第68話:聖霊とドラゴン
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昔、この地は草木すら育たぬ荒れ果てた大地だった。
雨は降らず、川は枯れ、土はひび割れていた。
人々は飢えに苦しみ、今日を生き延びるために奪い合い、殺しあった。
食べ物を求めて争い、わずかな水を求めて殺し合う。
互いの血で喉を潤し、互いの肉で腹を満たす。
そんな地獄のような日々が続いていたという。
ある日、そこへ一人の少女が現れた。
痩せた身体に、汚れた衣。
だがその瞳だけは、不思議なほど澄んでいた。
少女が「雨が降る」と言えば、乾いた空から恵みの雨が落ちた。
少女が「風が吹く」と言えば、熱に喘ぐ大地へ涼やかな風が流れた。
人々は恐れ、やがて敬った。
いつしか誰かがこう呼んだ。
――聖霊様。
その名は瞬く間に広まり、人々は少女を神の使いのように崇めた。
だが、少女の力をもってしても、人の争いだけは止められなかった。
雨が降れば奪い合い。
作物が育てば奪い合い。
恵みが増えるほど、人の欲もまた増えていった。
少女は何度も言葉を尽くした。
争ってはいけないと。
分け合わなければならないと。
けれど誰一人、耳を貸さなかった。
月日が流れ、少女はある日こう告げた。
「やがて天より、神の力を持つ者が現れます」
「その者が、この争いを終わらせるでしょう」
人々は歓喜した。
自分たちを救う英雄が来るのだと。
そして少女の言葉どおり、その日は訪れた。
夜空が裂けるような轟音とともに、天より巨大な影が舞い降りた。
漆黒の鱗。
山をも覆う翼。
黄金の瞳。
人智を超えた存在――ドラゴンだった。
だが人々は、その姿を見て震え上がった。
救い主ではない。
災厄だと。
誰かが叫び、誰かが槍を投げた。
その瞬間、人々は一斉に武器を取り、ドラゴンへ襲いかかった。
ドラゴンは何もしていなかった。
ただ、少女の言葉に導かれ、この地へ降り立っただけだった。
それでも刃は向けられた。
火を放たれ、石を投げられ、槍で突かれた。
傷ついたドラゴンは、咆哮ひとつ上げず、人々の前から姿を消した。
遠く、誰も近づかぬ山奥へと去り、孤独を選んだという。
ある日、少女はそのドラゴンを探しに旅立った。
深い森を越え、険しい崖を越え、辿り着いた先で、傷だらけのドラゴンと出会う。
ドラゴンは少女を睨んだ。
だが少女は怯えなかった。
その巨大な顔にそっと手を伸ばし、こう言った。
「なんて優しい目」
「そして、なんて悲しい顔」
その言葉を聞いた瞬間、ドラゴンは初めて涙を流したという。
誰にも理解されず、誰にも信じられず、ただ恐れられてきた存在だった。
少女だけが、その心を見たのだ。
少女は微笑み、言った。
「あなたを救ってあげる」
少女は村へ戻り、人々に真実を語った。
ドラゴンは敵ではないこと。
傷つき、孤独に泣いていたこと。
本当は誰より優しい心を持っていたこと。
だが、誰一人として信じなかった。
人々は少女が惑わされたのだと言い、怒り狂った。
少女は知っていた。
自分の言葉が届かぬことを。
自分の願いが無駄に終わることを。
それでもなお、信じたかった。
人が変われると。
誰かを理解できると。
その想いを知ったドラゴンは、三日三晩泣き続けた。
流れ落ちた涙は止まることなく、大地を満たし、やがて巨大な湖となった。
それが、この湖の始まりだという。
湖のほとりで、少女とドラゴンは束の間の時を過ごした。
言葉はなくとも、そこには確かな安らぎがあった。
だがその光景を見た人々は激怒した。
聖霊様が化け物に心を奪われた。
そう叫び、少女へ刃を向けた。
少女は抵抗しなかった。
人々の剣は、その小さな胸を貫いた。
倒れた少女の身体は、そのまま湖へ投げ捨てられた。
それを知ったドラゴンは、初めて咆哮した。
天地を揺るがす怒りだった。
振るわれた爪は大地を裂き、深い川となった。
翼が巻き起こした風は森となり、その森には異形の獣たちが生まれた。
吐息は瘴気となり、人々を震え上がらせた。
世界は滅びるかと思われた。
その時だった。
湖の水面に、少女の姿が現れた。
透き通る幻のような姿。
それでもドラゴンは、確かに少女だと分かった。
少女はただ微笑み、静かに首を振った。
もう悲しまないで、と。
もう怒らないで、と。
ドラゴンは吠えることをやめた。
そして少女の幻影を追うように、湖の奥深くへと沈んでいった。
二度と、その姿を現すことはなかった。
それ以来、夜になると湖の底は青白く輝くようになった。
人々は言う。
あれは今も湖の底で寄り添う、聖霊とドラゴンの魂の光だと。
またある者は言う。
あの光は、少女を奪った人の罪を忘れぬために灯り続けているのだと。
またある者は言う。
少女の命を奪い、少女の命を宿した聖剣が光り輝くのだと。
そして森に現れる魔物たちは、今もなおドラゴンの悲しみから生まれ続けているのだと。
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