第15話 誰も知らない声
一階層の通路は、いつもと変わらず静かだった。それでも、背後に誰の気配もないという事実だけで、呼吸の仕方すら違って感じられる。
牙兎の群れを一匹、また一匹と確実に仕留めながら、僕は自分の呼吸と足音だけを頼りに、慎重に歩を進めた。判断はすべて自分一人。躱すか、受けるか、退くか――その一つ一つの選択に、いつもなら聞こえていたはずの誰かの声がない。
「……思ったより、怖くない」
いや、正確には違う。怖さは確かにある。けれどそれは、以前感じていた圧倒されるような怖さとは、質が違っていた。今は、怖さを自分でどう扱うかを、自分自身で決められている。そのことが、不思議な手応えとして胸に残った。
三階層、四階層と、慣れた道を一人で踏み進めていく。これまで何度も通ってきたはずの通路が、今日はまったく違う景色に見える。曲がり角の先に何があるのか、壁の向こうにどんな気配が潜んでいるのか――これまでは誰かがその判断を分担してくれていたのだと、改めて思い知らされた。
スライムの群れを躱し、キラーマウスの奇襲を剣の腹で受け流す。一つ一つの対応は、オスカーさんやニーナと一緒だった時よりも時間がかかる。それでも、確実に、自分の力で前に進んでいる実感があった。
四階層の奥、曲がり角の先から、くぐもった声が聞こえてきた。
「――っ、来ないで……!」
女性の声。しかも、かなり追い詰められている。 僕は反射的に剣を抜き、声のする方へ駆けた。
角を折れた先、壁際まで追い詰められた一人の少女がいた。淡い銀がかった青い髪、手には杖。彼女を取り囲むように、三匹のコボルトが低く唸りながら間合いを詰めている。杖の先からは、小さな光が弱々しく灯っては消えていた。――魔力切れだ。
「大丈夫ですか!」
声を張ると同時に、僕は一匹へと斬りかかった。不意を突かれたコボルトが、短い悲鳴とともに崩れ落ちる。
「後ろ、気をつけて!」
少女の声に、半歩引いて躱す。もう一匹の爪が、僕の肩口をわずかに掠めた。痛みよりも先に、残る二匹の位置を頭の中で組み立て直す。右、左――それぞれの間合いと踏み込みの角度を見切り、最短の軌道で刃を走らせた。
一匹、また一匹。コボルトたちが地に沈むまで、さほど時間はかからなかった。
静寂が戻った通路で、僕は剣を収め、少女に向き直った。
「怪我は、ありませんか」
「……ない、です。助けていただいて、ありがとうございます」
律儀な一礼。警戒心を解いたわけではないのか、どこか硬い表情のまま、少女は杖を支えに立ち上がろうとして、わずかに膝を震わせた。
「無理しないでください。魔力切れ、ですよね」
「お分かりになるんですか」
「クランの皆から色々教わってるので。……少し休みましょう」
壁際に腰を下ろすのを手伝いながら、僕は持っていた水筒を差し出した。
「ありがとうございます。……あの、お名前を伺っても?」
「ヴェルディです。《新緑の剣》という小さなクランに」
「セレンです。《青白の砂時計》に所属しています」
名乗り合うと、セレンさんはわずかに肩の力を抜いたように見えた。
「一人で潜っていたんですか」
「はい。索敵・支援系の魔法の実践練習として、浅い階層で一人になる時間を作っていました。……コボルトの群れの規模を見誤ったのが、今回の失敗です」
淡々と、しかし的確に状況を分析する口調に、僕は思わず感心した。
「僕も、今日が初めての一人潜行でした」
「そうでしたか。……それなら、お互い様ですね」
ふっと、セレンさんの口元がわずかに緩んだ。初めて見せたその表情に、なんだか少しだけ安心する。
「あの、このまま一緒に戻った方がいいと思います。魔力が戻るまで、僕が周りを見ておきますから」
「お言葉に甘えます。……助けていただいたお礼は、きちんとさせてください」
「気にしないでください。たまたま近くにいただけなので」
「たまたまでは、ありません」
セレンさんが、まっすぐに僕を見据える。
「的確な判断と、的確な太刀筋でした。偶然では、ああはいきません」
淡々とした評価の言葉に、思いのほか胸の奥が熱くなった。誰かにそう言ってもらえることが、初めての一人潜行の重さを、少しだけ軽くしてくれた気がした。
「セレンさんは、いつも一人で潜ってるんですか」
「基本的には、そうです。《青白の砂時計》は所属人数が少なく、私の年代の魔法使いは他にいません。実戦の感覚を積むには、どうしても一人で動く時間が必要になります」
「それは、不安じゃないですか」
「不安はあります。……ですが、不安だからといって、鍛錬を止める理由にはなりません」
言葉を一つ一つ選ぶように話すセレンさんの姿勢に、僕は静かな敬意を覚えた。立場も方法も違うけれど、前に進もうとする姿勢そのものは、どこか自分と重なって見えた。
「あの、僕も今日が初めてのソロだったので、お互いに無茶をしたってことになるんでしょうか」
「そうかもしれません。……ですが、無駄ではなかったと思います。こうして、新しい繋がりが生まれましたから」
硬い口調の中に、確かな温かさが滲んでいるのが分かった。
水筒の水を飲み干し、幾分落ち着いたセレンさんとともに、僕たちは地上への道を歩き始めた。初めて会った相手のはずなのに、不思議と気負わずに並んで歩けることが、自分でも少し意外だった。地上へ続く階段を上る足音が、二人分、静かに重なっていく。




