⑩ 泉南決戦
紀州を討つために秀吉が動員した兵力は、畿内衆を中心として陸兵10万名に達しました。加えて小早川隆景らに命じて水軍を動かし、雑賀衆の強みであった紀州の制海権すら奪ってしまいます。
対する雑賀衆は、石山陥落以来の内紛をいまだ引きずっており、その戦力、組織力は往年と比べるべくもないほど落ち込んでいました。
紀州に敵を入れては勝てないと判断した彼らは、根来衆と合わせ信頼できる9千名のみを和泉南部の千石掘、沢、積善寺など13の城に配して迎撃することにしました。寡兵ながら、強兵で鳴らす雑賀・根来きっての精兵です。
1585(天正13)年3月22日、羽柴秀次(秀吉の甥)率いる先陣は諸城に一斉に総攻撃を開始しました。秀次自身は約2万5千の兵を指揮して、主力の立て籠もる千石掘城に襲いかかります。
5千名ほどの千石掘の城兵は侵攻する敵を鉄砲、弓矢で猛烈に射ちたてます。横合いから5百名の伏兵も盛んに攻撃を加え、先鋒の筒井定次勢はたちまち数千名の死傷者を出して撃退されました。その銃撃の激しさは「砂地にゴマをまくような」と、微妙にわかりにくい比喩で羽柴方の資料に表現されています。
秀次は、城自体は急造でそれほど堅固でないだろうと判断し、予備兵力3千をもって城の側面から攻めさせますが、これがとんだ見当違いで、猛射を受けまたも甚大な被害をこうむります。
秀次自身の馬廻りも投入して、やっとのことで翌日に二の丸を確保し3百名ほどを討ち取りますが、本丸に籠った城兵はなおも激しく反撃。羽柴方はわずか半刻(1時間)の間に1千名を失うという大苦戦を味わいます。
相変わらず意気盛んな城兵の背後から、数本の火矢が飛んできました。いつの間にか筒井氏配下の伊賀衆が後ろに忍び寄っていたのです。
その火矢の一本が煙硝蔵に飛び込み、その直後、火薬に引火して耳をつんざく大爆発を起こしました。まさかの事態に城兵はなすすべもなく、5千の城兵と同数ほどの非戦闘員は大半が焼け死に、逃れ出た者はことごとく討ち取られました。
さらに、秀吉は撫で斬り(皆殺し)にするよう命じ、千石掘にいたものは人から動物に至るまで全滅しました。
積善寺城では野戦で敵に甚大な損害を与えるも敗退し、翌22日に開城。沢城はもと孫一配下の的場源四郎の指揮によって抗戦しますが、衆寡敵せず23日には城を明け渡し、源四郎は紀州に逃れました。
雑賀・根来の命運を賭した泉南防衛線は、わずか3日でもろくも崩壊したのです。




