第11話 二度目の刻印
「今日は、更新に行くぞ」
朝食の席で、オスカーさんが唐突に切り出した。
「更新……って、あの、二階層の神殿ですか?」
「ああ。もうそろそろ頃合いだろ。ここ数週間、坊主が積んできた経験値、そろそろ形にしてやらねえとな」
セレスティアさんがパンを頬張りながら、うんうんと頷く。
「ヴェルディくん、加入してからずっと走り続けてたものね。ここいらで一度、ちゃんと自分の成長を数字で確かめておくのもいいと思うわ」
「みんな、そんなに見ててくれたんですね」
「当たり前でしょ。クランの一員なんだから」
さらりと返されたその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
胸の奥が、ドクンと跳ねた。あの日、初めて自分の「無」を思い知らされた場所。牙兎にすら勝てなかった、何者でもない自分。あれから幾つもの依頼をこなし、幾つもの夜を越えてきた今、あの祭壇はどんな数字を映し出すのだろうか。
「行きましょう、ヴェルディ」
セレスティアさんの声に、僕は静かに頷いた。
二階層への道のりは、もうすっかり見慣れたものだった。最初にここを歩いた時の、あの息苦しいほどの緊張は、今はどこにも見当たらない。それでも、荘厳な祭壇の前に立つと、あの時と同じ厳粛な静けさが、僕の背筋を自然と伸ばさせた。
「さあ、ヴェルディくん。手を」
促されるまま、祭壇に手をかざす。 ――ヒカッ。 淡い燐光が指先から立ち上り、身体の奥に眠っていた何かが、静かに目を覚ましていくのが分かった。頭の中に、光の文字が浮かび上がる。
【ヴェルディ Lv.1】 筋力:18(E) 俊敏:16(E) 耐久:17(E) 魔力:2(E) 精神:15(E) 器用:19(E)
「――これが、僕の……」
まだ全項目Eランクのまま。それでも、ほとんど0に近かったあの日の数字とは、確かに違っていた。
あの日、祭壇の前で膝をつきそうになった自分を思い出す。何もない、何者でもない自分を突きつけられて、惨めさに唇を噛んだ。あれからまだ、ひと月も経っていないはずだった。それなのに、目の前に浮かぶ数字は、あの頃より確かな重みを持って感じられた。
「順調に伸びてるじゃない。ランクこそまだEだけど、この短期間でこれだけ動いたのは、なかなかのもんよ」
隣で数値を覗き込んだニーナが、感心したように口笛を吹いた。
「……ありがとうございます。オスカーさんの稽古のおかげです」
「稽古だけじゃねえよ。お前自身が、泥臭く積み上げた結果だ」
ぶっきらぼうな一言が、じんわりと胸に染みる。
「まあ、まだEはEだ。浮かれてんじゃねえぞ」
「は、はい。分かってます」
釘を刺すようなオスカーさんの言葉に、僕は慌てて背筋を伸ばした。それでも、確かに前に進んでいるという実感だけは、胸の奥にしっかりと残っていた。
「よし、数字も新しくなったところで、今日はもう一段深く行ってみるか」
オスカーさんの提案に、僕は思わず身を乗り出した。
「深く、というと」
「六階層だ。まだ坊主には少し早いが……まあ、今の数字なら、俺たちが後ろについてりゃ問題ねえだろ」
六階層への道は、これまでとは明らかに空気が違った。通路の幅は狭くなり、光苔の明かりも心もとない。時折、遠くから響く低い唸り声に、僕は思わず身を強張らせた。
「――ちょうどいい機会だ。坊主、覚えとけ」
歩きながら、オスカーさんが不意に声を落とした。
「一人でここに潜るってのが、どれだけ危険か分かるか?」
「え……」
「今は俺やニーナが周りを警戒してる。だが、たった一人でこの階層に潜ったらどうなる? 索敵、戦闘、判断――全部を、たった一人の頭と体でこなさなきゃならねえ」
低い声が、狭い通路に静かに響く。
「疲労で反応が遅れりゃ、それだけで終わりだ。誰も背中を守っちゃくれねえ。……助けを呼ぶ声すら、届かねえ場所もある」
「……それは」
「脅してるわけじゃねえぞ。ただの事実だ。ソロで潜る冒険者もいるにはいるが、あれは何年もかけて場数を踏んだ奴らがやることだ。今のお前が一人で来たら、五分と持たねえ」
淡々と語られるその言葉には、けれど確かな重みがあった。オスカーさん自身が、これまで何度も死線を潜り抜けてきたことを、僕は嫌というほど知っている。
「それでも、いつかは一人で潜らないといけない時が来るんですか?」
思わず尋ねると、オスカーさんは少し考えるように間を置いた。
「来るだろうな。パーティじゃ組めない依頼、自分の判断だけで動かなきゃならねえ場面……冒険者として長くやってりゃ、必ずぶつかる壁だ」
「その時のために、今は何をすればいいんでしょうか」
「今日みたいに、一つ一つ積み上げることだよ。焦って一人で突っ込むのが一番の馬鹿だ。……備えができてねえまま飛び込むのと、備えた上で飛び込むのとじゃ、天と地の差がある」
その言葉を、僕は胸の奥にそっとしまい込んだ。
「肝に銘じておきます」
「ああ、そうしろ。……まあ、いつかは一人で潜る日も来るだろうがな。その時は、今日みたいに震えてる暇なんかねえぞ」
不敵に笑うオスカーさんの言葉に、僕は小さく頷いた。震えていたのは、恐怖だけではなく、この場所の重みを肌で感じ取っていたからだと、今なら分かる。
「――止まれ。来るぞ」
前方の闇から、複数の気配が滲み出てくる。大百足の群れだった。
「今日の依頼は、この大百足の甲殻を、規定数納品することだ」
「ヴェルディ、前に出て。オスカーは後ろで見といてよ」
ニーナの指示に、僕は剣を構え直した。伸びたばかりの数値が、この一瞬でどれほどの意味を持つのか、まだ実感は薄い。それでも、以前より確かに軽くなった剣の重みが、僕の背中を静かに押していた。
甲殻を纏った長い体軀が、地を這うように迫ってくる。ガチガチと牙を打ち鳴らす音が、狭い通路に反響した。
息を吸い、腰を落とす。オスカーさんに叩き込まれた最短の軌道。 ――踏み込め。
刃が甲殻の継ぎ目を捉え、確かな手応えとともに一匹が沈む。二匹目が横合いから襲ってくるのを、半歩引いて躱し、返す刃で薙ぎ払った。以前なら、避けることだけで精一杯だったはずの動きが、今は自然と身体から出てくる。
「いいぞ、その調子だ!」
背後から響く声援に押されるように、僕は次の一匹へと向き直った。
六階層での依頼を終え、地上への帰路につく頃には、全身が汗と土埃にまみれていた。それでも、以前とは違う、確かな充実感が胸の中に残っていた。
「今日はよく頑張ったな」
オスカーさんの一言に、僕は素直に頷いた。数字が伸びたこと以上に、この一歩を確かに踏み出せたことが、何より嬉しかった。
「なんか、今日の坊やちょっと格好良かったじゃん」
ニーナが茶化すように肩をぶつけてくる。
「か、格好良かったって……」
「素直に受け取っときなさいよ、こういうのは」
からかうような笑みに、僕は照れくささを誤魔化すように歩調を速めた。
夕暮れの街道を歩きながら、僕はふと、さっきの言葉を思い返す。 ――いつかは一人で潜る日も来る。 その日がいつになるのか、今の僕にはまだ分からない。けれど、その日が来た時、今日感じたこの重みを、決して忘れないでいようと思った。




