第六十二話 旅の余韻と新しい香り
からりと晴れた日の午後。
黒猫亭のカウンターには、いくつかの小さな木箱が並んでいた。
先ほど、なじみの商人であるレインが、
仕入れから戻ったその足で届けてくれたスパイスの数々だ。
「これ、次の旅先で手に入れたものなんだけど……
サクヤなら、何か面白い使い方を思いつくんじゃないかと思ってね」
そう言って置いていかれた木箱からは、
ほんのりと甘く、少しだけ刺激的な、
異世界ならではの不思議な香りが漂っている。
朔夜は木箱を一つずつ開け、指先で触れて匂いを確認していく。
日本のスパイスに例えるなら、シナモンやカルダモン、
それにほんの少しのクローブを混ぜ合わせたような、
どこか懐かしくも新しい香りだった。
「にゃあ」
カウンターの端で、クロノが不思議そうに鼻をひくひくさせている。
未知の香りに警戒しているというよりは、
「何を作っているのか」と興味津々の様子だった。
◆
「クロノ、ちょっと匂いが強いかもしれないな」
朔夜はそう言いながら、
クロノから少し離れた場所で、新しいメニューの試作に入った。
用意したのは、これまでに研究を重ねてきた「焼き菓子」の生地。
そこに、レインから受け取ったスパイスを
ほんの微量だけ、すり潰して混ぜ込んでいく。
焼き上がりの香りを想像しながら、
分量を細かく調整していく時間は、朔夜にとっても心が躍る瞬間だった。
やがて、生地を型に流し込み、温めておいたオーブンへ。
数分もすると、店内に今までにない、
香ばしくも深く甘い香りが満ちていった。
「にゃお」
クロノが待ちきれないといった様子で、
カウンターの上から、調理場の様子がのぞける棚へと飛び移る。
金色の目を輝かせ、焼き上がりの瞬間をじっと待っていた。
◆
チリン、とオーブンのタイマーが鳴る。
取り出したのは、綺麗なきつね色に焼き上がったパウンドケーキ。
熱が通ることで、スパイスの尖った香りが丸みを帯び、
小麦とバターの香りと見事に調和していた。
「……いい香りですね」
朔夜は、粗熱が取れるのを待ってから
ケーキを薄く切り分け、一口サイズにして口に運んだ。
しっとりとした生地の中に、
鼻に抜ける爽やかなスパイスの余韻。
これまでの定番だった優しい甘さの焼き菓子とは一味違う、
少し大人の、贅沢な味わいだった。
「にゃ」
足元から、抗議するような短い鳴き声が聞こえる。
見下ろすと、クロノが「自分だけずるい」とでも言いたげな顔で
朔夜のズボンの裾を、前足でちょんちょんと叩いていた。
「これはスパイスが入っているから、クロノは駄目ですよ」
朔夜は苦笑しながら、クロノ用にあらかじめ作っておいた、
スパイス抜きの丸い焼き菓子の端を少しだけ千切って差し出した。
クロノはそれを嬉しそうに咥えると、
自分のいつもの特等席へと戻り、美味しそうに食べ始めた。
◆
カラン。
陽が少し傾き始めた頃、静かに鈴が鳴る。
入ってきたのは、仕入れの片付けを終えたばかりのレインだった。
「サクヤ、さっきのスパイスはどうだったかい?」
レインは鼻をひくひくとさせ、店内の香りに目を丸くした。
「……素晴らしいな。もう何かを作ったのかい?」
「ええ、ちょうど焼き上がったところです。
味見をしていただけますか?」
朔夜が、切り分けたスパイスのケーキと、
いつものブレンドコーヒーを差し出す。
レインは「喜んで」とフォークを手に取り、
ケーキを一口、口へと運んだ。
「お……!」
レインの顔が、驚きと喜びでパッと明るくなる。
「これはすごいね。スパイスの個性を殺さずに、
ケーキ全体の甘みを引き立てている。
ブレンドコーヒーの深みとも、完璧に調和しているよ」
「気に入っていただけて良かったです。
これなら、新しい定番メニューにできそうですね」
レインは何度も頷きながら、嬉しそうにコーヒーを流し込んだ。
自分が運んできたものが、朔夜の手によって
これほど素晴らしい「居心地の良さ」に変わる。
それは商人として、そしてこの店の常連として、
何よりも誇らしいことだった。
窓の外では、夕暮れの赤い光が街を静かに染めていく。
新しい香りに包まれた黒猫亭のカウンターで、
二人の穏やかな会話と、クロノの小さな寝息が
いつまでも優しく重なり合っていた。




