第13話 街を知る
約束していた休日の朝、拠点の裏庭で軽く伸びをしていると、ニーナが私服姿で現れた。
「おはよ。……って、なにその顔」
「いえ、いつもの革鎧じゃないので、新鮮だなって」
飾り気のないシャツとスカート、腰には小さな鞄だけという軽装のニーナは、いつもの戦装束の彼女とはまるで別人のように見えた。
「稽古着でずっといるわけじゃないんだから。あたしにも、普通の格好くらいあるのよ」
ふん、と小さく胸を張るニーナに続いて、僕たちは拠点を出た。
「じゃあ、まずはギルドの方から行くわよ。……って、ギルドはもう知ってるか」
「はい。でも、朝のあの時間しか来たことがなくて」
「それじゃ、まだ半分も知らないようなもんね」
ギルドの正面には、昼前の明るい時間ということもあって、依頼書を物色する冒険者たちの人だかりができていた。
「あの掲示板、朝と昼とでだいぶ貼り出されてる依頼が違うのよ。昼前は街中の雑用系が多めで、夕方近くになると遠征系が増える」
「時間帯でそんなに変わるんですね」
「依頼主の都合もあるしね。……ほら、見てごらん。あれ、今朝あたしたちが受けた依頼と同じ掲示だったはずよ」
剥がされたばかりの跡が残る木の板を指差し、ニーナが得意げに笑う。見慣れた掲示板のはずなのに、彼女の説明を聞くだけで、少し違う景色に見えてくるのが不思議だった。
ギルドを後にして、賑やかな通りへと足を向ける。威勢のいい呼び込みの声、焼けた香辛料の匂い、露店に並ぶ色鮮やかな野菜や乾物。普段、依頼の行き帰りに足早に通り過ぎるだけだった道が、今はまったく違う速さで僕の目に映っていた。
「ほら、ここの串焼き、安くて美味しいのよ」
ニーナが銅貨を数枚払い、焼きたての串を二本受け取る。香ばしい匂いが鼻先をかすめ、思わず喉が鳴った。
「ありがとうございます」
「奢りってほどじゃないけどね。たまにはこういうのも悪くないでしょ」
頬張った串焼きは、タレの甘辛さが肉の旨味を引き立てていて、思わず頬が緩んだ。こういう何気ない時間を、これまでの自分はほとんど知らなかったのだと、改めて気づかされる。
「武具屋も、覚えてるでしょ?」
「はい。初めての剣を買った場所です」
店先を通りかかると、見覚えのある店主が軽く手を上げて会釈してきた。あの時、たった銀貨三枚の予算で悩みながら選んだ剣は、今も腰に提げている。安物だったはずのその重みが、今はもう手に馴染んだ道具としての重みに変わっていた。
「裏路地を抜けると道具屋があるのも、もう知ってるわよね」
「はい。回復薬を買いに行きました」
「上出来じゃない」
満足げに頷いたニーナは、ふと何かを思い出したように声を上げた。
「お昼、満月亭に寄っていかない? ちょうどこの時間なら、空いてるはずだし」
「いいんですか? ロズリーンさんに怒られません?」
「大丈夫よ、今日はあたしのお小遣いから出すから。……って言っても、たかが昼ごはん一回分だけどね」
扉をくぐると、昼時にはまだ早いのか、店内はほどよく静かだった。カウンターの奥から顔を出したマーゴさんが、僕たちを見るなり片眉を上げる。
「あら、珍しい組み合わせじゃない。今日はクランの仕事じゃないの?」
「休みなの。ヴェルディに街を案内してあげてるとこ」
「へえ。いい姉貴分ぶってるじゃない、ニーナちゃん」
「姉貴分って言い方、やめてくれる?」
むきになって言い返すニーナに、マーゴさんはからからと笑いながら、湯気の立つスープを二皿、無造作にカウンターへ置いた。
「サービスよ。しっかり食べて、午後もちゃんと案内してもらいなさいな、ヴェルディくん」
「ありがとうございます」
素朴な野菜スープは、具材の旨味がじんわりと染み出していて、歩き疲れた体に静かに染み渡った。奥から顔を出したティナが「あ、新人くんだ!」と手を振ってくるのに、僕も小さく手を振り返す。こうした何気ない顔馴染みが、少しずつ増えていくことが、なんだか嬉しかった。
食事を終え、再び通りへ出る。
「裏路地を抜けると道具屋があるのも、もう知ってるわよね」
「それ、さっきも言いましたよ」
「あら、そうだっけ。……まあいいわ、次はあんたがまだ知らないところに案内するわよ」
ニーナに連れられて北へ向かうと、やがて視界が開け、高台のような一角に出た。見下ろす先には、街の北端にそびえるダンジョンの入り口が、昼の光の下で静かに佇んでいる。
「ここ、たまに来るのよ。街の中からダンジョンの入り口を見られる場所、意外と少ないから」
「……こうして外から見ると、不思議な感じがしますね。あの中で、僕たちはずっと戦ってきたのに」
「でしょ? あたしも最初の頃、ここから見て、自分がよくあんな場所に潜ってるなって、他人事みたいに思ったことあるもん」
吹き抜ける風に、ニーナの髪が軽くなびく。遠くに見えるあの石造りの入り口の向こうに、これまで積み重ねてきた日々のすべてが詰まっているのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
「ニーナさんは、ここに来ると何を思うんですか」
「うーん……そうね。小さい頃、オスカーが潜ってる間、ここでずっと帰りを待ってたことがあったの。入り口を見つめながら、早く帰ってきてって、ずっと願ってた」
「それは――」
「今思えば、生意気な子供だったわよね。自分も強くなって、一緒に潜れるようになりたいって、そればっかり考えてた」
ニーナは懐かしそうに目を細め、石造りの入り口を見つめ続けていた。
「それで、冒険者になったんですね」
「ま、そんなところ。待つだけの自分が、嫌になったのよ」
さらりと返された言葉には、けれど確かな重みがあった。彼女がこれまで見せてくれなかった、もう一段深い本音に触れた気がして、僕は何も言わず、ただその横顔を見つめた。
「――って、こんな話、柄じゃないわね。そろそろ戻るわよ」
少し気恥ずかしそうに踵を返すニーナを、僕は小さく笑って追いかけた。坂を下る途中、小さな露店で見かけた蜂蜜菓子を、ニーナが「ついでだから」と一つだけ買い、半分に割って手渡してくれる。甘く濃厚な香りが、口の中にじんわりと広がった。
「来てよかったです。……ありがとうございます、案内してくれて」
「なに、急に素直じゃない。気持ち悪いからやめなさいよ」
からかうように笑いながらも、ニーナの表情はどこか満足げだった。
夕暮れが近づく頃、二人で拠点への道を戻る。串焼きの油の匂いが残る手のひらを見つめながら、僕はふと、剣を振るうことだけが冒険者としての時間ではないのだと、改めて思った。こうして街を知り、仲間と何気ない時間を重ねることも、きっとこの世界で生きていくための、大切な一部なのだろう。
拠点に着くと、裏庭でくつろいでいたオスカーさんが、二人の顔を見て片眉を上げた。
「ずいぶん遅かったじゃねえか。どこまで連れ回したんだ、ニーナ」
「ちゃんと街のこと、一通り教えてあげただけよ。文句ある?」
「別にねえよ。……ま、いい顔して帰ってきたなら、それでいいさ」
ぶっきらぼうに言いながらも、オスカーさんの口元はわずかに緩んでいた。縁側に腰を下ろしたセレスティアさんが、興味深そうに身を乗り出す。
「どうだった、ヴェルディくん。ニーナちゃんの案内は」
「楽しかったです。……街のこと、全然知らなかったんだなって、よくわかりました」
「それなら良かったわ。ふふ、この様子だと、また今度も連れて行ってもらえそうね」
含みのある笑みを浮かべるセレスティアさんに、ニーナが「別にそういう意味じゃないし」とむきになって言い返す。その賑やかなやり取りに、僕は思わず頬を緩めた。
「明日からは、また稽古に戻るわよ」
オスカーさんの一言に、僕は「はい」と頷いた。
「はい。……今日みたいな日も、たまにはいいですね」
「でしょ? また連れてってあげるから、せいぜい楽しみにしときなさい」
夕陽に染まる街並みを歩いてきた一日の記憶が、まだ胸の中に温かく残っていた。強さだけを追い求めていたはずの自分が、こうして何気ない休日の尊さを知ることができたのは、きっとこのクランに拾われたからなのだろう。そんなことを思いながら、僕は夕食の支度を始めるバルトさんの声に、小さく返事をした。




