第109話:魔王の背中
セレスの登場に、ルイスは一瞬だけ驚きの表情を浮かべた。
その瞬間――
ユウトは、身体の異変に気づいた。
指先。
腕。
足。
首。
動く。
さっきまで空間に縫い止められていた身体が、嘘のように自由になっていた。
「……」
だが――
もう、ルイスを殴る気は起きなかった。
ルイスの言っていることが正しいのか。
間違っているのか。
ユウトには、まだ分からない。
詩織を封印したことを許せるわけではない。
怒りが消えたわけでもない。
だが。
それを今、拳でぶつけたところで、何かが解決するわけではない。
それくらいは分かった。
ユウトは、強く握った拳をゆっくりと下ろした。
その姿を横目に見ながら、ルイスの視線はセレスへ向く。
「久しぶりだね」
「セレス……」
「ええ」
セレスもまた、まっすぐにルイスを見た。
「ルイス……」
二人は、互いにゆっくりと歩み寄る。
ユウトは、その空気に息を呑んだ。
敵同士。
そう呼ぶには、どこか違う。
知り合い。
そう呼ぶには、重すぎる。
二人の間には、ユウトの知らない時間があった。
「頼んでおいた仕事は順調かしら」
セレスが、いつもの調子で口を開く。
「さて……」
ルイスは穏やかに笑った。
「頼まれた覚えはないけれど?」
「誰に言ってるの?」
セレスは目を細める。
「フッ」
ルイスは小さく息を漏らした。
「知っての通り、終わってるよ」
「ご苦労さま」
「君は相変わらずだね」
「あなたもね」
セレスは静かに返す。
そして、少しだけ声を低くした。
「ところで……」
「うちの部下に、何か御用かしら?」
(部下って言うな)
ユウトは心の中で即座に突っ込んだ。
「優秀な人材をヘッドハンティングだよ」
ルイスは、何事もなかったように言う。
「うちは作ったばかりの弱小商会だからね」
「あまり虐めないでくれよ」
ルイスは穏やかに微笑む。
その笑顔は、やはりどこか底が見えない。
「ねぇ、ルイス……」
「私は何でも分かってるのよ」
「あなたが誰よりも優し――」
「やめろ!」
ルイスの大声が、セレスの言葉を遮った。
その声は、先ほどまでの穏やかなものとはまるで違っていた。
鋭く。
荒く。
余裕のない声。
周囲にいた商人たちが驚いて振り返る。
その時にはもう、誰も縛られてはいなかった。
ざわめきが広がる中、ルイスだけが静かに俯いていた。
「……」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、ルイスは小さく息を吐いた。
「すまない……」
その声は、先ほどよりもずっと弱かった。
「急用ができたので、今日はこの辺で失礼するよ」
そう言って、ルイスは背を向けた。
「ルイス!」
セレスが、思わず呼ぶ。
だが、ルイスは振り返らない。
そのまま、夕暮れの人混みの中へ歩いていく。
ユウトとセレスは、その背中を黙って見つめていた。
「……」
ユウトは、なぜか目を離せなかった。
ルイスの背中。
静かで。
遠くて。
どこか、ひどく孤独に見えた。
その姿に、ユウトはふと過去の自分を重ねた。
詩織が死んだと思っていた頃。
部屋に引きこもり。
誰とも会わず。
何もせず。
ただ、時間だけが過ぎていった日々。
あの時の自分を見ているようだった。
「……」
魔王。
詩織を封印した相手。
恨むべき相手。
それなのに。
ユウトは、去っていくルイスの背中に。
ほんの少しだけ。
痛みのようなものを感じていた。




