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冷たい月をもっと冷やしてくれ

 おれはちょっとばかり病んでいるんだ。腹のまわりに肉がつき始めているしな。おれはもうここから出て行きたい。開け、ゴマ。なにも開きやしない。ギターを少しの間、ジャカジャカやってみる。おれはコードを三つしか知らないが、おれにとってはそれで十分だ。ギターを弾いている気になれる。そこが重要なんだ。でもすぐに指が痛くなる。ピックが吹っ飛んでいった。もうやめた。

 郵便配達でもやろうかと思う。建物と道とポスト、それに最低限の交通規則。そこさえ押さえとけばいいんだろう。なんだかおれにぴったりの仕事な気がする。なにしろおれは任務に忠実な男だし、郵便物の中身にはとんと興味がない。移動し続けるっていいじゃないか。こうして部屋に籠もって文章を書き続けているよりかはよっぽど健康的だ。友人にも二人、郵便配達をしている人間がいた。まだ続けているかは知らないが。あいつらができるなら、おれだってできるに違いない。

 もちろん、それはそうだ。おれだってできると言うか、大抵のやつならできるんだ。おれはそういう仕事しかしたくない。あまり悩んだりしたくないんだ。利益率とか人件費とか、職場の円滑なコミュニケーションとか、残業時間とか有休消費とか、そういうことで頭を悩ませたくないんだ。

 だって馬鹿らしいだろう。そういったよしなごとに本気になっているやつは、いっぺん冷静になってみた方がいい。おれはいったいなにをやっているんだ? きっと我に返ってしまうと思うよ。


 おれはいつだって冷静だ。なにも問題はない。おれの中では。


 なにも書ける気がしない。おれはただ、書きたいだけだ。誰かになにかを届けたいだなんて、そんな大それたことは考えていない。

 何年か前に、メチャクチャがらの悪い三人組にしこたまやられた。相手は誰でもよかった。とにかくメチャクチャやりたかったんだ。で、救急車に乗るハメになった。人生で二度目の救急車。大丈夫だと言っても聞き入れてくれなかった。脳がどうたらこうたらで、無理やりに乗せられた。あれって拉致ってやつじゃないか。

 救急車は運ぶだけ運んで、帰りは送ってくれやしないのだった。おれの顔は酷い有様だった。あちこちが痛々しく腫れ上がり変色していた。口の中はもっと酷かった。唇の端を縫った。前にも一度縫ったことのある場所が同じように裂けたのだった。歯のせいだ。勢いのある拳か靴か、とにかく歯と攻撃の間に挟まれて、唇の端が裂けたのだった。

 で、いろいろな検査と治療をして、どこにあるのかもわからない病院から放り出されるんだ。PS2の頃のGTAでやられた後と一緒だ。よくわからない病院の前に、着の身着のまま金だけ取られて放置される。GTAではその辺の車をボタン一発で頂戴することができるけど、現実ではそうはいかない。あまりにも酷い仕打ちだ。おれの着ていた服は、茶色くなったおれの血でメチャクチャに汚れていた。タクシーを呼ぶ金もなかった。病院にぜんぶ取られてしまった。明け方近く、おれは橋を渡ったりして、なんとか歩いて帰ったんだ。

 歩いて帰る途中でもう朝になっていた。すれ違うやつすれ違うやつ、一様にギョッとしていた。それほど酷い有様だったんだ。みじめってほどではなかったが、なんと言うか、愉快ではなかった。とにかく眠かったし、それに眩しかった。足どりだってずいぶんと重かった。延々と橋の上を渡っているような気がしていた。

 現実感がないまま進んでいって、現実感が戻ってきた頃に、おれはようやく自分のベッドに辿り着いて眠ることができたんだ。目が覚めた後のことなんて考えたくもなかった。実際にその後の記憶はない。考えたくもなかったし、憶えておきたくもなかったってことなんだろう。


 この話の教訓は、メチャクチャやりたくなったからと言って、メチャクチャやろうとしてしまうのは愚かだと言うことだ。スッキリするのはほんの一瞬だけで、その後始末はたいへん面倒で、おまけに金も掛かる。運が悪ければ、もっと悪いことになってしまう。

 おれは運が良かった方なのかもしれない。おれは当たりにはまったく縁がないけど、最悪のハズレを避けることができるくらいの運は持っていたというわけだ。だが、運だけに頼ってメチャクチャやり続けていると、いつかは最悪のハズレを引くことになるだろう。最悪のハズレは、確実に中に入っているのだから。


 それでもまたいつか、メチャクチャやってやろうと企んでいる。この気持ちがないと、生きているなんて、唇が避けたって言えないだろう。最悪のハズレはどうか引きませんようにと願うだけだ。

 その機会は必ず訪れる。絶対に訪れるはずなんだ。思い続けていることは現実になる。当たり前の話だ。いったいどれだけの機会が口を開けて待っていると思っている。目を凝らして見てみてごらん。ああ、そっちじゃない、こっちだ。おれの指の方だ。おれの指を見てどうするんだ、この間抜け!


 もうなにも嘆くまい。憂鬱なんて知らない。落ち込むほど無駄なことはない。たまに首を締め付けられるような思いをさせられることはある。愛を見てしまったり、感じてしまった時とか。そんな時でもおれは貫き通せるだろうか。一番苦手な分野だ。泣きそうになってしまう。

 もう冷房なしでは生きていけない。なにしろこの国は暑すぎる。日中、外に出ることすら躊躇ってしまう。気の触れた季節の到来だ。脳みそが溶けて沸騰する。額から鼻筋の横を抜け、唇をかすめて、顎先からしたたり落ちる。夏が解放の季節だったのはもう昔の話だ。いまや恐怖でしかない。こんな季節に誰が裸で抱き合いたいと思う?

 彼女の二の腕はべたついていて、ひんやりと冷たかった。制汗剤の匂いと、そのほかよくわからないけど、清潔で素敵な匂いがした。

 しまった。おれも匂いに気をつけるべきだった。おれはなにもしていなかった。大量の汗をかいて、そのままにしていた。薄手のシャツは汗をたっぷり吸って、水分だけ蒸発して嫌な臭いのするものはそのまま残っているに違いない。おれって汗臭い? そう口に出してみる勇気が出なかった。仮に汗臭かったとして、おれになにができただろう。

 とにかく、彼女の二の腕はべたついて、ひんやりとしていたのだった。瞬間、瞬間で触れ合う肌の感触。おれにとってはそれが恋だ。無数の初恋の後に訪れた、べたついてひんやりとした恋だった。

 夜になれば、それぞれに問題だらけの家庭に帰るのだった。それがなんとも格好悪いことのように思えた。情けない気分で、なにかに打ちのめされて、それで結局、おれは彼女のことを忘れてしまうのだった。

 おれは今でもそんな感触の夢をみることがある。もしかして、おれは後悔をしているのか?


 やたらとデカい月がぽっかりと、低い位置に浮いていた。あの辺の街にいるやつらから見たら、もっとデッカい月が見えるんじゃないか。それに馬鹿に赤い。いっぺん立ち止まって眺めていたいくらいに。

 橋の上をテールランプが気持ちよさそうに泳いでいた。たぶんこの橋だろう。おれがボコボコの顔で血だらけで渡ったのは。その時は土地勘がなかったからわからなかったが、おそらくはそうだ。と言うか、それしかない。ずっと向こうに微かに見えるあの橋を渡ったわけがない。いくらでも橋があると思ったら大間違いだ。

 なにもわからないままに、おれは渡るべき橋を渡っていたということだ。辿るべきルートを辿っていたということだ。それでも、おれの知らないところで、おれは後悔をしているのかもしれない。

 やり直しは利かない。やり直すなんてそんな面倒なことはごめんだ。それに、どうやり直そうと、結局はこの橋を渡らなければならんのだろう。もしこの橋じゃなくたって、向こうの橋を渡るだけだ。そこに大きな違いはない。いくらでも橋があると思うのは大間違いだ。

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