第4話 二人の誓い
木剣を振り続け、泥にまみれる基礎稽古を始めてから、ちょうど一週間が経った夜のことだった。
夕食を終え、身体中に残る熱と鈍い痛みを引きずりながら自室へ戻ろうとした僕を、背後から柔らかな声が呼び止めた。
「ねえ、ヴェルディくん。ちょっとだけ付き合ってもらえないかしら」
「え……僕でよければ」
振り返ると、セレスティアさんがいたずらっぽく微笑んでいた。
促されるまま拠点の裏手へと回ると、そこには壁に立てかけられた古い梯子があった。身軽な足取りでするすると先に登っていくセレスティアさんの後を追い、軋む梯子を登りきる。そこにあったのは、小さな屋根裏の物干し場のような空間だった。
「ここ、私のお気に入りの場所なの。フェルンハイムの夜景がよく見えるでしょう?」
言われて視線を前に向けた瞬間、思わず息を呑んだ。
眼下に広がる街の灯りが、遠く暗闇の中にそびえる迷宮の入り口まで、点々と光の河のように連なっている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、吹き抜ける涼しい夜風が、稽古で火照った僕の頬を優しく撫でていった。
「稽古、順調そうね。オスカーがちょっとだけ機嫌よかったから、なんとなく分かったわ」
「あの人、僕の前じゃ全然褒めてくれないですけどね……」
「ふふっ、あの人なりの褒め言葉って、本当に分かりにくいのよね」
くすりと笑うセレスティアさんの横顔は、いつも通りの、おっとりとした優しいマスターの顔だった。
けれど、ふいに二人の間に沈黙が落ちる。
夜風が彼女の金の髪をかすかに揺らし、その瞳が遠くの夜景――どこまでも広がる街の光の先を見つめて、すっと細められた。
「このクラン、昔はもっと大きかったのよ。先代――私の親の代はね」
静かな、けれどどこか胸を打つ響きを持った声だった。初めて耳にするクランの過去に、僕は思わず息を殺し、姿勢を正した。
「今よりずっと有名で、人数も多くて。……でも、ある時を境に、潮が引くようにみんな離れていってしまったわ」
その声音には、怒りも、誰かを責めるような刺々しさもなかった。
ただ、受け止めるしかない事実として抱えてきたような、底のない静けさがあった。詳しい事情までは彼女は語ろうとしない。それ以上踏み込んではいけない聖域のような気がして、僕はただ黙って、隣でその横顔を見つめることしかできなかった。
しばらく遠くの灯りをじっと眺めていたセレスティアさんは、ふっと小さく息を吐くと、僕を振り返って柔らかく笑った。
「でもね、過去を振り返ってばかりいても、何も戻ってこないもの。だったら、これから積み上げていくしかないじゃない」
――その言葉が、まっすぐに、僕の胸の奥底へ突き刺さった。
数字がゼロから始まった僕自身の歩みと、重なったからかもしれない。失ったものを嘆くのではなく、ただ前を向いて一段ずつ足元を固めていく彼女の強さが、痛いほど眩しかった。
「あの……」
ずっと胸の奥につかえていた問いが、自然と口をついて零れ落ちていた。
「聞いても、いいですか。どうして……あのとき、僕をスカウトしてくれたんですか? 他の人は、誰も見向きもしてくれなかったのに」
ギルドの前で途方に暮れていた、何の力もない僕。なぜ拾ってくれたのか。
ずっと聞きたくて、怖くて聞けなかった問いに、セレスティアさんは少し困ったように眉尻を下げた。
「正直に言うとね、私にも、はっきりとは説明できないの。ただ――『なんとなく分かる』としか言いようがなくて」
「それって……」
「私の直感スキル。理由なんて、私自身にも分からないわ。……でも、あの時、あなたを見た瞬間、確信したのよ。あなたは、とんでもないところまで行く、って」
根拠なんて、どこにもない。
けれど、そう言い切った彼女の横顔からは、いつものおちゃめな空気が完全に消え失せていた。魂の奥深くまで見通すような、凛としたクランマスターとしての鋭さと、絶対の熱が宿っていた。
「だから、あなたのことは、ちゃんと見てるつもり。稽古がどれだけキツくても、数字が思うように伸びなくても――私はあなたを信じてる」
夜風に吹かれながら、まっすぐに僕を見据えて放たれたその言葉。
柄にもなく、目の奥がツンとして、喉の奥が熱くなる。
嬉しいと同時に――胸の奥が、痛むほど軋んだ。
信じてくれている。
けれど、僕には期待される資格なんて何もないんじゃないか。
この人にだけは、嘘をつきたくなかった。みっともない自分の現実も、ずっと胸の奥底に隠してきた身の程知らずな本音も、この人にはすべて曝け出さなきゃいけない気がした。
「……僕、祖母に育てられたんです」
気づけば、ぽつりと口から言葉が零れ落ちていた。
「田舎で、ずっと二人暮らしでした。その祖母が亡くなって……生活のために、ただ食べるために冒険者になるしかなくて。生きるためだけに街へ出てきた、ただの食い詰めたガキなんです」
膝の上のズボンを、指先が白くなるほど強く握り締める。
ここから先を口にすれば、きっと呆れられる。初日に牙兎の前で膝をついた初心者が、何を寝言を言っているんだと笑われるに決まっている。
それでも、止まらなかった。
「でも……それだけじゃ、ないんです」
息を吸い込み、震える声で絞り出す。
「子供の頃、祖母が聞かせてくれたおとぎ話みたいに……あの、闇を切り裂く英雄になりたいって気持ちも、ずっと、どこかにあって。生活のためなんて言い訳しながら、そんな子供みたいな夢を、心の底でずっと捨てきれずにいるんです」
言ってしまった。
言ってはいけない、恥ずかしい本音。
身を縮こまらせ、拒絶を恐れて俯いた僕の耳に――驚くほど柔らかで、優しい声が降ってきた。
「素敵じゃない、それ」
ハッとして顔を上げると、セレスティアさんが優しく目を細めていた。からかう色なんて微塵もない、心からの笑みだった。
「まだ、何にもなれてないですけどね」
「今はね。でも――」
セレスティアさんは、いたずらっぽく笑った。
「積み重ねていけば、きっと届く。私が保証するわ」
相変わらず、何の根拠もない言葉だった。
それでも彼女の言葉は、不思議なくらい、すとんと胸の空洞に落ちてきて、そこを温かな熱で満たしていく。この人が保証してくれるなら、本当にどこまでだって行けるんじゃないかと――心の底からそう思えてしまうのだ。
「――ねえ、ヴェルディくん」
ふいに、セレスティアさんが僕の方へ真っ直ぐに向き直った。夜風に髪をなびかせながら、いつものおちゃめな気配はすっと鳴りを潜め、そこにあったのは、ただ真剣な眼差しだけだった。
「一つだけ、約束してほしいことがあるの」
「約束、ですか」
「ええ。どんなに数字が伸び悩んでも、どんなに稽古が辛くても――絶対に、一人で抱え込んで勝手にいなくなったりしないで。ここが、あなたの帰る場所なんだから」
その声の奥には、いつもの軽さでは隠しきれない切実さが滲んでいた。まるで、誰かを一度失ったことがあるかのような――そう思わせるだけの重みが、確かにそこにはあった。
「……はい」
気づけば、迷いなくそう答えていた。
「約束します。これから先、どれだけ辛くても、ここに帰ってきます」
「うん」
セレスティアさんは、ほっとしたように、けれどどこか泣き出しそうな顔で笑った。
「じゃあ、私も約束する。あなたがどこまで行っても、ここは変わらずあなたの帰る場所であり続ける。……私が、そう決めたんだから」
差し出された小指に、僕はおずおずと自分の小指を絡めた。子供じみた指切りだと分かっていても、それ以上に確かな約束の形が、他には見つからなかった。
「――誓いました、ってやつですね」
「そ。誓いを破ったら、針千本よ」
いたずらっぽく笑うセレスティアさんに、僕もつられて笑ってしまう。けれど、絡めた小指から伝わる体温だけは、いつまでも消えなかった。
夜景を眺めながら、しばらく僕たちは言葉を交わさずにいた。
気まずさなんて欠片もなくて、ただ静かで、心地のいい夜風だけが僕たちの間を通り抜けていく。
「――さ、そろそろ戻りましょうか。明日も稽古なんでしょう?」
「はい。よろしくお願いします」
物干し場をあとにし、軋む梯子を一段ずつ降りながら、僕は胸の中でさっきの言葉を何度も、何度も反芻していた。
帰る場所がある。
信じてくれる人がいる。
泥にまみれるだけの日々だっていい。明日からの過酷な稽古も、その先にあるすべての一歩も、きっと乗り越えられる――胸の奥に宿った確かな熱を感じながら、僕は自分の部屋へと歩き出した。




