第3話 基礎訓練
夜明け前。 まだ夜の帳が迷宮街の屋根を重く覆い、世界が冷たい沈黙に沈んでいる頃――僕は跳ね起きるように目を覚ました。
ドクン、ドクンと、昨晩から心臓がうるさい。 『明日からは、俺が直々に叩き込んでやる』 あの歴戦の戦士が放った獰猛な笑みと、地鳴りのような一言。その熱が頭にこびりついて、眠りすら浅く弾き飛ばされてしまったのだ。
身支度を整え、軋む木床を踏んで裏庭へと出る。 朝露に濡れた濡れ草の匂い。肌を刺すような、凛とした凍てつく空気。 そして――。
――ブンッ。
空気を両断する、低く重い風切り音。 まだ薄暗い庭の中央、すでにそこに立ち、木刀を一心に振るう巨躯があった。
「おう。早いな」
「え……僕が一番乗りだと思ってたんですけど」
「馬鹿言え。弟子より遅く起きてくる師匠がどこの世界にいる」
オスカーさんは肩を回しながら、足元に転がっていたもう一本の木剣をつま先で跳ね上げ、無造作に放り投げて寄越した。 慌てて両手で抱きとめる。 ――ずしり。 掌に食い込む、ずっしりとした無機質な重量感。粗削りの樫の木肌が、手のひらの皮を削るように冷たかった。
「今日から、そいつを使う」
「木剣、ですか。……てっきり、自分の鉄剣で稽古するのかと」
「身の程を知れ。基礎もできてねえ奴が本物を振り回しゃ、自分の指を切り落とすのが関の山だ。まずはそいつを、血肉になるまで身体に刻み込め」
昨日までの僕なら、木剣なんて子供の玩具だと不満を抱いていたかもしれない。もっと劇的に、もっと一瞬で強くなれる秘訣があるはずだと、甘えた幻想を抱いていたはずだ。 けれど、昨日の神殿で思い知った。 積み上げたものしか、力にはならない。 僕は木剣の柄を握り直し、迷いなく頷いた。
「よし。まずは構えてみろ」
息を吸い、言われるがままに両手で柄を握りしめ、腰を沈める。 背筋を伸ばし、切っ先をオスカーさんの喉元へ向ける――自分の中では、それなりに隙のない構えのつもりだった。
「…………ダメだな。話にならん」
吐き捨てられた容赦のない断言。
「えっ」
「肩に無駄な力が入りすぎてガチガチだ。そんな構えじゃ、一振り目で息が切れ、二振り目で腕が死ぬ。それにその握り方――敵の刃を受け止めた瞬間、手首の骨が粉微塵だぞ」
オスカーさんが背後に回り込む。 次の瞬間、分厚く、タコだらけの巨大な両手が、僕の手の上から覆いかぶさってきた。
「力を込めろ。……ただし、ここと、ここだけだ。小指と薬指を締めろ。あとの指は、風を通すように添えるだけでいい」
「こんな……緩い握り方で、本当に大丈夫なんですか?」
「力任せに振り回すのは、ただの素人の腕相撲だ。剣ってのはな、正しい握りで、正しい軌道を通せば――振るうんじゃねえ、勝手に走り、勝手に敵を断つもんなのさ」
手首の角度をほんの数ミリ直され、肩の力を抜かれた瞬間。 ――軽くなった。 あんなに重かった木剣の重心が、まるで自分の腕の延長線上にすっと収まったかのような錯覚。 昨日まで、自分がどれほど無駄な力みで自分の首を絞めていたのかを、身体の芯で思い知らされた。
そこから先は、文字通りの地獄だった。
構え。 振り下ろし。 足運び。 そしてまた、構え。
「肘が開いてる! 脇を締めろ!」 「軸がぶれた! 腹に力を込めろ!」 「目線を落とすな! 敵の喉元を喰い殺すつもりで見据えろ!」
華やかさなんて欠片もない。派手な必殺技でも、英雄の奥義でもない。 神経を削るような、気が遠くなるほど泥臭い指摘の嵐。
陽が高く昇る頃には、全身の毛穴から汗が噴き出し、視界が白く霞んでいた。 手のひらの皮が擦り切れ、滲み出た血と汗が木肌を滑らせる。激痛が走るたびに、指先がピキピキと痙攣した。鉛のように重くなった両腕は、持ち上げようとするだけで悲鳴を上げる。 それでも、背後からの怒号は止まらない。
「――もう一回!」
「っ……あ、あの……これ、いつまで続けるんですか……!?」
情けなく掠れた声で喘ぐ僕を、オスカーさんは腕を組んだまま、冷徹な仁王のような瞳で見下ろした。
「お前の魂が、納得するまでだ」
「なっ……納得なんて、まだ欠片も……っ!」
「当たり前だ。たった半日で何かが掴めるなら、世の中みんな英雄になってる」
オスカーさんはフッと、獰猛な口元をわずかに緩めた。
「だがな。今の一振り――昨日の朝より、確実に刃の筋が通ってたぜ。俺の目は誤魔化せねえよ」
ドクン、と胸の奥が跳ねた。 焼き切れる寸前だったはずの筋肉の底から、なぜか、熱いものが湧き上がってくる。
「――にしても。朝っぱらから、気の遠くなるような地味なことやってるわね」
ふいに響いた澄んだ声。 井戸の滑車を引いていたニーナが、水桶を抱えたまま、こちらをじっと眺めていた。
「……見てたんですか」
「まあね。ま、あんたの最初の構え、生まれたての小鹿みたいだったから。今は……そうね、ようやく二足歩行を覚えた猿くらいにはなったんじゃない?」
「言い方……!」
憎まれ口を叩きながらも、その瞳にはどこか懐かしむような色が滲んでいた。
「あたしも昔、あのゴリラに徹底的にシバかれたクチだからさ。……分かるっての、その顔」
「どんな顔ですか」
「『こんな地味な素振りばっかりやって、本当にあのモンスターたちに勝てるようになるのかよ』って――焦って、腐りかけてる顔」
――っ。 喉元を突かれたように、言葉が詰まる。 見透かされていた。少しでも早く強くなりたいと、焦燥に追われていた自分を。
「あの、ニーナさんは、いつから冒険者やってるんですか?」
素振りの手を止め、僕は思い切って尋ねてみた。
「あたし? まだ半年くらいよ。この見た目で意外と新人なの」
「半年……それでもう、そんなに動けるんですね」
「オスカーに仕込まれたからね。……ま、ここに住んでたのは、その前からだけど」
「え、住んでたって……冒険者になる前から、このクランに?」
「あ、言ってなかったっけ。あたし、オスカーの姪なのよ」
「――え!? 姪って、血縁の姪ですか!?」
「そんな驚くこと? 小さい頃から、ちょくちょくこの拠点に出入りしてたの。冒険者になったのは、ようやく半年前ってだけ」
さらりと明かされた事実に、僕は少し驚いた。まさか血の繋がった姪だったとは思わず、しかも冒険者としての付き合いより先に、家族としてこの場所を知っていたのだと知ると、彼女がこの拠点に向ける眼差しの意味が、少しだけ違って見えてくる気がした。
「なんか、意外でした。てっきり、冒険者になってすぐこの拠点に来たのかと」
「あたしにとっては、冒険者になる前からずっと、ここが家みたいなもんだったのよ」
そう言って、ニーナはくすりと笑うと、木桶を抱え直して背を向けた。
「無駄じゃないっての。……あのゴリラの言うことだけは、信じていいんだから」
軽やかな足取りで厨房へ去っていく少女の背中。 僕は奥歯を噛み締め、剥けかけた掌の痛みをねじ伏せて、もう一度木剣を握り直した。
奇跡なんて起きない。一瞬で世界を変える魔法なんてない。 けれど――今朝より確実に、僕の手の中にある剣は軽くなっている。 その確かな重みだけを道標にして、僕は切っ先を突き出した。
「……もう一回! お願いします!」
「おうッ! そのツラだ!」
ガラン、と快音を響かせ、再び裏庭に風を裂く音が木霊した。
それから数日。僕の世界は、白銀と木剣の軌道だけで満たされた。
朝から晩まで、構え、素振り、足運び。 何千回、何万回。手のひらの皮は破れては血を流し、硬いタコとなって筋肉にへばりついていく。 いつしか、意識せずとも足が地面を掴み、脱力した腕が自然と美しい放物線を描くようになっていた。容赦のない怒号の回数は、日を追うごとに確実に減っていった。
そして――五日目の朝。
「――よし。今日からは次の段階だ」
オスカーさんが、自らの手に一本の木剣を提げて僕の正面に立った。
「次の、段階……?」
「実戦だ。俺が相手をしてやる。安心しろ、ただ胸を貸すだけだ。本気でミンチにはしねえよ」
そう言って獰猛に笑った男から、ゾクリと背筋を這い上がるようなプレッシャーが放たれた。 構えてすらいない。ただ木剣を下げて立っているだけ。 それなのに――どこにも、踏み込める隙間が見当たらない。大岩が、山が、巨大な壁となって僕の視界を圧殺している。これが――Lv.3の怪物。
「来い。遠慮すりゃ死ぬぞ」
「ッ――!」
咆哮とともに、泥を蹴った。 教わった通りの踏み込み。脇を締め、最短の軌道でオスカーさんの肩口へ振り下ろす――!
――バツンッ!!
「ぐあぁっ!?」
乾いた衝撃音とともに、僕の身体は宙を舞っていた。 打ち込んだはずの木剣は軽々と弾かれ、体勢を崩したところへ、オスカーさんの空いた左手が胸板を小突く。それだけで、泥の上に無様に転がされた。
「甘い。もう一回!」
立ち上がる。打ち込む。弾かれる。 また転がる。 もう一回。もう一回。もう一回――!
息が肺を焼き、心臓が肋骨を突き破りそうに暴れる。泥にまみれ、擦りむいた膝が痛み、視界が涙と汗でぐちゃぐちゃになる。 それでも、オスカーさんの「もう一回」だけが、僕の魂を立たせ続けた。
弾かれ続けた。 五十本。百本。二本の木剣が打ち合わされるたび、僕の脳裏から余計な雑音が消えていく。 ――もっと鋭く。もっと速く。 無駄を削げ。力を抜け。最短の軌道を走らせろ。 牙兎の恐怖も、ステータスの数字も、すべてを忘れて――ただ、目の前の巨大な壁を越えるためだけに、全神経を研ぎ澄ます。
そして――。
沈み込む足、地面を噛む爪先。 脱力した右腕が、鞭のようにしなった。
――ヒュンッ。
カチ、と微かな擦過音が鳴った。
オスカーさんの木剣をすり抜け、僕の木剣の切っ先が――ほんの数ミリ、男の胸元のシャツの布地を掠め取っていた。
「…………っ」
時が止まった。 風が吹き抜ける。荒い自分の呼気だけが、凍りついた空間に響く。 オスカーさんが、目を見開いていた。 自分の胸元と、僕の構えた木剣を見比べ――そして、豪快に口の端を吊り上げた。
「――ハッ。悪くねえ」
「え……?」
「無駄な振りかぶりが消えた。踏み込みのタメが一拍消え失せた。……教えたことが、ようやくテメエの血肉になった証拠だ」
ズシリと、その言葉が胸の底に落ちてきた。 掠めただけだ。ダメージなんて何ひとつ与えていない。 けれど――届いた。 あの絶対的な壁に、僕の剣が、確かに触れた。
五日間の泥臭い反復。擦り切れた掌。全身の激痛。 そのすべてが、この一瞬の「掠り傷」のためにあったのだと分かった瞬間、喉の奥から熱い塊が込み上げてきた。
夕陽が沈み、裏庭が茜色に染まる頃。 全身泥だらけで、指一本すら持ち上がらない僕を見下ろしながら、オスカーさんは木剣を放り投げた。
「今日はここまでだ。……ま、滑り出しにしちゃ上出来すぎだぜ、ヴェルディ」
ぶっきらぼうな、けれど誤魔化しようのない賞賛。 男が差し伸べてきたゴツゴツとした巨大な右手を、僕は震える手で握り返した。 皮の剥けた掌が擦れ合い、鋭い痛みが走る。 けれど、その痛みこそが、僕が今日を生き抜き、前へ進んだ何よりの証拠だった。
「明日も……よろしくお願いします、師匠」
「おうよ。死ぬ気でついてこい」
地味で、過酷で、誰にも称えられない泥まみれの積み重ね。 けれど、あの日地面に這いつくばった僕は――今、確かに自分の足で、あの一歩先の高みへと歩みを進めていた。




