第六十四話 揺れる影と小さな灯火
静かな夜が、黒猫亭を深く包み込んでいた。
すでに営業時間は終わり、外の通りからは人影が消えている。
朔夜はカウンターの中で、今日使った食器を
一枚ずつ丁寧に洗い、柔らかい布で拭き上げていた。
ふと、手元が暗くなったような気がして、朔夜は手を止める。
「……おや」
カウンターの上のランプは、いつも通り静かに灯っている。
だが、その光が作る「影」が、不自然に波打つように
ゆらゆらと揺れていた。
「にゃ」
いつの間にか、クロノがカウンターの真ん中に立ち、
じっと壁の影を見つめていた。
その金色の瞳が、夜の闇の中でいつも以上に
妖しく、そして深く輝いている。
◆
次の瞬間、壁に伸びるクロノの影が、
まるで強い意志を持つかのように、ゆっくりと壁から剥がれ落ちた。
漆黒の影は、音もなく床へと滑り降りる。
それは丸みを帯びた、小さな黒猫の形をしていた。
クロノが一度、静かに前足を上げると、
影の猫もまた、全く同じ動きで前足を上げる。
「クロノ、また影を動かしているのか」
朔夜は特に驚く風でもなく、
呆れたような、けれどどこか優しい声をかけた。
異世界に来て間もない頃にも、
一度だけこの不思議な力を見たことがあった。
クロノの影は、ただの光の遮りではない。
彼の意志に寄り添い、時に別の形へと変化する
不思議な「もう一つの体」のようなものだった。
影の猫は、床の上をすうっと滑り、
カウンターの席へと滑り上がる。
そして、今日ガルドが座っていた椅子の下へと潜り込むと、
隙間に落ちていた小さな何かを包み込むようにして、
カウンターの上まで這い上がってきた。
◆
影の猫が、カウンターの上で静かに形を溶かす。
影が消えた後に残されたのは、
小さな、鈍い銀色に光るボタンのような金属の留め具だった。
ガルドの鎧か、あるいはマントの装飾が
いつの間にか外れて落ちていたらしい。
「ガルドさんの落とし物か。気づかなかったな」
影の猫は、役目を終えたとばかりにクロノの足元へと戻り、
静かに元の「普通の影」へと溶けて重なった。
「にゃあ」
クロノは、どうだとばかりに喉を鳴らし、
朔夜を見上げて尻尾をぴんと立てた。
「お手伝いのつもりか? ありがとな」
朔夜がクロノの小さな頭を優しく撫でると、
クロノは嬉しそうに目を細めた。
この店を、そしてここに集まる人々を静かに見守る、
賢くて、少しだけ特別な相棒。
◆
朔夜は、クロノが教えてくれた金属の留め具を手に取り、
明日ガルドが来たときに渡せるよう、カウンターの隅に置いた。
この店が、なぜ異世界に転移したのか。
そして、クロノが持つこの「影を操る力」が、
この世界とどう繋がっているのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
けれど、クロノがその力を、店や誰かを脅かすために
使わないことだけは、朔夜にはよく分かっていた。
「そろそろ、寝るか」
「にゃ」
ランプの火を吹き消すと、店内は一瞬にして
深い闇に包まれた。
けれど、クロノの金色の瞳だけは、
暗闇の中でいつまでも、道標のように温かく輝き続けていた。




