第六十三話 夕暮れの寄り道
新しくメニューに加わったスパイスケーキは、
常連たちの間で、早くも静かな評判を呼び始めていた。
夕刻、少し涼しくなった風が、
黒猫亭の窓から入り込み、白いカーテンを優しく揺らす。
カラン。
扉の鈴が、ゆっくりと鳴った。
入ってきたのは、衛兵の任務を終えたばかりのガルドだった。
いつもの無骨な鎧の上から、
今日は珍しく、薄手のマントを羽織っている。
「いらっしゃいませ。今日はお仕事帰りですか?」
「おう。街の外を少し回ってきてな。
身体の芯が、どうにも妙に冷えちまってる」
ガルドは大きな体を揺らしながらカウンターに座り、
軽く自分の肩を叩いた。
「サクヤ、あいつが言ってた
『新しい香りの菓子』ってのはまだあるか?」
「ええ、スパイスケーキですね。ございますよ」
「じゃあ、それと……いつものやつを頼む」
◆
朔夜は静かに頷き、仕込みを始めた。
夕暮れの店内に、コーヒー豆を挽く規則正しい音が
心地よく響き渡る。
そして、先ほど焼き上がったばかりの
スパイスケーキを丁寧に切り分け、皿へと乗せた。
コト、とガルドの前に置かれた、
深い琥珀色のコーヒーと、きつね色のケーキ。
「いただきます、だな」
ガルドは大きな手で小さなフォークを器用に持ち、
まずはスパイスケーキを一口、口に運んだ。
「……ほう」
噛みしめた瞬間、ガルドの目がわずかに見開かれた。
ただ甘いだけではない。
ほんのりとしたスパイスの熱が、
喉の奥からじんわりと、冷えていた体に染み渡っていく。
「こいつは、ただの菓子じゃねえな。
じんわりと熱が巡るような……不思議な感覚だ」
「仕入れたスパイスが、身体を温める効果のある
ものだったようです。冬場や、冷えた夕方にはぴったりかと」
朔夜が平然と説明する傍らで、
ガルドは熱いコーヒーを一口すする。
コーヒーのコクと、スパイスの爽やかな余韻が
口の中で完璧に混ざり合い、
ガルドの大きな肩が、すとんと下りた。
◆
「にゃあ」
いつの間にか、クロノがカウンターの上を歩いてきて、
ガルドの腕のすぐそばに、ちょこんと座り込んだ。
金色の目を細め、静かにガルドを見つめている。
「なんだ、お前も美味そうだと思うか?
だが、これはお前には刺激が強すぎるな」
ガルドがいたずらっぽく笑うと、
クロノは「知っている」とでも言うように、
一度だけ小さく鼻を鳴らした。
そして、ガルドのマントの裾を、
前足で優しく、ふみふみと踏み始める。
「……おいおい、生地が傷むぞ」
口ではそう言いながらも、
ガルドの表情は、完全に緩みきっていた。
クロノの小さな体温が、マントを通して
ガルドの手元をじわじわと温めていく。
外の通りでは、家路を急ぐ人々の足音が
少しずつ遠ざかり始めていた。
黒猫亭の窓から差し込む夕日は、
店内を濃いオレンジ色に染め上げている。
◆
「ふう、生き返ったな」
ケーキの最後の一切れを口に放り込み、
コーヒーを最後の一滴まで飲み干したガルドが、
深く、満足そうに息を吐き出した。
「やっぱり、ここに来ると、
一日の終わりの格好がつくな」
「ただの喫茶店ですが、そう言っていただけると光栄です」
朔夜が空いた皿を下げながら言うと、
ガルドは嬉しそうに口元を緩め、代金を置いた。
「またな、クロノ。お前も風邪をひくなよ」
「にゃ」
クロノはガルドを見送るように、
一度だけ尻尾をパタパタと振った。
カラン、と鈴の音が鳴り、扉が閉まる。
夕闇がゆっくりと街を包み込んでいく中、
黒猫亭のカウンターには、
まだ、温かいスパイスの香りが優しく残っていた。




