③ 第一次紀州征伐
翌年(1577年)2月2日、信長は調略により根来衆の杉ノ坊と雑賀衆の三ヶ郷(宮郷、中郷、南郷)を恭順させます。
石山合戦に対する態度は、一向宗徒の雑賀荘、十ヶ郷と、真言宗徒である根来衆や三ヶ郷では温度差があり、信長はそこをついて親本願寺派を孤立させることに成功させたのです。
これを受け、信長は紀州への遠征を決意します。
大坂方面が膠着状態の今、本願寺軍の中核たる雑賀衆を先に叩いておこうというわけです。
信長は2月13日、10万の大軍を編成して京都を進発します。
実は、これは彼の人生において最大の動員規模でもあります。どれだけ雑賀衆の戦力を高く見積もっていたか、またこの一戦にかける意気込みがいかほどのものか、わかるというものです。
何しろ敵は雑賀衆の二ヶ郷のみ、兵力はわずか2千ほどであったともいいます。
実に50倍もの異常な兵力差を、いかにしてひっくり返せるのか。孫一の運命は風前の灯のように見えました。
16日には先鋒は雑賀衆の最前線・和泉国貝塚に到着し、翌日には砦へ攻めかかります。
しかし城兵は前夜のうちに船で退却しており、初戦は空振りに終わりました。
22日、志立(大阪府泉南市)に達した織田軍は軍勢を山手と浜手に分割します。
滝川一益、明智光秀、丹羽長秀らの手勢からなる浜手勢は、雑賀勢のゲリラ的妨害に悩まされながら淡輪口(大阪府岬町)の細い道のりを突破。途中防戦に出てきた兵を破り、孝子峠を越えて中野城(和歌山市中野)を攻撃、調略によって降伏させました。
一方、佐久間信盛、羽柴秀吉ら率いる山手勢は風吹峠を越えて雑賀に乱入し、めぼしい場所を焼き討ちしつつ小雑賀川(和歌川)の防衛線に突き当ります。
川を越えれば雑賀城は目の前です。部将の堀秀政は数を頼りに一斉に川に打ち入ります。先頭が半分ほど渡りきったところで、兵や馬が突然転倒し始めました。
川底には無数の壺が埋められていて、これに脚をとられたのです。そこに雑賀勢が一斉射撃を加えたのでたちまち被害続出。
それでもしゃにむに突撃を続けて一部の兵は対岸にたどり着きますが、岸壁や柵にはばまれて右往左往しているうちに鉄砲の餌食となり、多数の武者を失って堀勢は対岸に後退せざるを得なくなりました。地の利を活かした孫一らの勝利です。
しかし、いかに信長勢を苦しめようとも、大軍の前にいつまでも持ちこたえられるものではありません。
3月1日、孫一の居城が包囲されます(場所は不明)。
孫一ら7名は連署して誓詞を認め、「信長が大坂表での事に配慮を加えること」を条件として降伏を申し入れ、信長はそれを受け入れました。
上杉謙信や毛利輝元の足音が信長の背後に迫っていて余裕がなかったとはいえ、降伏と言いつつ一応条件を突き付けられるあたり、孫一たちの善戦ぶりが伺えます。しかもこの降伏は名目上のものにすぎず、その証拠に雑賀衆の反信長的行動は以後も続きます。
3月21日、織田軍は陣を払って紀州を去りました。