第八話 温かいスープ
朔夜は厨房へ入る。
とはいえ、特別な材料があるわけではない。
転移前に仕込んでいたスープと、少しのパン。
本来なら、まかないにする予定だったものだ。
「……でも、今はこっち優先だよな」
鍋を温め直しながら、小さく呟く。
後ろでは、静かな店内BGMが流れていた。
見知らぬ異世界。
なのに黒猫亭の中だけは、不思議なくらいいつも通りだった。
ぐつぐつ、と。
スープが優しい音を立てる。
その香りが広がった瞬間。
カウンター席の男が、小さく息を呑んだのが分かった。
「……いい匂いだ」
どこか、懐かしむような声だった。
朔夜は湯気の立つスープ皿を持ってカウンターへ戻る。
「お待たせしました」
男の前へ皿を置く。
野菜と鶏肉を煮込んだ、シンプルなスープ。
けれど、その湯気は妙に温かく見えた。
男はしばらく黙ってそれを見つめる。
そして恐る恐る、スプーンを口へ運んだ。
「…………」
動きが止まる。
次の瞬間。
強張っていた男の肩から、ゆっくり力が抜けていった。
「……あぁ」
小さく漏れた声。
それは感嘆というより、“安心”に近かった。
男は黙ったまま、もう一口飲む。
その度に、険しかった表情が少しずつ和らいでいく。
「うまい……」
ぽつりと呟かれた言葉。
朔夜は少しだけ目を丸くした。
別に特別な料理じゃない。
日本では、ごく普通のスープだった。
けれど男は、まるで長い旅の果てにようやく辿り着いたみたいな顔をしている。
「こんなに落ち着いて飯を食ったの、いつぶりだろうな……」
疲れ切った声だった。
その言葉を聞いて。
朔夜の胸の奥が、少しだけ温かくなる。
ああ。
こういう顔を見たかったんだ、と。
カウンターの上では、クロノが静かに丸くなっていた。
まるで、
“それでいい”
と言うみたいに。
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