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孫一物語  作者: 水沢佑
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⑧ 秘史・第三次紀州征伐

 1582(天正10)年4月、高野山攻囲の指揮をとっていた信長の三男・信孝が召喚されます。表向きは四国の長宗我部元親を討つためとされていましたが、それは口実で、密かに堺では雑賀衆を攻撃するための準備が進められていたのです。



 紀州・鷺ノ森道場には、石山を追われた顕如ら本願寺門徒が住んでいました。6月2日に織田軍はそこを急襲します。兵力は3千、信孝直率とも副将の丹羽長秀が率いていたともいわれます。

 孫一や雑賀孫六、的場源四郎など居合わせた面々は手勢を鼓舞して応戦します。わずか2百の小勢、しかも奇襲を受けた身ながら、必死の防戦の甲斐あってその日はなんとか日没まで支え切り、道場にたてこもりました。

 孫一も激戦のさなかに右肩と左手首を斬り付けられたのですが、なぜかそこには負傷の気配もない。ふと肌身離さず身に付けている阿弥陀如来の描かれた巻物を取り出すと、阿弥陀さまの肩先と手首から一筋ずつの血が流れ出ました。その巻物は今でも和歌山のお寺に残っているのだとか……


 翌日の攻撃には耐えられそうもなく、命運旦夕に迫ったと見た顕如は、信徒を集めて言いました。

 「明日織田勢が攻め寄せてきたならば、火を放ち御真影(阿弥陀如来像?)を奉焼しましょう。私がお伴いたします。皆さんにはこれまで身命、家族を捨てて助けていただき、本当にありがたく思います。積もる話は浄土でゆるゆると語りましょう」


 聞いた信徒たちが涙を流していたころ、京都は驚天動地の事件に揺れていました。

 1582年6月2日、この日付に見覚えある方も多いと思います。そう、本能寺の変です。この日の未明、明智光秀の謀反にあった信長はすでにこの世を去っていたのです。


 翌3日の明け方、急報を受けた織田方は倉皇(そうこう)として立ち去ります。九死に一生を得た雑賀方は文字通りの狂気乱舞。孫一も負傷した脚を引きずって踊り回ります。これが一説には「雑賀踊り」の発祥とされ、今でも5月17日の和歌祭りで踊られているそうです。



 孫一の命を救った本能寺の変は、しかし同時に彼の身の破滅も意味していました。

 というより、信長にすり寄ることで得た雑賀の覇権は、信長に裏切られた時点で手放さざるを得なかったのです。

 孫一はその日のうちに単身紀州を出て、岸和田城に庇護を求めます。同日、彼の居城は反孫一派に襲われ焼け落ちました。

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