破壊できなかった男
まったく。ちょっと金が欲しいだけだ。ほんのちょっと。何日か分だけ。
その日暮らしすらも許されない時代だ。気分で生きることができない。労働するには、まずどこかに所属しなければならない。まずケツを押さえられなければならない。おれが本当の本物の人間で、間違いなく人間で、役所やなんやかやにこの人は実在する人間ですよと証明されていることを、しっかりと証明しなければならない。見てわからんか? おれが誰だろうとそんなもんどうでもいいじゃないか。人手不足なんだろう? だったらもっとフレキシブルにいこうぜ。
おれは毎日働きたいわけじゃない。週五だって勘弁なんだ。ちょっとだけ金が欲しいだけなんだ。ほんのちょっと。高給取りが3分間くらい働いた分の金を。たったそれだけの金を動かすのに、仲介を噛まして、書類を書かせて、不躾な質問をぶつけて、場合によっては怒鳴り散らして……わかったわかった、おれが悪かったよ。ただし、もう一度おれにそんな口を聞いてみろ。おまえの金玉を4つにしてやる。よく考えた方がいいぜ。
退屈は芸術じゃない。興奮だけが芸術じゃない。凡庸だって芸術じゃない。均整が芸術でもない。じゃあゲイジュツってなんだ。知るもんか。魂を震わすってやつなんだろう。クソだってバナナだってゲイジュツなんだろう。理屈抜きの正直ってやつなのかも。一瞬の輝きなのかも。芸術ってのは生まれた瞬間に死んじまうのかも。死んだ後もなお、強烈なパワーを失わないのが芸術なのかも。
なんにせよ、おれには関係のない話だ。関係のない話なのだが、おれは芸術家になるのが一番向いている気がする。なんたって芸術家はケツを押さえられなくたっていい。おれが人間だなんてことをいちいち証明しなくたっていい。ラクだ。ラクなはずなのだが、芸術家を自称する皆さんは、なんというか……ムカつくやつが多い。人間性をねじ曲げなければ芸術家にはなれないとでも言うのか。それはおれには無理そうだ。
だって、おれほどまともな人間性の持ち主はそうそういない。マジな話、どいつもこいつもイカレてる。痙攣みたいな笑い方をするやつらばかりだ。いっつもびくびくオドオド。なにがそんなに心配なんだ。いつだってなんだって隠そうとするもんだから、すっかり自分の本音を見失ってやがる。仮面が本体を乗っ取って、肌に貼り付いて離れない。いったいやつらはなにを証明したいのだろうか。自分は使えるやつですよ、耐久性だってまだまだありますよ、使い減りしないんです、わたしは……
もうなにもかも忘れちまった方がいい。いい加減、細かいことを気にしない方がいい。いま考えるべきことは、おれのことだ。おれ自身のことだ。
自分自身について考える時間自体はたっぷりあった。時間だけは。でも肝心の考えるべきことがロクになかった。考えようとすると違う考えに阻まれてしまう。ちょっかいをかけるだけかけて、あとは知らん、そんなイタズラ小僧がおれの脳内には住み着いている。やめてくれよ。おれは真面目に考えたいんだ。もっと現実的なことを、地に足のついた生活感に溢れたことを考えてみたいんだ。お願いだから、もうやめてくれ。
そんな願いが通用するなら苦労はない。むしろ小僧を喜ばせるだけだ。ケケケ……そう笑わせるだけだ。気づいた時にはもう、小僧にペースを握られてしまっている。一緒になって遊んじまっている。ケケケケケ……一緒になって笑っている。なにもおもしろいことなんてないよ。ただ、おかしいだけだ。おかしくてたまらないだけだ。
誰かがおれをどこかでずっと待っている、そんな気がしていた。それくらいの価値がおれにはある。いまでもそうだ。そう思っている。でもそろそろ、おれの勘は外れたのではないかな、そんな気がし始めている。弱気になったって良いことはなにもないが、強気一辺倒で突っ込むのはただの馬鹿だ。そういう意味では、おれはなかなかのバランス感覚を持っていると言える。退くときは退く。最近は退きっぱなしだ。しょうがない。そういう状況なんだから。退くべき時に攻めるのはただの馬鹿だ。いつか好機は訪れるに違いない。それまでにおれが生きていればの話だが。
都会の裏路地、下品な看板で溢れる通り、ガラの悪そうな6、7人の黒人の集団。おれは決して目を逸らしはしなかったが、目を合わせることもしなかった。そのまま通り過ぎるだけだ。そうとも。
と、車止めの柵に座っていたやつが、おれを見て腰を浮かした。そのままおれに近づいてくる。なんでだ! おれの心臓が飛び跳ねた。もう気づかないフリすらできない距離にやつが来ていた。おれはちょっとそいつに目を向け、なんか用? って顔をした。本当になんの用なんだ。
「いる?」
そう尋ねられたので、
「いらない」
そう答えた。やつはそれ以上はなにも言わず、また車止めの柵に戻っていった。
おっかなかった。なんだってんだ。おれはそんなにモノ欲しそうな顔をしているように見えるのか。この目の下のクマのせいかもしれない。こいつは生まれつきなんだ。いや、実際のところはどうなのか知らないが、子どもの頃からあったのは確かだ。たぶん。よく憶えてないけれど。
いつも天一に行くのに使っていた近道だった。何度もここを通ったことがあるけど、こんなことは初めてだ。まったく。もうここは通らないようにしよう。そう思った。
目当ての天一が潰れていたのだった。嘘だろう? この国にいったい何が起こっているんだ? って言うか、天一って潰れるのか。初めて知った。永遠不滅の存在だとばかり思っていた。いつだってひっきりなしに客は来ていた気がするのだが。そういう問題ではないのだろうか。
商売。よくやるぜ。こういう例を見てしまうと、商売に手を出そうってやつの気が知れない。天一だぞ。天下の天下一品のフラグシップ店が潰れる時代なんだぞ。フラグシップ店だったのかどうかは知らないが。それでも歓楽街のど真ん中の天一だ。かなり重要な店だったのは間違いのないところだろう。
まったく変な気分だ。なにもかもが噛み合わない。おれ自身としちゃこれで完璧なんだが、なんだか駄目になっていっちまうのだった。こんなもん、おれ個人じゃどうにもできやしない。お手上げだ。
それでもおれはまだ死んじゃいない。すぐに死んでしまう気もあまりしない。もちろんなにもわかりゃしないけど。ただ坂道をコロコロ転がり落ちているのは確かだ。すごい速度でグングン近づいている最中だ。それならおれだけじゃない。誰だって一緒だ。なんだって一緒だ。すべてが朽ちてゆく。いろいろなことの誤魔化しが効かなくなってきている。ちょっと引っ掻いただけで地が見えちまう安物のメッキに覆われていただけだってことがバレてきている。解決しなけりゃならない問題は山積みだ。でもそれをする体力がない。気力もない。頭も働かない。足も動かさないで、皆が皆、いまいる場所にかじりつくことで頭がいっぱいだ。
なにか上手い手はないだろうか。なにもかもをいっぺんに解決してしまうような、スペシャルな一手が。そりゃ地道にひとつひとつ解決していくのが一番だというのは解っているのだが、もうそんな時間はないような気がするんだ。つまりはもう手遅れってことだ。そこに気づいていようが気づいていなかろうが、結果はきっとなにも変わらないだろうよ。それでも、もう一波乱、そんな期待をしているおれがいるのだった。最悪はもう覚悟してある。あとは引っ繰り返すだけだ。




