第12話 呼吸を合わせる
朝食の席で、ロズリーンさんが帳面を片手に新しい依頼書をひらひらと振ってみせた。
「今回は七〜九階層、フォレストウルフの討伐依頼ね。毛皮の買取額がそこそこいいから、クランの懐にも優しい依頼よ」
「ようやくお眼鏡に適う依頼ってわけね」
ニーナが茶化すように言うと、ロズリーンさんは涼しい顔で肩をすくめた。
「当然でしょ。経理として、損のない依頼を選ぶのは最低限の仕事だもの」
「ヴェルディくん、気をつけて行ってきてね」
セレスティアさんが柔らかく手を振る。その見送りに背中を押されるように、僕たちは拠点を出てギルドへ向かった。
「今日の依頼は、七階層から九階層にかけてのフォレストウルフの討伐だ。群れで出る相手だから、気を抜くなよ」
ギルドの依頼書を片手に、オスカーさんが僕とニーナを順に見やる。これまでより一段深い階層帯に足を踏み入れる依頼に、胸の奥がかすかにざわついた。
「群れって、何体くらい出るんですか?」
「少なくて三、多ければ五、六ってところだな。一匹一匹は大した強さじゃねえが、連携して囲んでくる分、数の圧には気をつけろ」
「了解です」
「ま、あたしとヴェルディで息を合わせればどうとでもなる相手よ。でしょ?」
ニーナが軽く肩を小突いてくる。その気安さに、僕はひとつ頷いた。初めて彼女の背中を追いかけた森での依頼の日から、もう何度もこうして並んで歩いてきた。
六階層を過ぎ、七階層へと足を進める。通路の空気は、これまでよりわずかに重く、湿った土と獣の匂いが鼻先をかすめた。光苔の明かりも心なしか乏しく、壁の継ぎ目には古い爪痕のような傷が幾筋も走っている。
振り返れば、ここまで幾つもの依頼を経てきた。最初の森での遠征、坑道の崩落、アルフレッドさんと合流した五階層の調査、そして六階層での大百足討伐。そのどれもが、今日という日に少しずつ繋がっているのだと思うと、足元の重さすら、どこか心地よいものに感じられた。
「この辺りから、少しずつ本物の『奥』の気配になってくる。感覚、ちゃんと掴んでおけよ」
オスカーさんの声に、僕は意識して足音を殺した。踏み出す一歩一歩が、以前よりずっと静かになっていることに、自分でも気づく。
「――来た」
ニーナの声が低く落ちる。茂るように伸びた木の根の陰、何対もの光る目がこちらを見据えていた。灰褐色の毛並み、低く構えた姿勢。フォレストウルフの群れだった。
「四匹か。坊主、左の二匹を頼む。ニーナは右だ。俺は後ろで見てる」
「はい!」
「りょーかい」
剣を抜き、腰を落とす。一匹が地を蹴って飛びかかってくるのを、半歩引いて躱し、返す刃で薙ぎ払う。もう一匹が間を置かず横から牙を剥いてくるのを、視界の端で捉えた。
「ヴェルディ、そっち右!」
ニーナの声が飛んだ瞬間、僕は迷わず体を開いていた。言われてから考えるのではなく、言われた瞬間にはもう動き出している――そんな感覚だった。彼女の声と自分の判断の間に、ほとんど隙間がない。
「っ――!」
斬り込んだ刃が、狼の脇腹を捉える。手応えとともに一匹が沈み、残る一匹も、体勢を崩したところへ追撃を叩き込んで片付けた。
視線を上げると、ニーナも自分の二匹をちょうど仕留め終えたところだった。彼女と目が合う。言葉はなかったけれど、どちらからともなく小さく頷き合った。
「――まだいるぞ! 奥から二匹!」
オスカーさんの声に、安堵しかけた体を叱りつけるように引き戻す。木陰から新たに姿を現した二匹は、仲間を討たれた怒りからか、先の四匹よりも低く構え、唸り声を上げていた。
「ヴェルディ、挟まれる前に前に出て!」
ニーナの声が、今度はいつもより一瞬早い。考える間もなく、僕は言われた通りに踏み込んでいた。一匹の突進を正面から受け止め、刃を押し込む。もう一匹がその隙を狙って横から牙を剥く――その動きを、僕ではなくニーナの細剣が先に捉えていた。
「そっちは任せて! あんたは自分の分だけ見てなさい!」
視界を広く保ちすぎて、逆に目の前の一匹への集中を欠いていた自分に気づく。言われた通り、目の前の敵だけに意識を絞った瞬間、剣先が吸い込まれるように狼の頸を捉えた。
ガッ、と重い感触。地に沈んだ獣を見下ろし、僕は肩で大きく息をついた。危なげに見えた一幕だったが、崩れることなく乗り切れた。それは、自分一人の力ではなく、ニーナの声を信じて動けたからこそだった。
「――悪くねえな。今のは、ちゃんと噛み合ってたぞ」
後ろで見ていたオスカーさんが、腕を組んだまま満足げに鼻を鳴らす。
「噛み合ってた、ですか」
「ああ。最初の森の依頼の時は、お前、ニーナの声より先に自分の判断で動いちまって、二度ほど危なかったのを覚えてるか」
「……うっ、覚えてます」
苦笑いするしかなかった。あの頃の自分は、目の前の敵しか見えていなかった。仲間の声を信じて、その通りに体を動かすということが、まだできていなかったのだと思う。
「それが、今はちゃんと声を聞いて動けてる。……まあ、これも積み重ねの結果ってやつだな」
「そうそう。最初のあんたなんて、あたしが右って言ったのに左に飛んでいって肝冷やしたこと、何度あったか」
「それ、言わなくていいです……」
からかうようなニーナの声に、僕は思わず頬を熱くした。それでも、こうして振り返ってもらえるほど、自分たちの間に積み重ねてきたものがあるのだと思うと、不思議と誇らしい気持ちになる。
残る群れの気配はなく、周囲には静寂が戻っていた。討伐証明として毛皮を剥ぎ取り、麻袋にまとめる作業も、今ではすっかり手慣れたものになっている。
「よし、今日の分はこれで十分だ。切りのいいところで引くぞ」
「もう少し深くまで、とかじゃないんですね」
「無理に欲張るのが一番マズい。今日みたいにちゃんと息が合ってる時に、潮時を見極めて帰る――それも大事な判断の一つだ」
オスカーさんの言葉に、僕は素直に頷いた。強くなることは、前のめりに突き進むことだけではないのだと、今ならわかる気がした。
地上への帰路、夕暮れの通路を歩きながら、ニーナがふと口を開いた。
「ねえ。思ったより早く終わったし、明日、ちょっと休みにしない?」
「休み、ですか」
「たまにはいいでしょ。……あんた、加入してからこっち、依頼と稽古ばっかりで、街らしい街、まだちゃんと見てないんじゃない?」
言われてみれば、確かにその通りだった。ギルドと武具屋、道具屋くらいしか、まだ足を運んだことがない。
「それじゃ、あたしが案内してあげる。フェルンハイムの街、ちゃんと知っといた方がいいわよ」
「お願いします」
思わず頬が緩んだ。初めて会った日は、ただ圧倒されるばかりだった彼女の背中。それが今は、こんな当たり前の提案を、気負いなく口にできる相手になっている。
「決まりだな。明日は休みだ、二人とも」
オスカーさんの一声に、僕とニーナは顔を見合わせ、小さく笑い合った。
拠点に戻ると、厨房からはすでに夕食の匂いが漂っていた。
「おかえり! どうだった、フォレストウルフは?」
バルトさんが鍋をかき混ぜながら声を張る。
「六匹、ちゃんと仕留めてきました」
「へえ、やるじゃん」
麻袋から取り出した毛皮の束を、ロズリーンさんが手早く数えて帳面に記していく。
「状態もいいわね。この分なら、思ってたより買取額が上がるかも」
「でしょ? あたしたちの働きに感謝しなさいよね」
得意げに胸を張るニーナに、ロズリーンさんは「はいはい」と素っ気なく返す。その様子に、クレアさんがくすりと笑いながら温かいスープを差し出してくれた。
「ヴェルディくん、今日はどこか無理してない? 顔色、よさそうだけど」
「はい。今日はあまり無茶な場面もなかったので」
「それは何より」
柔らかく微笑むクレアさんの隣で、セレスティアさんが興味深そうに身を乗り出す。
「それで、明日は二人で街を見て回るのね?」
「はい。ニーナさんに案内してもらうことになりました」
「いいじゃない。……ふふ、楽しみにしてなさいな」
どこか含みのある笑みを浮かべるセレスティアさんに、僕は少し首を傾げたけれど、深くは追及しないことにした。
夕食の喧騒の中、僕はふと、七階層で交わしたあの一瞬の呼吸を思い出す。声を聞き、信じて動く。剣の技術とはまた違う、けれど確かに積み上げてきたものが、今日もひとつ、この手の中に残っていた。
ひとりだった頃は、こんな当たり前の夕食の席すら、想像したことがなかった。けれど今は、この賑やかさの中に、自分の居場所がある。それだけで、十分すぎるほどの実感だった。




