第6話 初めての遠征
夜明け前。 まだ星が薄く残る空の下、僕たちはフェルンハイムの西門をくぐった。
「眠いなら今のうちに言っときなさい。森に入ったら、そんな贅沢言えないから」
先頭を歩くニーナが、あくびを噛み殺しながらもしゃんと背筋を伸ばしている。腰の細剣が、朝露に濡れた革帯の上でかすかに揺れていた。
「眠くはないです。ただ……」
「ただ?」
「森って、ダンジョンよりずっと広いんですよね。迷ったらどうしようとか、そういうのが、少し」
素直に白状すると、ニーナは意外そうに目を丸くしてから、くしゃりと笑った。
「――ふふ、そういうのは正直に言った方がいいわね。安心しなさい、道はオスカーが完璧に覚えてるから。伊達に何年もこの森に通ってないっての」
追いついてきたオスカーさんが、僕の背中をドンと叩く。
「街の中とは勝手が違うぞ。足元は悪い、天気は変わる、獣は気配で動く。依頼として『外』に出るのは、今日が初めてだ。よく見とけ」
門を抜けた瞬間、街の喧騒がふっと遠のいた。代わりに満ちてくるのは、湿った土の匂い。石畳の硬さから解放された足の裏に、柔らかな感触が染み込んでくる。畑を耕していた頃の記憶が、ふと足の裏から呼び起こされた気がした。
街道を外れ、森へと分け入っていく。 頭上を覆う枝葉が、朝の光を幾重にも濾して落としてくる。ダンジョンの、あの人工的な静寂とはまるで違う。虫の声、葉擦れの音、遠くで鳥が羽ばたく気配――森そのものが、ひとつの生きた呼吸をしているようだった。
足元は絶えず変化する。ぬかるんだ窪み、根が絡み合う段差、朝露で滑る岩肌。石造りの通路を歩き慣れた足が、何度も小さくよろめいた。
「そんなにガチガチに踏まなくていいの。地面と喧嘩するんじゃなくて、合わせるの」
ニーナが軽やかに、木の根の隙間をひらりと越えていく。まるで最初から森の一部であるような足取りだった。
「合わせる、って言われても……」
「感覚よ、感覚。そのうち分かる」
要領を得ない答えに苦笑しながらも、僕は必死に彼女の足取りを目で追い続けた。
「依頼の内容、もう一回確認するぞ。採取対象は『銀葉草』、納品数は二十束。道中で襲ってくる小型モンスターは、見つけ次第間引いておけばそれだけで追加報酬だ」
オスカーさんが依頼書を軽く指で弾く。
「銀葉草って、どんな見た目なんですか?」
「葉の裏がうっすら銀色に光ってるやつ。日陰の湿った根元に群生してることが多いわね」
ニーナが屈み込み、足元の草をひょいと指差してみせる。なるほど、普通の下草とはまるで違う、粉を吹いたような輝きがそこにあった。
「見つけたら、根元から引きちぎらずに、鎌でスッと刈るの。……こう」
しゃっ、と小気味いい音が鳴る。鮮やかな手つきに、僕は思わず目を奪われた。ダンジョンで剣を振るう時とはまったく違う、器用で滑らかな仕事の手だった。
「僕もやってみます」
鎌を受け取り、握り直す。角度も、力の入れ方も、不思議と迷わなかった。祖母の畑で、何度も何度も繰り返してきた動きだ。剣とは違う、けれどずっと馴染んだ重み。 すぱりと、心地よい抵抗のなさで銀葉草が刈り取れる。
「――あ、思ったより簡単ですね」
「え、初見でそんなにスッと決まるもの? ……ああ、そっか。あんた、畑やってたんだっけ」
ニーナが感心したように片眉を上げる。
「はい。祖母の畑を、ずっと」
「へえ。剣より、案外こっちの方が地力あるんじゃない?」
からかうような声色に、僕はつい頬を緩めた。剣の腕はまだ拙いけれど、この手だけは、村にいた頃から鍛えられていたのだと思うと、なんだか少し誇らしかった。
そうして、僕たちは森の奥へと分け入りながら、無心に鎌を動かし続けた。 陽が高く昇るにつれ、腰に提げた麻袋はずっしりと重くなっていく。汗が滲む。虫に刺される。それでも、ダンジョンの刺すような緊張とは違う、のんびりとした心地よい疲労が身体に積もっていった。
陽が真上に近づく頃、オスカーさんの一声で休憩になった。 太い木の根に腰を下ろし、乾いたパンと干し肉を頬張る。硬いパンを噛みしめるたびに、麦の香りがゆっくりと口の中に広がった。
「森歩きで一番怖いのは、モンスターじゃねえ。天気だ」
不意にオスカーさんが切り出す。
「天気、ですか?」
「風の匂いが変わったら、それは雨が来る合図だ。土の匂いが濃くなる、鳥の声が急に消える――そういう小さな変化に気づけるかどうかで、命の危険度がまるで違ってくる」
「……剣の腕より先に、そっちを覚えた方がいいかもしれませんね」
「両方だ、坊主。片方だけじゃ、すぐに死ぬ」
にっと笑うオスカーさんの隣で、ニーナが干し肉を齧りながら小さく頷いていた。
「あたしも最初の頃、雨の匂いが分からなくて、思いっきりずぶ濡れになったことあるんだから」
「ニーナさんも、ですか」
「うるさい、黒歴史だから聞くな」
ぷいと顔を逸らす彼女に、僕とオスカーさんは思わず笑い合った。 それでも、その横顔をちらりと窺うと、ニーナはオスカーさんの背中を見つめる時だけ、少しだけ眩しそうに目を細めていた。ずっと追いかけてきた誰かの背中を、今も追いかけ続けている――そんな横顔だった。
短い休息の中で交わされる、他愛のない軽口。それでも、この一つ一つが、確かに僕の中に積み重なっていく気がした。
「――止まれ」
不意に、オスカーさんの声が低く落ちた。 空気が変わる。それだけで分かった。
茂みの奥、小さな影が幾つも蠢いている。灰褐色の毛並み、鋭く尖った牙。角の生えた小型の猪――牙猪と呼ばれる森のモンスターだ。
「三匹。数はいるが、大したことねえ相手だ。ニーナ、右から二匹頼む。坊主は俺と一匹だ」
「はい!」
刈っていた鎌を仕舞い、剣を抜く。牙兎とは違う、もっと重く、もっと直進的な突進力を持つ獣。それでも、震えはなかった。
「来い」
低い呼気とともに、牙猪が地を蹴った。 最短の軌道を思い出す。脇を締め、腰を落とし、切っ先を最も効率のいい線に乗せる――オスカーさんに、何十回、何百回と叩き込まれた動きだ。
ガッ、と衝撃が腕を伝った。刃が獣の頸を捉える。一撃で仕留めるには至らなかったが、体勢を大きく崩した猪へ、オスカーさんの大剣が容赦なく振り下ろされた。
反動で数歩よろめきながらも、僕はすぐに体勢を立て直す。牙猪の突進の重さは、牙兎とは比べ物にならなかった。骨まで響くような衝撃に、握った剣の柄がじんと痺れている。
「詰めが甘い。だが、悪くない踏み込みだったぜ」
短い賞賛。それだけで、胸の奥が熱くなる。
少し離れた場所では、ニーナの細剣が二匹の牙猪を軽やかに翻弄していた。しなる剣線が、まるで踊りのように獣の意表を突き続ける。最後の一匹が地に沈む頃には、彼女の額にもようやく汗が浮かんでいた。
「――ふう。この程度なら、まだ余裕ね」
剣を払い、不敵に笑うニーナ。その笑顔に、僕もつられて頬を緩めた。
「さ、日が暮れる前に戻るぞ。銀葉草もあと少しで数が揃う」
オスカーさんの声に、僕たちは頷き、再び鎌を手に取った。
夕暮れ近く、麻袋いっぱいの銀葉草と、討伐した牙猪の証となる牙を手に、僕たちは森を後にした。西の空を赤く染める太陽を背に、フェルンハイムの灯りが遠くに見え始める。
「お疲れ様。今日はよくやったわね、二人とも」
門で待っていたセレスティアさんが、駆け寄るように出迎えてくれた。土と汗で汚れた僕の顔を見て、けれどその表情はどこまでも柔らかい。
「初めての遠征、どうだった?」
「……楽しかったです。ダンジョンとは、また違う怖さと、違う楽しさがありました」
「そう。それが分かったなら、今日はもう十分よ」
夕陽に染まる街並みを歩きながら、僕は今日一日の疲労と、確かな充実感を同時に噬み締めていた。剣を振るうことだけが、強さの証明じゃない。銀葉草を刈る手の感覚も、仲間と息を合わせて獣を狩る駆け引きも、きっとすべてが、この世界で生きていくための糧になっている。
拠点に足を踏み入れると、厨房から立ち上る出汁の匂いが鼻先をかすめた。
「おかえりぃ! 森はどうだった?」
カウンターから顔を出したバルトさんが、待ちきれないとばかりに声を張る。
「牙猪を三匹倒しました。あと、銀葉草もちゃんと納品できるくらい採れました」
「へえ、上出来じゃない」
奥の椅子でくつろいでいたロズリーンさんが、ワイングラス片手にひらひらと手を振った。
「今日の収穫、ちゃんと換金しておいてよね。うちの懐、あんたが思ってるより寂しいんだから」
「それ、装備を買った時にも聞きました」
「毎日言っても足りないくらいなの」
からからと笑うロズリーンさんの隣で、クレアさんが僕の手のひらの擦り傷にそっと目を留める。
「傷、増えてるじゃない。今晩、ちゃんと手当てさせてもらうわね」
「あ、はい。お願いします」
クレアさんの指先が、そっと僕の手のひらに触れる。柔らかく、労わるような温かさに、思わず頬が熱くなった。
「わ、痛かった? ごめんなさいね」
「い、いえ! 全然痛くないです、大丈夫です!」
慌てて返す声が、みっともなく裏返る。それを見逃すはずのないロズリーンさんが、にんまりと口角を上げた。
「あら、顔真っ赤じゃない。クレアに触られたくらいでそんな反応するなんて、ヴェルディくんも案外可愛いとこあるのねぇ」
「そ、そんなことないです……!」
「隠さなくていいのに。ほら、もっとよく見せてみなさいって」
からかうように距離を詰めてくるロズリーンさんに、僕はますます言葉を失う。
「――ちょっと!」
不意に、鋭い声が割り込んだ。ニーナが、勢いよく席を立っている。
「ロズリーンさん、いい大人が新人からかって遊ぶのやめてくれます? 見てるこっちが恥ずかしいんですけど」
「あら、手厳しいわね。ニーナちゃんも最初の頃、からかわれるとすぐ真っ赤になってたのに」
「そ、それは昔の話でしょ!」
ムキになって言い返すニーナに、ロズリーンさんは肩をすくめて「はいはい」と笑うだけだった。それでも矢面に立ってくれたことに、僕は密かに救われる。
「――ぶはっ! 相変わらず世話焼きだな、ニーナ!」
厨房からバルトさんの豪快な笑い声が響き、賑やかな夕食は、いつまでもその笑いに包まれていた。
にぎやかな声に包まれながら、僕は椅子に腰を下ろす。今日一日の疲労が、少しずつ溶けていくようだった。
ひとりで畑仕事をしていた頃の自分に、今日という一日を見せてやったら、どんな顔をするだろう。そんなことを考えながら、僕は温かなスープに口をつけた。




