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孫一物語  作者: 水沢佑
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⑥ 石山開城

 瀬戸内海で常に優勢を保っていた毛利・雑賀水軍が敗れたわけは、ひとえに信長の隠し玉・鉄甲船にありました。

 鉄甲船は長さ22m、幅13mの、当時としてはなかなかの大船で、敵の銃砲や火器を通さぬよう舷側に3mm程度の鉄板をはっていました。

 実は本願寺は鉄甲船の情報をあらかじめ掴んでいて、伊勢から7隻の鉄甲船が回航される途中を狙って1578年7月に雑賀と淡輪(たんのわ)の水軍衆が取り巻いて袋叩きにした……のですが、雑賀必殺の焙烙玉(手榴弾)や棒火矢(ロケット弾)が全く通じず、大した傷も与えられず堺に逃げ込ませてしまいます。あたかもB-29に群がる零戦のような……余談失礼。

 11月、兵糧輸送中の毛利水軍と織田水軍が衝突、鉄甲船を敵の旗艦に近づけては3門の大筒(大砲)をぶっ放すという織田方の戦術の前に毛利水軍は手も足も出ず敗北、ついに大坂湾の制海権を失ってしまいます。

 それは石山への主要な補給路を失ったことを意味していました。


 翌年には陸でも、雪崩を打つように戦局は悪化していきます。

 6月ごろ、丹波(京都府中部)の波多野秀治が降伏。

 9月、有岡城陥落。

 10月、備前(岡山県南東部)を治める宇喜多直家が織田方に寝返り、毛利の戦線は後退を余儀なくされます。

 播磨が織田勢の手に落ちるとともに、石山は陸海とも完全に孤立しました。





 実に10年に及ぶ石山合戦も、ついに終わりの時が来ました。

 1579(天正7)年の暮れも押し迫ったころ、本願寺は合議の上、朝廷に和議の仲介を内々に打診します。

 翌年3月1日に勅使の下向を受け7日、石山退去を条件に和議の誓詞を差し出します。


 ところが顕如の長男・教如がこれに反発し、徹底抗戦を唱えます。孫一もこれに和し、「鈴木 重秀(しげひで)」の名で、教如を支持する連判状に署名しています。2度も織田勢の侵攻を受けた身としては当然かもしれません。

 しかし単独で戦うのも8月には限界に達したようで、教如らも石山を明け渡し、顕如の後を追って紀州の鷺ノ森御坊へ去りました。

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