⑨ 秀吉と家康と
本能寺の変の報を得て、雑賀衆は軍船を仕立てて毛利領に向かわせました。
軍使が備中高松に在陣中の毛利軍に到達したのは6月4日の夕刻。
しかし、一足早く情報が舞い込んでいた羽柴秀吉は急ぎ和議を整え、その日の朝方、高松城主の清水宗治は切腹していたのです。
追撃を主張する吉川元春を、弟の小早川隆景は信義にもとるとして抑え、あえて長蛇を逸することを選択します。
しかし、和議の前に、いやせめて清水宗治の切腹の前に報を受けていたらどうなったか。あまりに痛い数時間の差の代償は、のちのち毛利より雑賀に手痛く跳ね返ります。
1593(天正11)年、雑賀衆は亡命先の土佐から戻った土橋家が実権を握っていました。
このころ徳川家康は旭日の勢いの秀吉に対抗して織田信雄と結び、四国の長宗我部元親、越中(富山県)の佐々成政らに声をかけて「秀吉包囲網」を形成しつつありました。雑賀衆にも誘いがかかり、彼らはこれに応じ秀吉と戦うことを決意します。
秀吉はこれに対抗して岸和田城に中村一氏の軍勢5千を入れ、和泉南部に砦を築いた雑賀衆としばしば小競り合いを起こしました。
雑賀衆最大の見せ場は翌年です。秀吉が尾張へ向け大坂城を出立したのを狙い、3万の将兵を動員して大坂へ向け総攻撃をかけます。
3月22日、雑賀衆は陸から岸和田城に攻め寄せつつ雑賀、淡路の水軍を使って堺や大津(泉大津市)を襲撃、占領しました。
26日には大坂の近くまで押し寄せ、黒田長政ら留守居役の軍勢と交戦します。大坂城は建設途中のため完全に無防備で、パニックに陥った町人が自ら城下町に放火してしまいました。
目的であった大坂城の焼き払いは上手くいかなかったものの、秀吉はあわてて一度大坂に戻っており、尾張に侵入していた家康への対処は大幅に遅れることとなりました。家康方の友軍として、雑賀衆は抜群の働きを見せたといえます。
一方、雑賀を出た孫一は秀吉に仕官していました。小牧の陣立ての中に、鉄砲頭として名を連ねています。鉄砲隊の指揮に長けた彼は重宝な存在でしょうが、敵対国のもと代表ということで政治的には微妙な立ち位置です。秀吉としても使いにくかったのかもしれません。活躍したとの記述は見受けられません。
6か月に及ぶ小牧の滞陣は、織田信雄が勝手に単独講和したために結果があやふやなまま終わります。
今度は秀吉が「包囲網」を一つずつ破っていく番です。彼の鋭い視線は、まず紀州に向けられました。




