第六十話 雨音と温もり
朝から降り続く雨が、黒猫亭の窓を静かに叩いていた。
外の通りを行き交う人々の足取りは早く、皆一様に
首をすくめて、雨から逃げるように走り去っていく。
こんな雨の日は、客足が途絶える。
朔夜は静かな店内で、いつもより多めに
焼き菓子の仕込みをすることにした。
オーブンから漂う甘い小麦の香りが、
少しひんやりとした店内の空気を暖めている。
「にゃ」
クロノはカウンターの隅に置かれた、
乾いたタオルの上で、丸くなって眠っていた。
時旧、窓を叩く雨の音が強くなると、
耳だけをピクピクと動かしている。
◆
カラン。
お昼を過ぎた頃、静かに鈴が鳴った。
入ってきたのは、フードを目深に被った一人の女性だった。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、女性は濡れたフードをそっと外した。
肩まである薄茶色の髪が、雨に濡れて少し束になっている。
初めて見る顔だった。
女性は寒そうに体を小さく震わせながら、
店内を頼りなげに見回し、一番奥の席へ腰を下ろした。
朔夜はすぐに、乾いた温かい布巾を差し出した。
「よろしければ、髪や服を拭くのにお使いください」
「あ……ありがとう、ございます」
受け取った女性の手は、白く、冷え切っていた。
少し震える手で、じっと差し出された布巾を握りしめている。
「ご注文は、いかがいたしますか?」
「えっと……あまり、苦くないもので、
体を温められるものはありますか……?」
朔夜は、彼女の濡れた肩と、少しこわばった表情を見た。
雨の冷たさに打たれ、体だけでなく心まで
冷え切ってしまっているようだった。
「温かいココアはいかがですか?
甘さを調整できますが」
「……じゃあ、少し甘めで、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
◆
朔夜はすぐに湯を沸かし、
手鍋にミルクと良質なココアパウダーを合わせた。
丁寧に混ぜ合わせ、優しく泡立てていく。
いつもより少し多めに入れた砂糖が、
ココアの深い香りと混ざり合い、店内にまろやかに広がった。
その甘い匂いに、眠っていたクロノがゆっくりと目を覚ました。
タオルの上から降りると、音もなく床を歩き、
女性が座る奥の席へと近付いていく。
「わ……」
女性が、足元に近寄ってきた黒い影に気付いて
小さく声を上げた。
クロノは女性を見上げるでもなく、
ただその足元で、そっと寄り添うように丸くなった。
「ねこ、さん……」
冷えていた彼女の足元に、クロノの確かな体温が伝わっていく。
女性は、そっと手を伸ばした。
指先が漆黒の毛並みに触れる。
クロノは嫌がることもなく、静かに目を細めて
その冷たい指先を温めるように、じっとしていた。
「お待たせいたしました。甘いココアです」
テーブルに置かれたカップから、
真っ白な湯気が立ち上っている。
「いただきます……」
◆
女性は両手でカップを持ち、ふーふーと息を吹きかけながら、
ゆっくりとココアを一口含んだ。
喉を通る、濃厚な甘さと温かさ。
じんわりと、強張っていた胃のあたりから
熱がじわじわと体全体へ染み渡っていく。
「あたたかい……」
女性の口から、張り詰めていたため息が零れ落ちた。
それと同時に、彼女の強張っていた肩の力が
すとんと抜けていく。
「雨宿りのつもりで入ったんですけど……
こんなに甘くて温かい飲みもの、初めて飲みました」
女性は少しだけ、はにかむように笑った。
朔夜は「ありがとうございます」と静かに微笑み、
それ以上は何も聞かず、カウンターへと戻った。
ただ、窓の外を眺めながら、
静かにココアを飲む彼女の時間だけが流れていく。
足元では、クロノが静かに寄り添い続けていた。
やがて、ココアを飲み終えた彼女が立ち上がる頃には、
外の雨はすっかり小降りになっていた。
店を出ていく彼女の表情は、入ってきた時よりも
ずっと柔らかく、温かそうだった。
「ごちそうさまでした。また、来ます」
「お待ちしております」
カラン、と鈴が鳴り、扉が閉まる。
クロノは満足そうに一度だけ「にゃ」と鳴き、
再びカウンターの上のタオルのへと戻っていった。
雨の日の黒猫亭には、
まだ、優しいココアの香りが残っていた。




