第七十一話 厨房からの甘い誘惑
翌朝、いつもと変わらない爽やかな朝の光が
黒猫亭の店内に差し込んでいた。
朔夜はいつものように、開店前の仕込みを黙々とこなしていく。
珈琲豆を挽き、お湯を沸かし、
焼き立てのパンの香りが店内に満ちていく。
ふと厨房の冷蔵庫を開けると、昨夜仕舞い込んだ
ルリリンゴのソースを小分けにした容器が目に入る。
神様の「店を守る権限」によって、
出来立てと全く変わらない鮮やかな瑠璃色のまま、
そこに静かに収まっていた。
(今日の夕方には、レインさんが見本の瓶を持ってくるな)
そんなことを考えながら、朔夜は冷蔵庫の重い扉を
静かにしっかりと閉めた。
◆
やがて昼時を迎え、店にはいつものように
お腹を空かせた常連の男性客たちが次々とやってくる。
「うっす、マスター! 今日も珈琲と、
いつものサンドイッチを頼むわ!」
元気よくドアを開けて入ってきた彼らは、
カウンターのいつもの席にどっかと腰を下ろすと、
ふと、何かを察知したように鼻をぴくぴくと動かした。
「……ん? なぁマスター」
「どうしました?」
サンドイッチの具材を準備していた朔夜が顔を上げると、
男たちは厨房の奥を覗き込むようにして、
さらに深く息を吸い込んでいる。
◆
「なんかさ……気のせいか、ここ数日、
この厨房の奥から、嗅いだことのないすげえ良い香りがしねえか?」
「香りが、ですか」
「おう。いつも通りの美味そうな珈琲やパンの匂いに混じってよ、
なんかこう、もの凄く濃厚で、
それでいてすっきりした、果物みてえな甘い匂いだ」
毎日通ってくれているだけあって、鼻が非常に利く。
昨夜、ルリリンゴを鍋で煮詰めた際に出た
上質な甘い香りの残り香を、僅かに感じ取ったらしい。
カウンターの隅では、昨夜その果肉のおねだりに成功したクロノが、
「ふふん」と自慢げに喉を鳴らして客たちを見つめていた。
◆
「あ、俺もそれ気になってたんだよ」
隣の席の客も、「だろ?」とばかりに身を乗り出してくる。
「普段のお菓子の匂いともちょっと違うっていうか……。
なぁマスター、もしかしてまた何か、
とんでもなく美味いもんを隠してんじゃないのか?」
常連たちの食い気気味な視線に、
朔夜は困ったように肩をすくめ、悪戯っぽく微笑んだ。
「隠してはいませんよ。ただ、ちょっとね」
「なんだよ、思わせぶりだな! 教えてくれよ!」
◆
「もう少ししたら、ちゃんとお披露目します。
近いうちに、面白い期間限定の新メニューを出す予定ですから、
楽しみに待っていてください」
「新メニュー!? しかも期間限定だと!」
男たちは目を輝かせ、ごくりと喉を鳴らした。
「絶対に食うからな!」と息巻く常連たちに、
「はいはい」と苦笑しながら、朔夜は出来立てのサンドイッチを差し出す。
まだこの世界の誰も見たことがない、あの瑠璃色のデザート。
お客さんたちの期待に満ちた反応に、
朔夜の胸の中にも、静かな高鳴りが宿り始めていた。




