第14話 一人で踏み出す
稽古の合間、井戸端で水を飲んでいた僕は、ふとオスカーさんの言葉を思い出していた。
――いつかは一人で潜らないといけない時が来るんですか? ――来るだろうな。
六階層でのあの一言が、以来ずっと胸の奥に残っていた。誰かの背中についていくだけでは見えてこないものが、きっとあるはずだった。
「――一人で、潜ってみたいんです」
夕食の席、思い切って切り出した一言に、テーブルが一瞬静まった。
「ソロでか?」
オスカーさんが片眉を上げる。
「はい。……浅い階層からで構いません。でも、一度、自分の判断だけでどこまでやれるのか、試してみたくて」
「急にどうしたの、そんなこと」
ニーナが心配そうに眉を寄せる。
「この前、六階層で言われたことが、ずっと引っかかってて。……誰かが隣にいることに、僕はもう慣れすぎてるんじゃないかって。それが悪いわけじゃないですけど、自分一人でも判断できるようにならないと、いつまでも半分の冒険者のままな気がするんです」
本音を口にすると、思いのほかすっと言葉が出た。これまで感じていた焦りに、ようやく自分で輪郭を与えられた気がした。
「あんたらしいっちゃ、らしいけど……」
ニーナが眉を寄せたまま、それでも言葉を重ねる。
「正直、怖いのよ。あたしだって、まだソロで潜るのは怖い。あんたは加入してから、まだそんなに経ってないのに」
「それは、分かってます。だからこそ、浅い階層からって決めてます」
「わかってますって言う奴が、一番危ないのよね……」
ニーナがため息混じりに呟く。それでも、その声には完全な拒絶ではなく、心配ゆえの迷いが滲んでいた。
バルトさんが鍋をかき混ぜる手を止め、僕をまじまじと見つめた。
「坊主も、ようやくそういうことを言い出す歳になったか」
「バルトさんも、昔はそうだったんですか」
「おう、通る道だ。誰だって一度は、一人の自分を試したくなる時があるもんさ」
クレアさんが静かに頷く。
「無茶をしないという約束だけ、きちんと守ってくれるなら、私は賛成よ」
セレスティアさんが静かに僕を見つめ、それからオスカーさんに視線を移す。
「どう思う、オスカー」
「……筋は通ってる」
オスカーさんは腕を組み、しばし考え込んだ。
「ただし、条件付きだ。潜るのは一階層から五階層まで。深追いは絶対に禁止。何かあればすぐに引く。それと、潜る前と戻った後、必ず誰かに声をかけてから行け」
「わかりました」
「それと――」
オスカーさんが、僕の目をまっすぐに見据える。
「怖くなったら、迷わず逃げろ。恥じることじゃねえ。それができる奴が、一番長生きする」
「……はい」
ずしりと重みのある言葉を、僕は胸の奥にしっかりと刻んだ。
「あたしは反対……とまでは言わないけど、心配だからね。何かあったらすぐ呼びなさいよ」
「呼ぶって、どうやって」
「魔道具の緊急信号弾、持たせてあげる。ロズリーン、出し渋らないでよね」
「はいはい、わかってるわよ。あの子の命には関わる話だもの」
ロズリーンさんが席を立ち、棚の奥から小さな硬貨のような魔道具を取り出してきた。
「握って念を込めれば、空に火花が上がる仕組みよ。滅多に使うものじゃないけど、持ってるだけで安心感があるでしょ」
「ありがとうございます」
受け取った魔道具の、ひんやりとした重みが、これからの覚悟を静かに後押ししてくれるようだった。
その夜、僕は寝台の上で、何度も明日のことを思い返した。これまでは、誰かの声に支えられてここまで来た。剣を教わり、呼吸を揃え、仲間の言葉に背中を押されながら、一歩一歩を重ねてきた。けれど、今度は自分の判断だけで、ダンジョンという場所に向き合う。怖さはある。それでも、あの六階層で感じた重みを、いつまでも避け続けるわけにはいかなかった。
祖母の畑で、一人きりで鍬を振るっていた頃のことを思い出す。あの頃の自分は、誰かに頼ることすら知らなかった。今はもう違う。頼れる誰かがいることを知った上で、それでも一人で立つことを選ぶ――それが、昔の自分とは違う、今の自分なりの一歩だった。
なかなか寝付けないまま、何度も寝返りを繰り返す。窓の外に昇る月を見上げながら、僕は小さく息を吐いた。
翌朝、まだ薄暗い時間に起き出すと、すでにニーナが裏庭で水を汲んでいた。
「早いですね」
「あんたこそ。……緊張してんの?」
「少しだけ」
「上出来じゃない、それくらいの方がいいのよ。油断してる時が一番危ないんだから」
井戸端に並んで立ち、朝露に濡れた空気を吸い込む。
「坊主」
いつの間にか現れたオスカーさんが、僕の肩を軽く叩いた。
「忘れんな。怖くなったら逃げろ。それと、焦って深追いするな。今日は何も成し遂げなくていい。無事に戻ってくることだけが、お前の目標だ」
「はい」
「それだけ守れれば、十分な一歩だ。行ってこい」
ぶっきらぼうな激励に、僕は深く頷いた。
「行ってきます」
「気をつけてね。……何かあったら、絶対に無理しないこと」
「はい」
ギルドの受付で、依頼ではなく自主的な潜行である旨を告げる。受付の職員は少し驚いた顔をしたものの、「単独潜行届」という聞き慣れない書類に手早く記入を済ませてくれた。
「初めてのソロ潜行ですか?」
「はい」
「それなら、浅い階層から始めるのが賢明です。何かあれば、すぐに信号を」
「わかってます」
書類を受け取り、僕は一人、ダンジョンの入り口に立った。見慣れたはずの石造りの門が、今朝はいつもより大きく、静かに僕を見下ろしているように感じられた。
これまで、この門をくぐる時はいつも、隣にニーナかオスカーさんの気配があった。その当たり前が、今日はない。それだけのことが、不思議なほど胸を締めつける。
一歩、踏み出す。 隣に誰もいない足音が、通路に乾いた反響を残した。
これが、僕の初めての一人の冒険の始まりだった。




