第19話 図鑑にない影
十三階層。 足を踏み入れた瞬間、僕はこれまでのどの階層とも違う異様な静けさに気づいた。
ホブゴブリンやスケルトンの気配すら感じられない。虫の声も、獣の息遣いも、何もない。まるで、この空間だけが時を止めているような、張り詰めた無音だった。
これまで通ってきたどの階層とも、壁の材質すら違うように見える。光苔の光も、どこか青白く、冷たい。約束を超えた深さに来てしまったという自覚と、肌で感じるこの異様な空気が、僕の足をわずかに鈍らせた。
「……誰かいるのか」
呟いた声が、やけに大きく反響する。
通路の奥、ぼんやりと光る苔の明かりが、ふいに一瞬、揺らいだ。 何かが、動いた。
僕は反射的に剣を抜き、腰を落とした。 闇の奥から現れたのは――小さな獣だった。
子猫ほどの体躯。月の光を溶かしたような、淡く発光する銀灰色の毛並み。額には、仔獅子を思わせる小さな一対の角。その瞳は、ぞっとするほど静かな、深い紫色をしていた。
見た目だけなら、どこか愛らしいとさえ言える姿だった。それなのに、間合いに踏み込んだ瞬間からずっと、全身の皮膚が粟立つような圧迫感が消えない。小さな体のどこに、こんな重さが詰まっているのか、見当もつかなかった。
「……なんだ、あれ」
図鑑で見たどの魔物にも当てはまらない。幼獣にも見えるその姿からは、しかし、これまで対峙してきたどの格上のモンスターとも比べ物にならない重圧が放たれていた。
獣が、ゆっくりと首を傾げる。 品定めをするような、静かな視線。 それだけで、僕の全身の毛が逆立った。
(逃げろ) 頭の奥で、理性がそう叫んでいる。
これまで戦ってきたどの相手とも、格が違う。本能が、肌で、骨の髄で、それを理解していた。坑道の崩落、森での牙猪の群れ、十三階層までの道中――これまで経験したどの危機とも、質そのものが異なる気配だった。
握りしめた信号弾の硬貨。今すぐ握り込めば、きっとクランの誰かが駆けつけてくれる。それが最も賢明な選択であることは、分かりすぎるほど分かっていた。
それでも――。
獣の紫の瞳と、僕の視線が交わった瞬間。
ふっと、何かが腹の底から湧き上がってくるのを感じた。 怖さを押し殺すのではなく、怖さのその向こう側に、確かに何かが見えた気がした。
――これを乗り越えたら、何が見える。
祖母の寝物語で聞いた、名も知らぬ英雄の物語。あの英雄もきっと、こうした瞬間に何度も立たされてきたのだろう。足が竦む。それでも前へ出る。その積み重ねの果てに、英雄という言葉があるのだとしたら。
「――っ!」
小さく息を吐き、僕は半歩、前に出た。
獣が、低く唸る。 次の瞬間、銀灰色の影が、信じられない速さで地を蹴った。
――速い。
反応する間もなく、鋭い爪が僕の腕を掠める。灼けるような痛みが走り、血が噴き出した。踏みとどまろうとした足が、わずかに泳ぐ。
「ぐ……ッ!」
痛みを噬み殺し、崩れかけた体勢を無理やり立て直す。獣の次の一撃が、今度は喉元を狙って迫ってくるのが見えた。
とっさに剣を立て、受ける。 ――ガギンッ!!
衝撃が両腕を痺れさせる。これまで感じたどの一撃よりも重い。木剣で何百回と打たれた、あの日々の衝撃とはまるで比較にならない。
獣が距離を取り、再び品定めをするような視線を向けてくる。 どうやら、本気ではまだ戦っていないらしい。 それだけで、この相手との隔絶した差を、嫌というほど思い知らされた。
「……まだ、だ」
震える足に力を込める。信号弾を使うべきだと、理性はまだ叫んでいる。けれど、今この瞬間、僕の中にある何かが――まだ終わっていないと、強く叫んでいた。
闇の奥で、月のように淡く発光する獣が、再び低く身を沈めた。
脳裏に、積み重ねてきた日々が次々と過ぎっていく。木剣を握り続けたあの朝、森で初めて剣を抜いたあの日、坑道の闇の中でニーナと支え合ったあの瞬間。一つ一つの記憶が、震える足に小さな力を与えてくれているような気がした。
二度目の襲撃が、今まさに始まろうとしていた。




