第2話 クランメンバー
――迷宮街フェルンハイム。
迷宮の冷涼な静寂を抜け出した僕を待っていたのは、鼓膜を震わせる圧倒的な熱気と喧騒だった。
カンカンと高く響く鍛冶屋の槌音。
所狭しと並べられた無骨な大剣や盾。
露店からもうもうと立ち上る、肉汁の焦げる暴力的なまでの香ばしい煙。
冒険者ギルドの前では、貼り出されたばかりの討伐依頼の羊皮紙を巡って、筋骨隆々の荒くれ者たちが唾を飛ばし合いながら怒鳴り散らしている。
「いい、ヴェルディ? ちゃんと覚えときなよ!」
先を歩くニーナが、風を切るように翻したマントの裾を押さえながらビシッと指を差す。
「あそこが冒険者ギルド! で、あの角を曲がった先に武具屋があって、その裏路地を抜けた突き当たりが道具屋! ……はい、覚えた!?」
「無茶言わないでください! 一回で覚えられるわけないでしょう!?」
「だよねー! ま、そのうち血反吐吐きながら嫌でも叩き込まれるって!」
あっけらかんと笑い飛ばすニーナ。案内というより、自分が夕方の街の風を浴びてはしゃぎたいだけなんじゃないだろうか。
けれど、くるくると表情を変えながら小走りで進む彼女の背中を追うのは、驚くほど息苦しさを感じさせなかった。
「にしてもさぁ。初日であそこまで無様に転がる奴、あたし初めて見たんだけど」
「うっ……その話、まだ引っ張るんですか……」
「引っ張るに決まってんでしょ! だってお腹痛いくらい傑作だったもん! あーんなちっこい牙兎相手に、生まれたての小鹿みたいにプルプル震えちゃってさ!」
意地の悪い三日月のような笑みを浮かべ、これ見よがしに両手で小刻みな震えを再現してみせる。
くそっ、腹が立つ。顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
昨日までの僕なら、ただ惨めさに唇を噛んで俯くだけだったはずだ。けれど、今は――。
「……でもニーナさん」
「ん?」
「ニーナさんだって、最初の初陣の時、モンスターの前で派手にすっ転んで号泣したって聞きましたけど」
ピキリ、と空気が凍りついた。
「――は? 誰よ、それ吹き込んだの」
「オスカーさんです。『あいつの初陣はそりゃあ見事な五体投地だった』って、嬉しそうに」
「あの大っっっ馬鹿野郎がああああああっ!!」
夕暮れの通りにニーナの絶叫が木霊した。
耳まで真っ赤に染め上げ、腰の細剣の柄をガシガシと親指で弾いている。完全に沸騰している。
「余計なことばっかりベラベラと! 戻ったら絶対に脛蹴っ飛ばしてやるんだから! あいつの泣きっ面を神殿に捧げてやるぅ!」
「あはは……!」
堪えきれずに吹き出す僕を見て、ニーナは般若のような顔で睨みつけてきたけれど――最後には、毒気を抜かれたように「もうっ!」と笑い崩れた。
言い合って、笑い合って、それで終わり。
胸の奥が、じんわりと温かい。
こんな風に誰かと肩を並べて軽口を叩き合える場所があるなんて、ほんの数日前の僕には、夢想することすら許されなかった日常だった。
赤銅色の夕陽が沈み、群青の帳が降りる頃。
僕たちはようやく、拠点の門をくぐった。木造のあたたかな建物の隙間から、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂ってくる。
木製の扉を押し開けた瞬間、怒号のような歓声が鼓膜を叩いた。
「おうッ! 遅かったじゃねえか! ちょうどいいところだ、飯の準備はバッチリだぞオラァ!」
厨房のカウンターからぬっと突き出されたのは、筋骨隆々の腕と、熊のように分厚い体躯。額のバンダナに油煙を纏わせた大男が、白い歯を剥き出しにして豪快に笑っていた。
「バ、バルトさん……ですよね。今日からよろしくお願いします」
「おうよ、新入り! 堅苦しい挨拶なんざ胃袋に流し込んじまえ! 今日はめでてえ初更新の祝いだ! オレの特製を腹裂けるまで詰め込んでけ!」
ドンッ、と食堂の長テーブルに置かれたのは、湯気とともに黄金色の脂を揺らす大鍋のシチュー。立ち上る濃厚なミルクとバターの香り、そしてとろけるまで煮込まれた肉塊の甘い匂い。
――グウゥゥ、と情けない音が僕の腹から盛大に響いた。
「ふふっ、いい返事ね。ヴェルディくん、こっちこっち」
テーブルの奥でひらひらと優雅に手を振っていたのは、艶やかな笑みを浮かべた女性だった。
「ロズリーンさん、ですね」
「ええ。噂の可愛い新人くん。……ふぅん? 思ったよりいい眼をしてるじゃない。捨てられた仔犬みたいに怯えてるかと思ったのに」
まるで獲物の品定めをするような妖しい視線。思わず背筋が伸びて愛想笑いを浮かべてしまう僕に、彼女はワイングラスを揺らしながら身を乗り出してきた。
「ねえねえ、今日の更新の数値、あたしにも見せてくれない? ほら、クランの『経理』として、新人の戦力動向は把握しておかないといけないし?」
「えっと……経理にステータスって、関係あります……?」
「ないわよ? 単に知的好奇心。男の子の魂の奥を覗いてみたいだけよ」
「堂々と職権濫用しないでください……!」
「あら、減るもんじゃないでしょ〜?」
からからと喉を鳴らして笑うロズリーンさんに、たじたじになる僕。
すると、その隣から澄んだ、鈴を転がすような優しい声が割り込んだ。
「もう。あんまり新入りさんをいじめないであげて、ロズリーン」
「クレアさん……!」
柔らかな亜麻色の髪を揺らし、聖母のような慈愛の笑みを浮かべるクレアさん。救世主を見る思いで視線を向けると、彼女は僕の肩のあたりを覗き込んで、ふっと眉を下げた。
「怪我の具合はどう? 包帯、巻き直した方がいいかしら」
「あ、大丈夫です! クレアさんの治療のおかげで、もうほとんど痛みません!」
「よかった。でも、無理は絶対に禁物よ? 若い男の子って、ちょっと数字がついただけで無敵になった気配を出して無茶をするんだから」
ギクリ、とテーブルの端で大剣の柄を磨いていたオスカーさんの肩が跳ねた。
あの歴戦の大男が、クレアさんの柔らかい笑顔に怯えるように「へいへい……」と視線を逸らしている。このクランの絶対的な力関係が、なんとなく見えた気がした。
「コホンッ!」
その時、上座についたセレスティアさんが、わざとらしく胸を張って咳払いをした。一同の視線が集まる。
「みんな、揃ったわね。それじゃあ、クランマスターとして一言挨拶をさせてもらおうかしら」
全員が静まり返る。
いつになく真剣な、どこか厳粛な眼差し。彼女がすっと背筋を伸ばすと、それだけで空気が凛と引き締まる。
「ヴェルディくん、初めての神殿、そして最初のステータス更新、本当におめでとう。この《新緑の剣》へようこそ。あなたの歩む一歩が、いずれ私たちの希望とならんことを――」
「あ、セレスティアさん、シチューのスープ袖にガッツリ浸かってます」
「――えっ!? うそ、いやぁぁぁ熱い熱い!? ちょっと、なんで今言うのよヴェルディくんんんんっ!?」
ドタバタと立ち上がり、ビシャビシャになった袖を必死に振り回すセレスティアさん。
張り詰めていた空気が、風船が弾けたように一瞬で霧散した。
「ぶはっ! だっははははは! マスター、相変わらず締まらねえなぁ!」
「もう! せっかく格好いいとこ見せようとしたのにぃ!」
大爆笑するバルトさんに、肩を震わせてツボに入っているニーナ。
クレアさんは「もう、子供みたいなんだから」と苦笑しながら布巾を差し出している。
僕も――堪えきれずに、腹を抱えて笑ってしまった。
威厳に満ちたクランマスターの顔と、救いようのないドジっ子の顔。そのどちらもが嘘偽りなく同居しているのが、どうしようもなくこの人らしくて、愛おしい。
湯気と、嬌声と、温かな笑い声。
運ばれてきたシチューを口に運ぶと、濃厚な旨味が身体の隅々まで染み渡っていく。
たった一日前まで、僕は暗闇の中でひとりぼっちだった。明日の生き方すら分からず、ただ恐怖に怯えていたはずだった。
それが今では、こんなにも騒がしく、温かな場所にいる。牙兎に這いつくばった屈辱も、祭壇で突きつけられたちっぽけな数字の現実も、ここにある柔らかな熱気の中へと溶けていくようだった。
「――ヴェルディ」
骨付き肉を豪快に噛み砕きながら、オスカーさんが低く、獰猛な声を響かせた。
黄金色の双眸が、狩人の鋭さで僕を射抜く。
「明日からは、俺が直々に叩き込んでやる。……覚悟はできてるんだろうな?」
息が止まりそうになるほどの威圧感。
けれど、その奥にあるのは嘲笑ではなく、真正面から僕という存在を鍛え上げようとする戦士の熱量だった。
「はい……! 望むところです!」
自然と、声が張っていた。
すると、隣からすかさず意地悪な茶々が入る。
「あーあ、言っちゃった。その威勢のいい台詞、三日後には涙と鼻水でグチャグチャになって撤回してるに銅貨百枚賭けるし」
「泣きません! 絶対に泣きませんから!」
「どうだか! あたしだってあの地獄の特訓の初日、裏庭で泣いたんだからね!」
「……あ。それ、自分で僕に言っちゃっていいんですか?」
「あ」
ニーナがピタリと動きを止めた。
目を見開き、自分の口を両手で塞ぐ。
カアァァァッ、と頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして固まる少女に、テーブル全体が静まり返り――。
「ぎゃははははははッ!! ニーナ、てめえ自分からゲロしやがったぞ!!」
「あらら〜、可愛いとこあるじゃないニーナちゃん?」
「う、うるっさい! 聞かなかったことにしてよヴェルディィィッ!」
ドタバタと暴れるニーナの頭をオスカーさんが大笑いしながら小突き、バルトさんが特大の肉料理を次々と卓上に叩きつけていく。
窓の外を見上げれば、迷宮街の夜空に冷たく冴え渡る月が浮かんでいた。
けれど、この部屋の明かりは、いつまでも消えることなく灯り続けていた。
宴が終わり、あてがわれた自室の簡素なベッドへ倒れ込む。
ギシ、と軋むシーツの感触。
途端に、今日一日の出来事が、濁流のように胸の奥へと押し寄せてきた。
二階層の荘厳な祭壇。
網膜を焼いた、小さくて、けれど確かに刻まれた僕だけの数字。
賑やかな通りを歩きながら交わした、くだらない軽口。
そして――あの、胸が焼けるほど温かかった食卓。
右手を持ち上げ、月明かりにかざしてみる。
まだマメだらけで、剣を握れば震えてしまうような頼りない掌。
世界から見れば、吹き飛ばされるほどちっぽけな、何者でもない僕。
けれど。
(……僕は、ここにいる)
帰る場所がある。
笑い合える仲間がいる。
信じて背中を押してくれる人がいる。
「明日から、か……」
ぎゅっと、右手を握り締める。
オスカーさんの特訓がどれほど過酷なものか、想像するだけで足が竦みそうになる。
けれど――怖いんじゃない。
恐怖を塗り潰すほどに、奥歯が疼くようなワクワクした高揚感が、僕の全身を支配していた。
強くなりたい。
あのみんなの隣に、胸を張って立っていられるくらいに。
静かな夜の闇の中、僕は確かに笑っていた。
僕の魂に灯った小さな火は、もう二度と、消えそうになかった。




