」


「悪くはありませんけど、辺境伯の部屋としては、少し……あれですね」


「あれとは何だ」


「子供部屋です」


「お前まで言うのか」


「言いますよ」


 リックは笑った。


「たまには、領主らしくしてください」


 レオンは疲れたようにため息を吐く。


「面倒だな……」


「諦めてください」


 ゼムが、どこかで聞いたような言葉を返した。


「ぼっちゃまは領主です」


 しばらくの間、レオンは黙り込んでいた。

 このまま何を言っても、ゼムが折れることはない。

 それを理解したレオンは、やがて観念したように肩を落とした。


「分かった……移る」


 ゼムは満足そうに頷く。


「では、本日中に領主用のお部屋へ移っていただきます」


「本日中?」


「はい」


「早くないか?」


「善は急げと申しますので」


「都合の良い言葉だな」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


 二人のやり取りを見ていたクロエは、思わず笑ってしまった。

 レオンが不思議そうに顔を向ける。


「どうした?」


「いや、二人らしいなと思って」


「そうか?」


「うん」


 笑ったことで、クロエの肩から少しだけ力が抜けた。

 ノルディア邸で暮らす。

 最初は、その言葉だけでひどく動揺してしまった。

 だが、レオンはいつもと何も変わらない。

 それが少し悔しくて、同時に少しだけ安心した。






 その日の夕方。

 クロエは、ノルディア邸へ案内された。

 辺境伯家の邸宅だけあって部屋数は多く、現在使われていない部屋も幾つか残っている。

 長い廊下は静かで、窓から差し込む夕日が床を橙色に染めていた。


 ゼムがクロエを案内したのは、レオンがこれまで使っていた部屋だった。


「ここでございます」


「ここ?」


 クロエが首を傾げる。


「使っていない客室じゃないんだ?」


「ぼっちゃまが領主用のお部屋へ移られますので、こちらが空きます。執務室にも近く、クロエさんには最も都合が良いかと」


 確かに、仕事のことを考えれば申し分のない場所だった。

 ゼムが扉を開ける。

 その先にあったのは、クロエが想像していたよりも遥かに質素な部屋だった。


 大きすぎないベッド。

 使い込まれた机と椅子。

 本の詰まった棚。

 壁へ立て掛けられた古い木剣。

 そして、壁にはノルディア領の地図が掛けられている。


 豪華な調度品はほとんどない。

 貴族の子息が使う部屋というより、ごく普通の少年の部屋に近かった。


「ここが、レオンの部屋だったんだ……」


「はい。幼い頃から使っておられました」


「もっと豪華なのかと思ってた」


「ぼっちゃまは、無駄に広い部屋や華美な装飾を嫌がりますので」


「確かに、さっきも言ってたね」


 クロエは部屋の中へ入り、興味深そうに周囲を見回した。

 机の上には、まだ運び出されていない紙が数枚残っている。


 書きかけの魔法陣。

 領地の収支を計算した跡。

 何度も書き直された、魔獣討伐隊の編成案。

 本棚には、魔法や剣術、領地運営に関する本が隙間なく並んでいた。


「子供部屋っていう割に、全然子供らしくないね」


「昔から、妙に大人びておられましたので」


 ゼムは少しだけ懐かしそうに目を細めた。

 クロエは壁際へ立て掛けられた、古い木剣を見る。

 今のレオンが使うには小さい。

 柄も刃も傷だらけで、長い間使い込まれていたことが分かる。


「でも、木剣はあるんだ」


「幼少期の稽古で使っていた物でございます」


 クロエは小さな傷跡を目で追った。

 レオンも子供の頃は、この木剣を握り、何度も転びながら剣を振っていたのだろう。

 そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。


「レオンも、意外と普通の男の子だったんだね」


「普通かどうかは分かりませんが」


 ゼムは真顔で答えた。

 クロエは思わず笑う。


「そこは普通って言ってあげなよ」


 やがて、クロエはアイテムバッグから自分の荷物を取り出し始めた。


 衣服。

 商談に使う帳簿。

 筆記道具。

 王都で仕入れた小物。

 商売に関する資料。

 それらを一つずつ、部屋の中へ置いていく。


 本来なら、走竜車を何台も使うほどの荷物である。

 だが、アイテムバッグのおかげで、引っ越しは驚くほど早く進んだ。


 ゼムは使用人達へ指示を出し、棚や机の位置を整えていく。

 途中から、リックも手伝いにやって来た。


「本当に、ここで暮らすんですね」


 荷物を棚へ置きながら、リックが言う。


「うん。今日からお世話になるよ」


「旦那が変なことをしたら、すぐ俺に言ってください」


 クロエは目を瞬かせる。


「リックが止めてくれるの?」


「いえ。町中の皆に言いふらします」


「人として最悪じゃん!」


「俺一人で旦那を止められるわけないでしょう。なら、外聞を人質にした方が確実です」


 あまりにも堂々とした答えに、クロエは堪え切れずに吹き出した。


「本当に、レオンには容赦ないよね」


「旦那ですから」


 理由になっているようで、まったくなっていない。

 それでも、クロエはしばらく笑い続けていた。

 こうして、クロエのノルディア邸での暮らしが始まった。





 その日の夜。

 邸の外にある訓練場では、レオンとゼムが木剣を手に向かい合っていた。

 既に日は沈み、周囲を照らしているのは訓練場に置かれた篝火と、夜空に浮かぶ月だけだ。


 レオンが木剣を構える。

 対するゼムからは、普段の穏やかな雰囲気が消えていた。

 静かな風が二人の間を吹き抜ける。


「参ります」


「来い」


 次の瞬間、ゼムの姿がぶれた。

 風属性魔法による加速。

 レオンは即座に右目へ魔力を流した。

 視界の中へ、僅かに先の未来が映し出される。

 右側から迫る木剣。

 レオンは身体を捻り、予知した軌道へ自らの木剣を差し込んだ。


 乾いた音が夜の訓練場へ響き渡る。

 ゼムの剣をレオンが受け止めた。

 だが、その直後だった。

 ゼムの纏う風が一気に広がり、レオンの体勢を崩す。


「くっ……!」


 レオンは足元へ氷を走らせた。

 凍りついた地面を滑るように移動し、強引に距離を取る。

 しかし、ゼムは逃がさない。

 風を纏い、再びレオンとの距離を詰めた。

 レオンもすぐに踏み込み直す。

 木剣と木剣が激しくぶつかり、纏わせた魔力が火花のように散った。


 これは、ただの剣術稽古ではない。

 魔法と剣技を織り交ぜた、実戦を想定した訓練だった。

 ゼムが風を操り、攻撃の軌道を変える。

 レオンは未来視でそれを読み、氷魔法で足場を作りながら回避する。


 何度も。

 何度も。

 互いの木剣がぶつかり合う。

 訓練は、夜が深くなるまで続いた。


 やがてゼムが木剣を下ろす。


「そこまでです」


 レオンも構えを解いた。

 肩を大きく上下させ、荒い呼吸を繰り返している。

 全身は汗に濡れ、立っているのも辛いほど足が重かった。


「今日は……きつすぎないか?」


「ぼっちゃまが領主用のお部屋へ移られる記念でございます」


「何の記念だ、それは……」


「領主として恥ずかしくない体力を身につけていただくための訓練です」


「絶対に違うだろ」


 ゼムは涼しい顔をしている。

 レオンは反論する気力も失い、木剣を片付けた。


 身体が重い。

 眠い。

 とにかく眠かった。

 風呂へ入る気力も、着替える気力も残っていない。

 今すぐ横になりたい。

 ただそれだけを考えながら、レオンは邸の中へ戻った。




 夜の廊下は静まり返っていた。

 使用人達も、そのほとんどが既に仕事を終えて下がっている。

 窓から差し込む月明かりだけが、薄暗い床を照らしていた。

 レオンは重い足を引きずるように歩いていく。

 頭はほとんど働いていなかった。


 完全に無意識のまま、身体が覚えている道を進む。

 いつもの廊下を歩き。

 いつもの角を曲がり。

 いつもの扉の前で立ち止まる。

 何の疑問も抱かず、扉を開けた。


 部屋の中は暗い。

 しかし、レオンは気にも留めなかった。


「疲れた……」


 小さく呟き、真っ直ぐベッドへ向かう。

 そして、そのまま倒れ込んだ。


 数秒後。


「すぅ……すぅ……」


 静かな寝息が聞こえ始めた。

 その音で、ベッドの奥にいたクロエが目を覚ます。


「……ん?」


 まだ眠気の残る目を擦り、隣を見る。

 そこには、レオンがいた。


「……え?」


 一瞬、何が起きているのか理解できなかった。

 クロエは何度か瞬きを繰り返す。

 だが、何度見てもレオンはそこにいる。


「えっ!?」


 もう一度、声が出た。

 レオンがいる。

 自分のベッドに。

 正確に言えば、昼間まではレオンが使っていたベッドだ。

 だが、今はクロエの部屋である。

 つまり、これはクロエのベッドだ。


「えええええぇぇっ!?」


 叫びそうになり、クロエは慌てて両手で口を押さえた。

 心臓が一気に跳ね上がる。


(レオン!? 何で!? 何でボクの部屋にいるの!?)


 混乱する頭の中に、昼間の言葉が蘇る。


『だったら、邸に住めばいい』


 同じ邸で暮らす。

 元々レオンが使っていた部屋。

 そして今、そのレオンが自分のベッドにいる。


(ま、まさか……夜這い!?)


 その言葉が浮かんだ瞬間、クロエの顔が真っ赤になった。


(いやいやいやいや! そんなわけない! レオンだよ!? あのレオンが、そんなことするはずないよ!)


 必死に否定する。

 だが、心臓の音はますます大きくなるばかりだった。

 クロエは恐る恐る、眠っているレオンを見る。


「すぅ……すぅ……」


 完全に眠っていた。

 何の警戒もなく、気持ちよさそうに寝息を立てている。


 クロエはしばらく固まっていた。

 やがて、全身から力が抜ける。


「……寝てる」


 夜這いではない。

 ただ、寝ているだけだ。

 もちろん、それはそれで大問題だった。


「ボクの部屋で、何してるのさ……」


 小さな声で呟く。

 おそらく、訓練で疲れ切っていたのだろう。

 部屋が替わったことを忘れ、身体に染みついた習慣のまま、ここへ戻ってきてしまった。

 昼間まで、この部屋はレオンのものだった。

 そう考えれば納得はできる。

 納得はできるのだが、あまりにも心臓に悪い。


 クロエは深いため息を吐いた。


「本当に、もう……」


 起こすべきだ。

 そう思って手を伸ばしかける。

 しかし、レオンはひどく疲れた顔で眠っていた。


 昼間は領主として書類へ追われる。

 騎士団や討伐隊のことも考えなければならない。

 ボア肉や魔力草の商売について、クロエから相談を受けることもある。

 そして、夜になれば剣術と魔法の訓練。

 その全てを背負い、休むことなく動き続けている。


 クロエは、眠っているレオンを見つめた。


「……少しだけなら、いいか」


 そう呟いた時だった。

 レオンが小さく寝返りを打った。


「ん……」


「ちょ、ちょっと……」


 二人の距離が縮まる。

 あと僅かに動けば、肩が触れてしまいそうだった。

 クロエの顔が再び熱くなる。


「やっぱり起こす。これはもう、絶対に起こす」


 そう決め、レオンの肩へ手を伸ばした瞬間。

 レオンが小さく寝言を漏らした。


「クロエ……」


「……え?」


 呼ばれたのは、自分の名前だった。

 クロエの手が止まる。

 胸が、先ほどよりも強く跳ねた。

 寝言だと分かっている。

 こちらへ話しかけたわけではない。

 それでも、その続きを待ってしまった。


 レオンは眠ったまま、再び口を開く。


「お前の身体では……"ビキニ"は無理だ……」


「…………」


 部屋が静まり返った。

 クロエは瞬きもせず、固まっていた。


「……どういうこと?」


 聞いたことのない言葉だった。


 ビキニ。


 それが何を指しているのか、クロエには分からない。

 だが、その後に続いた言葉だけは理解できた。


『お前の身体では、無理だ』


 クロエは、ゆっくりと自分の胸元へ視線を落とした。


「……もしかして、胸のこと?」


 数秒の沈黙。

 その意味を想像した瞬間、クロエの顔が真っ赤に染まった。


「何なのさ、それ!」


 声を抑えながらも、怒りに任せて拳を握る。


「意味が分からないし! 寝言で失礼なこと言わないでよ!」


 レオンは、まだ気持ちよさそうに眠っている。


「すぅ……すぅ……」


 その無防備な寝顔が、余計に腹立たしい。

 クロエは拳を振り上げた。


「起きろ!」


 ゴンッ!


 鈍い音が、静かな部屋へ響いた。


「いってぇ!」


 レオンが飛び起きた。

 額を押さえながら、慌てて周囲を見回す。


「敵襲か!?」


「いや、違うから」


 クロエはベッドの上で腕を組み、レオンを睨みつけていた。

 その頬は、未だに真っ赤だった。


「ボクの部屋で勝手に寝るな」


「ボクの部屋?」


 レオンは寝ぼけた顔で周囲を見回した。


 本棚。

 机。

 見慣れた天井。

 そして、目の前で怒っているクロエ。

 しばらく考えた後、ようやく昼間の出来事を思い出す。


「あ……部屋、替わったんだった」


「それを入る前に思い出してよ!」


 クロエの叫びが部屋へ響く。


「悪い。疲れてた」


「疲れてたで済ませないでよ!」


「いや、本当に悪かった」


 レオンは素直に頭を下げた。

 だが、クロエの怒りは収まらない。


「それに、変な寝言まで言って!」


「寝言?」


 レオンが首を傾げる。


「俺、何て言ったんだ?」


 クロエは答えようとして、動きを止めた。


 ビキニ。


 その言葉の意味は分からない。

 だが、自分の胸元を見てしまったことまで思い出し、顔がさらに熱くなる。


「……知らない」


「いや、知らないって……聞いたんだろ?」


「知らないったら知らない!」


 クロエはぷいっと顔を背けた。

 レオンは訳が分からないまま、殴られた額を擦る。


「とりあえず、出ていけばいいのか?」


「当たり前でしょ!」


「分かった」


 レオンはベッドから降りた。

 まだ完全には目が覚めていないのか、その足取りは僅かにふらついている。

 扉の前まで歩いたところで立ち止まり、クロエへ振り返った。


「本当に悪かった。次から気をつける」


「絶対だからね」


「ああ」


 レオンは小さく頷き、部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 再び、部屋へ静けさが戻った。


 クロエはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 そして、力が抜けたようにベッドへ倒れ込む。


「心臓に悪すぎるよ……」


 枕へ顔を埋める。

 頬の熱は、なかなか引いてくれない。

 夜這いではなかった。

 ただ、疲れて部屋を間違えただけだ。

 分かっている。

 それでも、隣にレオンがいた時のことを思い出すと、心臓が再び騒がしくなった。


「ビキニって、何なのさ……」


 小さく呟く。

 当然、答える者はいない。

 クロエは布団を頭まで被った。

 その夜、再び眠りにつくまでには、かなりの時間がかかった。





 一方、その頃。

 領主用の部屋へ戻ったレオンは、広すぎる室内の中央で立ち尽くしていた。


 大きな天蓋付きのベッド。

 立派な机。

 豪華な絨毯。

 壁を飾る、歴代当主の肖像画。


 必要以上に広い室内は、どこか他人の部屋のように感じられる。


「やっぱり落ち着かないな……」


 クロエに殴られた額を擦りながら、レオンは呟いた。

 それから、ふと首を傾げる。


「俺、何の夢を見てたんだ?」


 思い出そうとする。

 だが、眠気に覆われた頭では、夢の内容を掴むことができなかった。

 ただ、なぜか南国の海と、水着姿の誰かが記憶の片隅に残っている。


「……まあ、いいか」


 これ以上考える気力もなかった。

 レオンは今度こそ領主用のベッドへ倒れ込む。

 そして、数秒も経たないうちに眠りへ落ちた。






 翌朝。

 ゼムはレオンの額にできた赤い跡を見ると、静かに尋ねた。


「ぼっちゃま」


「何だ?」


「昨晩、何かございましたか?」


 レオンは少し考えてから答える。


「部屋を間違えた」


 ゼムの目が僅かに細くなる。


「クロエさんのお部屋へ入られたと?」


「元は俺の部屋だ」


「現在はクロエさんのお部屋です」


「分かっている。それで殴られた」


「当然です」


 即答だった。

 レオンは赤くなった額を押さえる。


「少しくらい心配しろ」


「心配しております」


「本当か?」


「はい。クロエさんを」


「俺は?」


「自業自得でございます」


 レオンは何も言い返せなかった。

 その日のうちに、クロエは自室の扉へ小さな札を掛けることになった。

 そこには大きな文字で、


【クロエの部屋】


 と書かれている。

 その札を見たリックは腹を抱えて笑い、ゼムは満足そうに頷いた。


「これなら、もう間違えませんね」


 クロエは恥ずかしそうに頬を赤くしながら、レオンを睨む。


「今度は絶対に間違えないでよね」


「ああ。分かった」


 レオンは素直に頷いた。

 だが、その返事を聞いても、クロエの表情は晴れなかった。

 彼女の頭の中には、今もなお――


 "ビキニ"


 という謎の言葉が、いつまでも残り続けていたからだった。

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