第20話 牙に届かない
二度目の跳躍は、一度目よりもさらに速かった。
視界の端が白く霞む。躱しきれないと悟った瞬間、僕は剣を横に薙ぎ、速度を殺すことだけに集中した。
――ガッ!
衝撃で体が吹き飛ぶ。背中を壁に叩きつけられ、肺の中の空気が一瞬で抜けた。
「っ、は……ッ」
咳き込みながらも、すぐに体を起こす。止まれば、終わる。それだけは、本能のレベルで理解していた。
獣は、追撃を急がなかった。距離を取り、紫の瞳でじっと僕を観察している。まるで、僕がどこまで立ち上がれるのかを、試しているかのようだった。
「……舐められてる、な」
掠れた声で呟き、僕は剣を構え直した。腕から流れる血が、柄を滑らせる。それでも、握りを緩めなかった。
肩で息をしながら、周囲を見渡す余裕すらない。狭い通路の中、逃げ場も隠れ場もない。ここで決着をつけるしかないのだと、否応なく思い知らされた。
視界の端に、懐の信号弾の硬貨の重みを感じる。今この瞬間でも、まだ呼ぶことができる。それでも、呼べば――この戦いは、ここで終わる。終わってしまえば、この先にある何かを、永遠に知ることができない気がした。
その考えが正しいのか、ただの意地なのか、自分でも判断がつかなかった。それでも、足は止まらなかった。
脳裏に、オスカーさんの怒号が過る。 ――肩に力が入りすぎてる。脱力しろ。 ――敵の喉元を喰い殺すつもりで見据えろ。
言われた通りに、肩の力を抜く。足の裏で地を噛み、腰を落とす。これまで何千回、何万回と繰り返してきた構えが、震える体を少しずつ落ち着かせていった。
獣が、再び地を蹴る。 今度は、僕も半歩引かなかった。
踏み込みながら、最短の軌道で刃を走らせる。かすかに、毛皮を裂く感触があった。
「――入った!」
しかし、浅い。獣の身のこなしは、僕の予想を軽々と超えていた。斬撃をいなされたと同時に、横腹へ強烈な一撃が叩き込まれる。
「がっ……!」
視界が反転する。地面に叩きつけられ、口の中に鉄の味が広がった。
(立て)
体の震えを叱咤するように、自分に言い聞かせる。立たなければ、ここで終わる。終わっていい理由なんて、どこにもなかった。
剣を支えに、僕は再び立ち上がった。
「……まだ、やれる」
獣が、わずかに目を眇めたように見えた。苛立ちか、あるいは――興味。どちらかは分からなかったけれど、相手の中に何か、小さな変化があったのは確かだった。
三度目の接触。今度は、互いに一歩も引かなかった。爪と刃が交差し、火花に似た音が闇の中に散る。獣の爪が僕の肩を裂き、僕の刃が獣の前脚をわずかに掠めた。
痛みで視界がぶれる。それでも、足だけは止めなかった。
四度目、五度目。攻防が繰り返されるたびに、互いの傷が少しずつ増えていく。獣の動きに、わずかながら乱れが見え始めていた。小さな傷の蓄積が、確かにその完璧な身のこなしを削り始めている。それでも、まだ圧倒的な差があることに変わりはなかった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
肺が焼ける。手足の感覚が、じりじりと鈍くなっていく。これまでのどの死線とも違う、底の見えない消耗戦だった。坑道の崩落も、森での牙猪との遭遇も、今この瞬間に比べればまだ余裕があったのだと、思い知らされる。
獣が、再び低く身を沈める。 次の一撃で、決着をつけるつもりなのだと、肌で分かった。
震える足に、残りの力を全て集める。 信号弾の硬貨が、握った拳の中で、冷たく存在を主張していた。
――ここで使うべきだ。 ――理性が、最後の警告を鳴らしている。
それでも、僕の目は、闇の中で淡く発光する紫の瞳から、逸れることができなかった。
「……まだ、終わらせない」
震える声で、僕はそう呟いた。 獣が、月の光を纏うように、再び跳躍の姿勢を取る。




