第72話:届かない言葉
湖が、脈打つ。
青白い光が、水面の奥から何度も明滅する。
炎と同じリズムで。
いや――炎が、合わせられているようだった。
「な、なんだ……」
ざわめきが広がる。
誰もが異変に気づいていた。
その中心で――
ユウトは、ただ一人を見ていた。
「詩織……」
呼ぶ。
だが、シオリは動かない。
湖を見つめたまま。
次の瞬間。
水面が、裂けた。
音もなく。
空間そのものが歪む。
そこから現れたのは――
巨大な影。
ゆっくりと形を持つ。
漆黒の鱗。
圧倒的な存在感。
空気が、重く沈む。
本能が関わるなと告げる。
誰も、動けない。
「……っ」
誰かが息を呑む。
「ドラゴン……」
小さな声。
「伝説の……」
「嘘だろ……」
ざわめきは広がるが――
誰一人として、武器を取ろうとはしなかった。
足が、動かない。
視線を逸らすことすら、できない。
ただ圧倒されていた。
その存在に。
その中で。
シオリだけが、一歩前へ出る。
そして――
小さく息を吐いた。
「……来たわね」
一拍。
視線を逸らさずに。
「――魔王」
その一言で、空気が凍る。
ドラゴンが、ゆっくりと視線を落とす。
「……久しいな」
低く響く声。
頭の奥に直接届く。
「聖霊の後継者」
ユウトの思考が止まる。
(聖霊……?)
「詩織!!」
叫ぶ。
だが、届かない。
シオリは、静かに頷いた。
「……やっぱり、あなただったんだ」
その声は落ち着いていた。
だが――
わずかに、揺れていた。
ドラゴンが続ける。
「お前は理解しているはずだ」
「……ええ」
短い返答。
それ以上は語らない。
ユウトが叫ぶ。
「行くな、詩織!!」
だが。
誰も答えない。
ドラゴンはただ、静かに告げる。
「時が来た」
その視線が、シオリへ向く。
「それだけのことだ」
沈黙。
シオリは、ゆっくりとユウトを見る。
「……」
目を逸らさない。
何かを言おうとして――止まる。
「……やだな」
ぽつりと漏れる。
小さく。
「もう少し……」
言いかけて、飲み込む。
ほんの少しだけ、笑おうとして。
うまくいかない。
息を吐く。
そして。
覚悟を決めるように、視線が静まる。
「詩織……?」
ユウトが呼ぶ。
「…」
その声に、ほんの一瞬だけ表情が崩れた。
光が、シオリを包み始める。
「待て!!」
ユウトが叫ぶ。
身体が動かない。
見えない何かに押さえつけられている。
「やめろ!」
「詩織に何してる!!」
「詩織!!」
叫ぶ。
届かない。
その時。
「ねぇ、優斗――」
いつものように呼ばれる。
そのはずなのに。
どこか違って聞こえた。
シオリが、ゆっくりと口を開く。
「……」
音が、消える。
言葉が、届かない。
ただ――
口の動きだけが見えた。
「――――」
ゆっくりと、はっきりと。
二度、同じ形をなぞる。
まるで、忘れないように刻みつけるみたいに。
「……は?」
ユウトが一歩踏み出す。
「今、なんて――」
その瞬間。
シオリは、少しだけ笑った。
言い直さない。
それでいいとでも言うように。
その唇の動きだけが――
強く、焼き付いた。
光が、シオリを包み込む。
「待て!!」
ユウトが叫ぶ。
手が届かない。
「詩織!!」
叫びは、届かない。
次の瞬間。
光が、すっと抜けた。
身体から、何かが引き剥がされるように。
ふっと、重さが消える。
シオリの身体が――
その場に、崩れ落ちた。
「……え?」
ユウトの思考が止まる。
そこにあるのは、変わらない姿。
だが。
何かが、決定的に違う。
「詩織……?」
駆け寄る。
肩を掴む。
揺らす。
反応はない。
息はしている。
目は開いている。
だが――
何も映していなかった。
ドラゴンが静かに告げる。
「眠りについた」
それだけ。
説明はしない。
理由も語らない。
ただ事実だけを残す。
その言葉で。
何かが、切れた。
「……返せよ」
小さく呟く。
「返せよ……」
顔を上げる。
目が、変わる。
「詩織を返せよ!!!」
叫びが、夜を裂いた。




