幕間 此処に聖者は非ず
「今度の薬が届くのはいつ!?早くして頂戴!!」
「も、申し訳ありませんっ。現在アレイン王子がニーグメージュ神と交渉に赴かれておりまして……。」
そんなことはわかっているわよ!!と言って手あたり次第に物に当たり散らす老女が一人。
ガシャンと割れた白磁の壺は王家御用達の職人の一品であり完全オーダーメイド、価格は家が三軒は買えるほどの高価なものだ。それだけで、それを惜しげもなく割ることのできるこの老女の地位が相当高いことが伺える。
「……もういいわ。何もできないのなら下がっていて頂戴。二度と私の前にその顔を見せないで。」
一通り物を壊して踏みつけた彼女は肩が上下するほど荒い呼吸を繰り返しながらぎろりと侍女を睨みつけて言った。
「は、はい。かしこまりましたっ直ちぎゃあああああっ!?」
その理不尽な命令に文句を言うことなく立ち去ろうとした侍女に、あろうことか老女は床に落として破片と化した陶器を投げつけた。
ぶちりという何かの裂ける嫌な音と、ビチャビチャと大量の液体が勢いよく飛び散る音がする。
言わずもがな、それは侍女の顔面に投げつけられた破片があたり、顔半分が裂けて血が飛び散る音であった。
痛みに転げまわる侍女を更に踏みつけ、蹴り転がす。
「うるさいのよ!とっとと消えろっていうのが分からないの!?」
そのまま再度踏みつけようとした足が届く前に、控えていた兵士が二人掛かりで侍女を部屋から引きずり退出していく。
その様子を見送るや否や、老女はまたヒステリックに喚きだした。
「どいつもこいつも、どいつもこいつもっ……何が王家よ!何が聖王国よ!こんなクソったれな国っ。」
部屋から退出する際にちらりと廊下から部屋の中の様子を窺う者がいた。
純白に金と銀で上品に装飾された司教服を纏った男……大司教ウェルビスである。
齢は100を超えるとも噂されるが、未だに50代と言われても納得するような若さを感じさせる容姿と神経質そうな顔立ちが特徴的な彼はまたかと内心で溜息を吐いた。
(今回の王太子妃もこれまでか……。)
先程送られてきた影からの報告を聞き、その事態が最善の方向で動くという楽観的な観測をしてもあの様である。今までの経験から、恐らくもう王子たちが薬を入手できても間に合わないだろうと容易に想像がついた。
「おい。」
《はい。此処に。》
誰もいない所にウェルビスが話しかけると返事が返ってくる。
勿論いないというのはそう見えているだけで、実際は常に影たちが待機しているのだが。
抑揚のない声にこれまた感情のほぼ入っていない声でウェルビスは要件を告げた。
「王妃はどうしている。いつも通りか。」
《は。此度も変わらず、礼拝堂にて懺悔をしている模様。》
「王もか。」
《はい。此度は用途不明の花を多量に買い込まれまして……何分儀礼用にも観賞用にも使えない類のものでして……立ち去り次第撤去いたしますか。》
「……確か午後から一般礼拝があったのだったか……ああ、頼んだ。」
御意と言葉を残して気配が消える。
そのまま特に気にする素振りも見せずにウェルビスはとある一室へとその足を進めた。
行儀よくノックをして入室を告げると入りなさいと柔らかな声がかけられる。
「失礼いたします。」
「ああ、よく来てくれたね。グフナ茶でよかったかな?」
中でお茶の用意をしていたこれまた若々しい男に頷くことで肯定を示し、ウェルビスは扉を閉めた。
同時に防護結界とあらかじめ録音しておいた偽の会話が流される手筈が整った事を確認する。
コトリと茶の入ったカップを置くのと同時に、彼らは背筋を伸ばした
「しかし困りましたな。今回の皇太子妃はほんに無能だった。」
ウェルビスは遠慮も何も無しに率直な感想を述べた。
それに対して対面する男は困ったように苦笑する。
「相も変わらず毒舌が冴え渡るな、君は。僕はここまで耐えただけでも凄いと思うよ。ほんと、感心する。」
「そう言って彼女を追い詰めたのは何処のどなたですかな?教皇。」
「おっと、ここではせめてチャーシェルと呼んでくれよ。流石に此処でもその呼び方は疲れる。」
わざとか否か、言われた事にはなにも触れず自身の呼び方を訂正するに留めた男……現教皇チャーシェルが肩を竦めて見せた。
その様に眉間に皺をよせたウェルビスが「ふん、相変わらず食えない奴め。」とどかりと聖職者らしからぬ乱暴な動作で着席する。
「そんな事は無いよ。今だってあのちょっとおつむがアレな王家を押さえ込むのに苦労の連続さ。」
言って、態とらしく人差し指を額あたりからくるくると回すジェスチャーをしてみせる。子供のようなおどけた動作に可愛らしい笑顔がついてお茶目な印象を受ける。
少なくとも彼をよく知らない者はそう思うだろう。
だが教会に入ってから既に90年近く共にあったウェルビスだからこそ分かる。
目の前の男が額面通りに心穏やかなんて事はないむしろ腸煮えくり返る思いでいるだろうことを。
「あれから九十余年。いやあもったものだね、此処も。」
何処か空々しい、他人事の様な言い草でチャーシェルはカラカラと笑って見せる。
対するウェルビスは眉間の皺を揉み解しながら溜息を吐いた。
「全くだ。まさか百年近く続くことになろうとはこのワタシですら考えつかなかったぞ。おかげでこんな、大司教何ぞという底なし沼に片足を取られてしまった。どうしてくれる。」
「はっはっは。何を言うかと思えば……そうか、あの日からもうそんなに経つのだね。」
噛み合っているようで噛み合っていないような妙な会話を繰り広げる二人は同時にティーカップの中身を見る。中にはほぼ黒に近い色のお茶が注がれ、まだ湯気がチラついていた。
そこにチャーシェルがミルクを投入すると注いだところから徐々にミルクが真っ黒いお茶に広がっていく。
その白は瞬く間に二人にある出来事を彷彿させるには充分なものだった。
―――ごめんなさいね。二人とも。しばらく遊んであげられないわ。
そう悲し気に笑った一人の女性……否、少女が網膜の裏に蘇る。
自分達とは違う、それはもう雪の様に美しい白銀の髪が風に乗って揺れて、その髪を耳に掛ける彼女。
今はない貧しくも自然豊かな村であった、確かな、されど僅かな記憶。
頭を撫でられたことは覚えている。なんでどうしてと大泣きして困らせたことも。
……たぶん、優しい人だったのだろうということも。
そうして。
そうして、罪人として晒し物にされた。彼女の首も。
それを抱えて泣く一人の男の姿も。
今も確かに覚えている。
ギィっと鳴った椅子の音が二人の意識が過去から現在へと浮上させた。
チャーシェルは片手で両目を覆うように塞ぐと、そのまま天を仰ぐ。
「……全くもって、儘ならないものだね。現実ばっかりは。」
そんなチャーシェルの様子を余所にウェルビスは真っ白い角砂糖を一つばかり、まだ何も加えていなかった自身の茶に放る様に入れる。
「……ああ、全くだ。」
放り込まれた角砂糖は、かき混ぜる間もなく熱い黒色の中へと沈み、瞬く間に消えていった。
九十余年前のあの日からこの国には、そして対外的には聖人と呼ばれるであろう彼らにも、救いたる聖人など居はしないのだ。




