スライディングでシャッターをくぐり抜ける
毎日消えてゆく言葉たち。そいつらを書きつけ更新してゆく。生きた証を残したい? そんなことはまったく考えちゃいない。おれはこのとおり生きているし、仮に生きていないとしたってそれがどうだと言うんだ。なにかを繋ぎ止めておきたいだけだ。それだって充分に下らない理由だってことはわかっている。
だが、ここ最近は何かがおかしい。洒落になっていない。思わず真顔になってしまうほど、あらゆることが狂っている。みんななんだかヤケッパチになっちまっているみたいだ。この強烈な違和感を無視するわけにはいかない。言葉という信用ならない表現ではあるが、おれに残った最後の良心として、言葉を更新し続ける。善意と悪意が同居する容れ物ではあるけれど、これからは両者ともおれの良心のために働いてもらいたい。それがなにか意味のあることだとは思わないが、少なくともおれを戒める鎖くらいにはなるだろう。
言葉を繋ぎ続けることによって、物語が生まれてしまったり、官能的な質感を持ったりすることもあるにはある。そういった素敵な偶然と出会えることは嬉しいことだ。でも、それは単なる偶然であって、目的ではない。何が言いたいのかと言うと、おれはそんな姿勢で文章を書いていたいし、書き続けるべきだと考えているということだ。言葉を前に進める推進力は、おれの場合は焦燥感、落ち着きがなくやむことのない焦燥感に駆られて、頭を空転させている。
新たな言葉を知るということは、新たな方法を知るということだ。その分だけ文章は長く続いてゆくし、可能性もまた開いてゆく。あらゆる解釈を試み、しっくりと馴染む解釈を採用し、蓄積した澱の中に手を突っ込んでみる。言葉と解釈と記憶の欠片が肩を組むことに成功した時、次の一文、次の一行が生まれるのだった。日常の中に埋もれたあらゆる経験が言葉となり得るし、それこそが日常を崩す必殺の一手になりもする、というわけだ。
なにしろおれは退屈だけはごめんなんだ。退屈が金になるのは知っているのだが、そこまでする価値があるのか? 退屈な連中を喜ばすためだけに退屈な道化に成り下がってまで? それでいいってやつは、もちろんそれでいい。それでいいのだが、おれはおまえらを攻撃はするだろうな。それくらいはさせてくれよ。おれは退屈に囲まれているんだ。この状況に中指を立てるくらいは許して欲しいね。まったくもって、許しがたいファックなんだよ、おまえらは。
多様性? 多様性って言葉はおまえらファック野郎を守るためにあるわけじゃない。疎外されている者たちを尊重するためであって、調子こいた連中を更に調子づかせるものではないんだよ。そこのところを履き違えるんじゃない。そういうおとぼけはみっともないぜ。そんなおまえらのせいで多様性がすっかり陳腐な概念になっちまった。おまえらはすべてを陳腐にしてしまうな。どうしようもない。本当にどうしようもない連中だよ。
いまいましいやつらに従って、何時間も足止めを食ったり、あちこちに行かされたり、余計な金を使わせられたり。そんなのを繰り返しているうちに、どうも人生ってのはこんなことをするためにあるわけじゃないらしいぞ、そう気づく。ここから脱出しなければならない。おれはまず酒に逃げようとした。
得意満面で空威張り、なぜか知らんが自分のことを偉いと思っているトッチャンボーヤ。取っ組み合いになって言うことが「低学歴の貧乏人のくせによ!」
おいおい、待て待て。確かにおれは学歴など無いに等しい。貧乏人であることも否定はしない。だが、それがこの状況にどう関係しているんだ? 信じられないことだ。まったく信じられないことだが、こいつはそう言えばおれを傷つけることができると心から思っているんだ。屈服させることができると。
誓って言うが、こいつは実際にあったことだ。しかも一度や二度じゃない。数え切れないほど何度もあったというわけではないけれど、三度か四度くらいはこのようなことを言われたことがある。相手は小学生なんかじゃない。れっきとした大人の言動だ。少なくとも酒が飲めるくらいには。
興奮してつい本音が出ちまったんだ。つまり、こいつらはこんな風に目の前の光景を見ているってことだ。一度こいつらの意識を通して世界を見てみたいもんだ。どこまでも荒涼とした風景が広がっているに違いない。震えてしまうほど侘しく幼い精神。いったいどこでそんな精神が培われたのか。そんなものは一撃で簡単にかき消されてしまうというのに。
そしてまた暑く、外に出れば暑いとしか言うことのない、そんな地獄の眩しい昼下がりに迷い込んでしまった。汗はとめどなく流れ、一瞬のうちにサテンのシャツを駄目にした。
その昔、仮面ライダーかなんかで悪の組織が日本の気温を38℃にしてやるという悪巧みをしていたことを思い出す。それが現実のものとなってしまった。まったく趣味の悪い冗談だ。こんな暑さの中では、なにをする気にもなれない。冷房を効かせた部屋の中で、カンパリソーダを飲むことくらいしか良い方法が思いつきやしない。だが、カンパリは切らしているし、炭酸水すらないのだった。麦茶と水とコーヒー。トニックウォーター。ジン。テキーラ。ラム。ベルモット。キュラソー。
こんな時こそ、おもしろおかしく生きなくっちゃ。パーティー気分でメチャクチャやったろうじゃん。夏ってそういう季節だ。髪色を変えてすこし大胆になって、カジュアルに求め合って、浜辺でピリッとした肌に舌を這わせて。そんな季節だったはずだ。いまじゃ汗を舐めているようなもんだ。わからないけど、きっとそうだ。
ナイトクルージング。湖の夜明け。冷やしておいた缶ビール。ふにゃふにゃになったブルーベリーガム。夜中の公園、蝉の羽化。あっちでも、こっちでも。まるで夢みたいだった。つまりはぜんぶが夢だったってことだ。
日々に溶けてゆく言葉たち。記憶と経験と体験と認識。状況に合わせた現実しか受け容れることのできない生き物。どうにかして精度を高めようとするけど、結局は幾重ものフィルターを通してでしか理解することができない。それは目の前にあるのに手が届かないもどかしさだ。自明であるのに証明ができないもどかしさだ。信頼できない語り手。それは自分自身だ。
おれの気分次第で世界は滅亡への道一直線にもなるし、南国気分のパラダイスにもなるってことだ。それにしても暑すぎる気がしないでもないがね。酒でも薬でも孤独でも、お好きなものに耽るがいいさ。それで絶望が紛れるって言うのなら安いもんだ。
悪あがきと言えば悪あがきだが、どこかにはロマンがあって、そいつのケツを追いかけるくらいしかやることなんてありゃしないさ。
束の間の陶酔。醒めない悪夢。強引に繋ぎ留める冴えない日常の中で、心の奥底の中で飼い続けている絶望と天使を解放すればいい。老人たちの言う昔はこうだった、若者たちの言う大人は腐っている、等しく幻想だ。希望の幻想、追憶の幻想、絶望の幻想、目の前の幻想。プリズムの中で乱反射する幻想が、おれたちの頭を狂わせる。無味無臭の白い塔たちが、主なき白い塔たちが、おれたちを見下ろし、徹底的に見下してやろうと圧を強めてくるが、ふざけんなバビロンシティ、塔の扉をこじ開けて警備員を捻り上げて頂上まで駆け上ってやろうぜ。徹底的に登頂して征服して小便の虹を架けてやるんだ。
振り返れば、きっとそこには少年がいて、そしてついにぼくたちは和解の握手を交わすだろう。手、洗ってないけどごめんね。




