七色の帳、林へ通ず
どうにかこうにか試験を終え、明日から夏休みに入る、最後の講義の日だった。
あの日、間継律という謎の男は、無理やりこのスマホに番号を登録していった。
あちらにも、この番号は登録されているわけで……
連絡は一度もない。姿も見せていない。あれはきっと、夢の続きだったのだ。
そうに違いない、自分の平穏な日々が、わけのわからないものに侵食されそうな忌避感に、秋臣はあの日のことを忘れようと努力した。
……のだが。
何度確認しても、あの男の番号がスマホにある。
忘れられない。あの間継という男のことが、何故か気になっていた。
秋臣は、カフェインが大量に入った炭酸飲料だけ買って、コンビニを出る。
「ねむい」
いつからかは判然としないが、倦怠感と眠気がずっと続いていた。
夏休み入る前の授業だ。居眠りなんて出来ない。
無駄に意気込んで、講義室に入った時、前の講義を受けた人たちをすれ違いながら、いつも座っている辺りの場所へ向かった。
湊を探すが、まだいない。すこし早く来すぎたらしい。
ボイスレコーダーとペン、ノート、教材を開いて、一息ついた時、「おい」と背から声がした。
「おい、冬吾」
苗字を呼ばれて、ようやく自分が呼ばれていることに気づく。
後ろを振り返ると――あの男がいた。
「あ、間継さん!?」
「おはようございます」
挨拶をされた秋臣は、咄嗟に挨拶を返す。
この大学の学生だったのか。
「あれ、同い年? ではないか」
選択科目の講義は、上級生も混在してるんだった。
秋臣の独り言には応えなかった律が、おもむろに問う。
「今日講義、これで終わりか? 終わったら時間あるか?」
「これで終わりですけど、時間は……えーっと」
「あるな」
「いや、友達とご飯に……」
夏休み入るのだから、一学期お疲れ様という名目で、湊とご飯にでも行こうと思っていた。
「友達と飯ならいつでも行けるだろ、講義終わったらついてこい」
こちらの言葉を聞き入れる気はないらしい(おそらく)上級生の命令。
いつもなら無理だと言いのけられるはずなのに……この男に対して何故かそれが出来ない。
何かわからない。何かが、この男についていけと言っているようにも思えた。
ぐっと言葉を飲み込んだ秋臣は、深い諦めを覚えて、昼ご飯をどうするかの心配をすることになった。
講義が終わった途端、片付けを急かされ、湊に声をかける暇もなく連れ出された。
「ちょ、なんでそんな急いでるんですか」
拉致されるんじゃないかという勢いで、腕を引かれる。
バイトの件に関しては、肯いてすらない。何の仕事なのかもすら、聞かされていない、
初めて会った中庭の狭い通りに入って、ようやく腕を話してくれた彼は、向こう側の道へ抜ける前にある勝手口の前で、足を止めた。
何かを呟いた後、雑に手招きしてくる。
「早く来い。なるべく早い方がいいだろ。お前もそのままじゃ辛いだろうから」
今更返ってきた返答は、やはり意味がわからなかった。
「辛いって、何が――」
言いかけた時、勝手口が開かれる。この建物なんだっけ? えーと、体育館に近いここは……
いや、それよりなんでここから入るの? というか、バイトは?
思考の渦を止めたのは、扉の先にあった暗闇だった。
――ナニコレ?
暗闇だと思ったものは、よく見ると七色に波打ち、揺れている。
思わず固まった時、拒否する間もなく、腕を引っ張られ、放り込まれた。
「うわああああ!」
恐怖に悲鳴を上げ、足をつけた瞬間、柔らかい踏み心地がした。おそるおそる、目を開く。
緑が映り……薄青の空があった。
「林……?」
前には、林に囲まれた長い一本道。
「抜けたらすぐ着くから、静かについてこい。静かに」
いつの間にか追い越していた彼が、一度振り返って言った。
「あの、ここ何なんですか」
学校の勝手口の扉が林に繋がっていた? うわー、ファンタジー。そんなわけないだろ!
混乱が行き過ぎた脳内で、あらゆる秋臣が踊り出す。
林。空、土に……風は、自然の匂いを運んできている。夢でも、幻覚でもない。
前をいく背。銀のリング状の髪留めで、束ねられた絹のような髪先が揺れていた。
ひとつ上だとは思えない、やけに大人びた雰囲気は、林の中でもどこか浮いている。
状況についていけず、立ち尽くした秋臣は、ふと我に返った。
――なんで俺、大人しくついていってるんだろう。
それすら許さないように、間継がふいに足音を立てて、戻ってくる。
「俺は、同じことを、何度も言うのが、嫌いだ」
早く来ないと放置していくぞ。理解できたか?
一言一言協調して、ぐんと顔を寄せてきたその瞳は、不機嫌を宿していた。
あまりの威圧感に、「は、はひ」と情けない答えが口から漏れ出た。
〖大学一回生、冬吾秋臣さん。夏休みに入る前日、行方不明に〗
そんなニュース画面が頭に浮かんだ秋臣は、勢いよく首を振って、前の男を追いかけた。




